第11楽章「眠れる城」
ヘレナ、という少女の言い分を信じるのならば、街に出なければならない。
それに対して森のポケモン達は抗議した。
一人のニンゲンのために、お前が危険を冒す事はないと。
「ありがとう。でもボクは、この森に来た人を見過ごせないよ。それは、彼女もまた、ボクと同じだからだ」
ヘレナは同行していたダルマッカに手を当てている。掌から桃色の光が浮かび上がり、ダルマッカの傷を癒していた。
話に聞いた事がある。
万物に宿る共通概念――波導。
波導の中には他者を癒すものも存在するという。ヘレナという少女は、波導を操れるのだ。
「ヘレナ。キミは波導を使えるんだね」
その言葉にヘレナは面を伏せた。
「……気味が悪いから、使うなって、よく殴られたけれど」
「気味が悪いなんて、とんでもない。素晴らしい能力だ」
彼の言葉にヘレナは涙を浮かべる。それでも拭い去れない記憶があるのだろう。
「でも……こんな力さえなければ、バーベナも私も、迫害される事なんてなかった。魔女だ、って呼ばれて、大勢の大人達に酷い目に遭わされる事もなかったのに」
きっとこの世の地獄を見て来たに違いない。彼は首肯し、言葉を紡ぎ出した。
「バーベナを助けに行く」
ヘレナは目を見開き彼に忠告する。
「でも! バーベナは捕まってしまった……。怖い大人に、捕まってしまったんだよ! 無理だよ……助けられない」
その弱音に彼は頭を振った。
「諦めるのは早い。何もかもを取り戻すんだ。キミ達が失ってきた、全てを。この森で出会ったのは、何も偶然だけじゃない」
どこまでも前向きな彼の声音にヘレナは耐え切れなくなったのか、涙を溢れさせていた。
「……どうして、私みたいなのに優しく出来るの?」
「それはキミもまた、ボクだからだ。ボクはキミの鏡だから」
その言葉の意味はよく分からなかったのだろう。ヘレナは小首を傾げる。
「私が、あなた……?」
「明朝だ。明朝に、ボクはトモダチと共に街に出る。バーベナを助けるために」
「会った事もないのに、どうしてそこまで出来るの?」
「ボクは、一人でも多く、この世界にいるボクを救いたい。きっと、それだけなんだ」
戦いの前に、ポケモン達がざわめく。森そのものが意志を持ったように彼へと語りかけた。
――神に愛された子よ。それはお前の使命ではない。
「いや、ボクがやらなくっちゃならない。そうでなければ、バーベナはきっと、酷い目に遭う。彼女の半身であるヘレナもそうだ。傷を負ったまま、生きていくだろう」
夜風に森が蠢き、その声を彼の脳裏に刻み込む。
――神の子は、みだりに俗世に降りてはならない。
「それはボクが決める。バーベナを救う。それに異論があるのなら、本気でボクを説得すればいい。そうしないのは、どこかで納得もしているのだろう」
ポケモン達が眼窩をぎらつかせて、彼を見据えている。
――神の子よ。後悔する。
「それも、ボクが決める事だ」
黎明の光が森に朝を迎えさせていた。
「いい加減、飽き飽きしないか?」
助手席の男がそう口にしたのを、ハンドルを握っていた売人は胡乱そうに聞き返す。
「何がだよ」
「ガキ売るのにしても、もっと効率のいい稼ぎ方ってのはないもんかねぇ、って話だ」
「お前はまだこの業界に入って日が浅いから分からないんだよ。一人のガキを売って得られるのが数百万。ただし、今回は破格だ。億を出してもいいってよ」
その言葉に助手席の男が僅かに後部座席を窺った。
「……やっぱり、あれか。あのガキが」
「波導の持ち主って言ったら、酔狂な金持ちが出してくれる事になったんだよ。まぁ、そうじゃなくっても、カタログだけで結構買い手はついていたんだぜ? あんなだけれども将来性とかを鑑みて買いたいってのは大勢いた。まぁ、半分以上が変態趣味の奴らだろうがな」
