第10楽章「名なしの森」
「戴冠式が間直に迫っております」
Nへと語りかけてきたのは十年余り世話になっている教育係であった。とはいっても、彼女は一般団員であり、Nへの直截的な命令権は与えられていない。
乳母のような存在であった。
「分かっているさ。ただ、少しだけ……」
首から提げたアクセサリーを弄び、Nは思案する。あの存在は何者であったのかを。
自分と向かい合った時、お互いに黒い瘴気のようなものが浮かび上がった。そして、あれが初対面ではない事をNは感じ取っていた。
――とすればあの時、ライモンの観覧車で。
出会った自分の似姿。あれが変質したと言うのか。
だが灰色の髪も、どこかやつれた表情も、自分とはまるで違うと感じていた。
どこか、この世界に諦めを持ちこんでいる様子もそうだ。
まるで世界の終わりを覗き込んだかのような深淵の瞳。
Nは面を上げる。これから行うべきは人類への挑戦。いわばこの世界への究極の問いかけである。
それを前にして、目を伏せるような事があってはならない。
「ボクは、正しい道を歩いている。そのつもりだ」
その言葉に乳母は小首を傾げた。
「その、どうこう言う権利はわたしにはございませんが、一言添えるとするのならば」
「何だい? 言ってみるといい」
「気を張り過ぎかと」
今の自分が気を張り過ぎ。確かに、とNは己を客観視する。自分の似姿と出会ってから落ち着いた日々が送れていない。
これでは戴冠式もまともに執り行えるか自信が心許ない。
「王様になるのに、これじゃ駄目かな?」
「駄目ではございません。ただ、少しばかり、不安があるのかと存じます」
乳母はさすがに目ざとくNの変化を見抜いてくる。Nは提案した。
「歩きながら話そう。ちょうど、この城壁も出来上がりつつある事だし」
眼前に聳え立つのは地下に設けられたプラズマ団の城である。これが来るべき時を迎えた瞬間、イッシュ地方の行政を司るポケモンリーグを完全掌握する。
文字通り、ポケモンリーグを陣取るのだ。
その下準備が行われており、そこいらで作業の火花が散っていた。
「危のうございます」
「