その変態相手に商売をするのが自分達だ。男は助手席にもたれかかって、大きく伸びをした。
「波導ねぇ……。使えたってどうするって概念だが。なぁ、この商売、サツにばれたりしねぇよな?」
「サツなんて怖がっている間はケツが青いって言うんだよ。サツは黙らせた。これからヒウンシティの、その変態様の買い手までお届けするのにサツが邪魔したんじゃ話にならねぇだろ? これよ」
差し出したのは警察に通用する手形であった。これを出せば警察は黙り込む。
男が口笛を吹いて囃し立てた。
「さすがだねぇ。伊達に売ってきたわけじゃない」
「お前……、馬鹿にしてんのか? 言っておくが、そこいらのヤクザもんくずれなんて使い走りにもならねぇんだよ。こうして仕事くれてやっている事、ありがてぇと思え。クソッタレが」
「へいへい。まぁ、今日の飯に困らなければ、俺はどんな仕事でも……」
そこまで口にしかけて、男はバックミラーを注視した。
「どうした? サツでも追っかけてくるか?」
「いや……サツじゃないんだが、何だこいつ? ガキが一匹、高速道路を歩いていやがる」
「はぁ?」
どうせ麻薬でもやっているのだろう。幻覚か、と一蹴しかけて、男が叫んだ。
「おい、やべぇ! ポケモン出してきやがった!」
「ガキの使えるポケモンなんてたかが知れてるだろ。なに慌ててんだか」
「違ぇよ! こいつは――」
発せられかけた声を遮ったのは激震であった。車両に何かが乗り込んできたのだ。
「何が起こりやがった!」
頭上に降り立ったのは巨大な甲羅を持つポケモンであった。緩慢に首を巡らせて、そのポケモンが粉塵を撒き散らす。
瞬時に熱量を持つ煙が車両を包み込んだ。
「コータスだ! 何だってこんなポケモンが」
ホルスターを手に外に出ようとすると、煙の結界が男達の車両だけを包み込んでいた。
他の車両は近づけもしない。
そのような異常事態の中、こちらへと歩み寄ってくる影があった。
「……何者だ、てめぇ」
「バーベナがそこにいるんだろう? 助けに来た」
新緑の髪を持つ少年であった。眼差しには力があり、それだけでたじろいでしまいそうになる。
だが、相手は手ぶらだ。何も持っていない。
手持ちがコータスならば、この程度の使い手。
男は鼻を鳴らした。
「大人の世界に口を挟むってのは、よくねぇなぁ! マタドガス!」
繰り出された悪性腫瘍のようなポケモン、マタドガスが空気中に毒素を撒き散らす。
少年程度ならば一瞬で無力化出来る、はずであった。
しかし、それを阻んだのは少年の影から出現したポケモンである。
「……ゲンガーだ」
影に潜んでいたゲンガーが片手を払うだけで、マタドガスの毒素が無効化された。それだけではない。放たれた思念に、仲間が吹き飛ばされる。
鳩尾に叩き込まれた思念の攻撃には迷いがない。
昏倒した仲間に、売人の男は舌打ちする。
「馬鹿が……、ポケモンくらい出しておけ」
「バーベナを、返せ」
少年の繰り言に男は口角を吊り上げる。
「何だ? あのガキの知り合いか? それとも、正義の味方を騙るつもりか? どっちでもいいけれどよ。俺からしてみりゃ、売れるガキが二人に増えただけよ!」
マタドガスが肉迫し、その身体が白熱して膨れ上がった。「だいばくはつ」を使い、その隙をついてこの煙の結界から逃げ出す。
その算段を邪魔したのは少年の背後から躍り上がってきたニョロゾだ。水の皮膜が張られ、さらにマタドガスが湿らされ「だいばくはつ」が効果発動までに無効化される。
「何体持ってやがるんだ……」
「ゲンガー。そいつの腕を」
瞬間的に接近したゲンガーが影の爪を払う。男は習い性で後ずさっていた。先ほどまで男の腕があった空間を爪が引き裂く。
全く迷いのない、殺意。
その殺意はしかし、少年からはまるで感じられない。
ポケモン達が自分で考え、その上で行動しているかのようだ。
「ポケモンの自律行動……、んなもん、あるわけが!」
「コータス。天井を焼いて車からバーベナを」
こちらの思考回路とは一線を画している少年の命令に、コータスが車両を焼き払った。
自由になったのは数十人の子供達だ。
それを目にして少年の眼差しが変わった。
まるで無感情であったその双眸に、はっきりとした殺意が宿る。
「……お前達は、また繰り返す」
ゲンガーが子供達を瞬時に回収する。それを阻んだのはマタドガスの「スモッグ」であった。
僅かに遅れの生じた隙を狙い、一人の少女を人質に取る。
「動くな。こいつには億単位の金がかかっているんだよ」
ナイフを突き出すと、少女が眼を戦慄かせた。
少年はしかし、その行動に迷う事はない。
「バーベナ。今、助ける」
「聞こえなかったのか! てめぇが動けばこいつを刺すって言ってんだよ!」
叫び立てると、少年の手が止まった。どうやらさすがにポケモン達でも打つ手がないらしい。
男はまず少年を手招く。
「よし、じゃあガキ共を返せ。そいつらもあぶく銭だが、売れないわけじゃない」
「……そうやって、お前達は何を望む。この世界を、一つでもよくしようとは思わないのか?」
「うるせぇよ! この世界をよくするだぁ? んなもん、他の連中に任せておけばいいんだよ。俺は今日を生き抜く。てめぇだって同じだろうが! ガキはガキらしく、大人のいう事従っていりゃいいんだよ!」
少年がゆらり、と歩み寄ってくる。
ナイフが見えていないのか、と男はナイフを掲げた。
「見えてねぇのか! 刺すって言ってんだろうが!」
「大人の役目、か。ボクには分からない事だらけだ。でも、森のトモダチが、降りるなって言った意味は、よく分かった。こんな、ドブのように汚らしい、人間を見る事になるなんて」
少年の眼差しに浮かんだのは、ここで生かして帰さない、という明確な殺意。だが、それは男とて同じだ。
ここで少女を手離せば、大きな商談をご破算にする事になる。そうなれば、損をする役回りなのは必至。
「言っておくが、どれだけポケモンを持っていようと、関係がねぇ現実ってもんはあるんだよ。ここで死ぬガキが見たくなかったら、その場から動くな」
しかし、少年は聞き届けていないのか、ぶつぶつと呟いて接近する。
「……世界は、こんなにも汚れているなんて。でも、汚れは綺麗にしなくっちゃならない。それが、ボクの役割だ」
「来るなって言ってんだろうが! もう関係ねぇ! 刺す!」
ナイフを握り締め、男が少女の胸元にナイフを突き立てようとした瞬間であった。
少年の手がすっと差し出される。
それだけで、抗えない力に拘束された。
手が動かなくなる。それだけではない。足も萎えたように動く気配がない。
どうなっている、と眼を戦慄かせた男の目に映ったのは、二重像を結ぶ少年の姿であった。
ぶれたその姿から浮かび上がったのはオーベムというエスパータイプだ。オーベムのその能力が少年から遊離し、男の身体の自由を奪う。
「まずは左足だ」
コータスが吼え、全身から噴煙を放出する。炎熱が背後に迫る中、ゲンガーの爪が男の左足を掻っ切った。
血飛沫の舞う中、次いで男の顔面にオーベムの思念が突き刺さった。
鼻が折れ曲がり、瞼まで切り裂かれる。
顔に一条の傷痕が至り、男がその場にへたり込む。
その腕から少女が逃れた。追おうとするが、その手へとニョロゾの水の砲弾が突き刺さる。
複雑に折れ曲がった腕からナイフが取り落とされた。
しかしそれだけに留まらない。
少年はさらに攻撃を命じる。
腹腔に水の刃が突き刺さり、倒れ込もうとした男をオーベムの拘束が押さえ込む。背後からは炎熱が近づいてくる。
そんな中、ゲンガーを携えた少年が手の届く範囲まで近づいてきていた。
「今ならば、まだころしはしない。赦してやる」
――赦す? 赦すだと?
男の精神が擦り切れ、少年をなんとしてでも殺害するとマタドガスを呼び出した。
マタドガスが直上に迫り、少年を押し潰そうとする。
しかし、その攻撃は直前に中断された。
先ほどのようにニョロゾが阻んだわけではない。ただ、少年が見た。
見ただけだ。
それだけで、マタドガスが動きを止めた。その瞳が何を映しているのか分からない。だが確実に言えるのは、マタドガスはこの瞬間、自分のポケモンではなくなった。
制御の範囲を外れたマタドガスが少年の背後につく。
「嘘だろ……、まさか、話に聞くスナッチって奴か」
「スナッチ? そんなものは使わない」
振り向いた少年の眼にあったのは支配者の眼差しであった。ただのその一睨みで、マタドガスがモンスターボールの楔から解き放たれた。
信じられない事だが、そう判断する他ない。
「マタドガス……もう、俺のポケモンじゃないってのか」
「とどめは、キミがやれ。マタドガス、毒毒」
マタドガスの放った毒のヘドロが男に纏いつく。
瞬間、肉が剥がれ、強烈な毒素が身体中に回っていった。
男が呻き、助けを乞おうとするが、少年は切り捨てたような瞳で踵を返した。
少女が、その後に続いて行く。
男は高速道路の中で、ただ一人。静かに死に絶えた。
不思議な少年であった。
全てのポケモンが彼を信じ、彼もポケモンを信じているのが分かった。それは自分に波導の適性があったからなのかもしれない。
「その、あなたは……」
子供達を先導する少年は、まるで常世の王であった。
「ボクは、キミを助けてくれと頼まれたんだ。バーベナ」
「私の名前を……」
「ヘレナは、その一心であの森に辿り着いた。キミ達はどうする? ボクはキミ達に、ポケモンを与えよう。ちょうど人数分くらいはいる。護身用にちょうどいいだろう。森に行くかい?」
不思議とその問いかけに首を縦に振る子供はいなかった。
皆が皆、少年からポケモンを譲り受けて去っていく中、バーベナだけが少年の下を去れなかった。
「……ヘレナがいるの?」
「ああ、ボクらの森にいる」
「じゃあ、連れて行って」
この時、どうして、少年から離れられなかったのか、バーベナには今でも答えは出せなかった。
「ボクらの森は、トモダチがたくさんいる。とてもいいところだよ」
「あなたの、名前は?」
名前、と聞かれて少年は困惑しているようであった。初めて、人間らしい表情が出てくる。
「名前、って絶対いるのかな?」
「それは、だって呼べないし」
少年は首をひねった後、こう答えた。
「ボクの事は、トモダチと森ではこう呼ばれている。神の子って」
「それは、名前じゃないでしょう?」
少年はこの問答にひたすら困り果てているようであった。可笑しな事だ。目の前で売人を殺して見せた少年の超然たる振る舞いとはまるで違う。
ここにいるのは、ただただ分からない物事に翻弄される子供であった。
「ボクに、名前はいらないよ。みんなが、おうさま、って呼んでくれているから」
「じゃあ、私もそう呼べばいいの? おうさま、って」
おうさま、という呼び名に対して、彼は多少ながらくすぐったさを感じているようであったが、それが相応しいとも感じているらしい。
「うん。ボクはおうさまでいいよ」
「じゃあ、私はバーベナって呼んで。ヘレナは、その森にいるの?」
「森にはキミ達だけじゃない。たくさんのトモダチがいるんだ」
「トモダチって、さっきみたいなポケモンの?」
バーベナには多少ながら波導の心得がある。そのために常人よりかはポケモンを操るのに長けているつもりであったが、あれほど手足のように動かせるトレーナーはいないだろう。
そう賞賛すると、彼は首を引っ込めた。
「ボクは、トレーナーじゃないから」
「おうさまは、トレーナーじゃないのに、あれほどまでにポケモンを」
「トモダチって呼んでくれ。トモダチを操る、なんて言い方はしないだろう? 彼らの良さを引き出しているのさ」
おうさまは、どうやらポケモンに随分とご執心のようだ。数多のポケモン原理主義者を見てきたが、対等に扱う、という点において、彼ほどの謙虚さを持ち合わせてはいないだろう。
「じゃあ、トモダチとおうさまは、どうしてその森に?」
「この世界はとかく、生きづらいんだ。ボクが今、こうして外の世界に出ただけでもひずみが生まれる」
「ひずみ?」
「この世界に在り得なかった概念が生じるって、森の偉いポケモンは言うんだ。ボクにはよく分からないけれど。そんな大それた事がおきているとも思えないし」
おうさまの話を聞きながらバーベナは口にしていた。
「私達、また一緒に過ごせるのかな」
「過ごせるさ。ヘレナとは姉妹のように育てられたんだろう?」
ヘレナは滅多な事では自分達の境遇を語らない。それだけ、おうさまに信頼を置いているという事なのだろう。
「ポケモン……いいえ、トモダチと一緒に?」
「そうさ。いつだってトモダチがいる。だから怖くなんてないんだ」
「それが結果的にはいけなかった事なんて、ボクは時間が経たないと分からなかった」
「……平和の女神、愛の女神の所在から、あなた達の森が割れた。我々、プラズマ団に」
これは自分の業でもある。自分が勝手な事をしなければ、今でもあの森は存在したかもしれないのだ。
しかし、もうあの平穏な森はこの世にない。
この世界に、あれほど穏やかに暮らせる場所もなかったというのに。
「ヘレナに声をかけてくる」
だからか、そのような感傷的な気分に陥ってしまう。
平和の女神、と呼ばれ、今もポケモンを治癒しているヘレナは面を上げてNを見やった。
「N様。今、治療が終わったところです」
「ヘレナ。無理はしなくっていい。波導は体力を使うんだろう? そんなに連日、団員のポケモンを癒していれば疲れてしまう」
「いえ、私に出来るのは、これくらいですから」
そんな事はない。キミの自由を、ボクは奪ってしまったんだ。
その悔恨が胸を締め付けたが、Nはぎゅっと拳を握り締めた。
「少しだけ、離れていてくれないか。今はヘレナと話したい」
団員達が部屋から出て行く。乳母の眼が近くにあるのが分かったが、彼女だけは特別だった。
「ヘレナ、ボクの事を、恨んでもいい」
「恨む? 何故です?」
心底、分からないとでも言うように、ヘレナは笑みを浮かべる。穏やかな、女神の笑み。
彼女を平和の女神として信奉したのはプラズマ団だ。あの森では、慈愛の笑みではなく、本当の心の奥底で笑う事が出来た。
純粋な子供として、いつまででも過ごせたのだ。
その永遠を壊すきっかけを作ったのは自分である。
「あの森で一生を終える事も出来た」
Nの言い草にヘレナは静かに首を横に振る。
「いいえ。私があなたの森に入った時点で、きっと永遠なんて消え失せていたのでしょう。踏み入ってはいけなかったのです。私のような俗人が」
ヘレナがもし、あの森を見つけなかったら、今でも自分はトモダチと一緒に過ごしているだろうか。
歳も取らず、永遠に少年のままで。
「でも、ボクはヘレナとバーベナ、キミ達に出会えてよかったと思っている。人間を、ボクは好きではなかったから」
キミ達のお陰で好きになれた。その口調にヘレナは首肯する。
「あなたの助けが出来たのならば、私も本望です」
――違う。そんな難しい言葉で言わないでくれ。
胸の中とは裏腹にNは静かに返していた。
「そう、か。それならいいんだ」
本心を語らない。お互いに、もう純粋な頃は過ぎ去ってしまった。失ったものが多くて。それを取り戻すのももう不可能で。
自分達は同じものを見ているようで、少しずつずれて行っているのだ。そのずれが、崩壊の一因とはまるで思わずにいる。
亀裂が走っているのが分かった。
彼女と自分の間に横たわった亀裂が、少しずつ大きくなっていく。あの頃は何のてらいもなく言えた「おうさま」という名前が今は別の意味を帯びてしまった。
真の意味で「王様」になるのには、もう懐かしさとの決別をしなければならない。そうでなければ、自分達はどこにも行けやしない。
「ヘレナ。戴冠式の時、キミ達、平和の女神、愛の女神は同席してもらわなければならない。そうでなければ、秩序として成り立たないからね」
「お任せを。私達はN様のためならば」
そんな風に、自分を切り売りするような少女ではなかった。
自分は特別でも何でもない。ただの人間のつもりであったのに。能力が邪魔をする。
類稀なる能力が、彼女らとの真の理解を阻んでいる。
それは王の素質に他ならなかったが、今、彼女と話している間だけは、王である事など忘れたかった。
「すまない。人払いをしてしまってまで言う事じゃなかったな」
「いえ。N様はいつだってお優しいですから」
飾り立てないでくれ。そう言いたかったが、Nは言葉を仕舞う。
「戴冠式の日は近い。風邪を引かないように気をつけて」
そんな当たり障りのない言葉しか吐けない。
部屋を立ち去っていくNをヘレナはずっと追っているのが分かった。自分に何か気の利いた言葉でも期待しているのだろうか。
だが、自分はプラズマ団の王だ。
もう、あの頃には決して戻れはしない。
どれだけ願っても、あの頃には、もう。二度と何も知らなかった少年と少女には帰れないのだ。
これから先に待ち受ける運命を物語るように、空は暗雲が垂れ込めていた。
「雨が降るな」
Nはそう口にして、地下宮殿を歩んでいった。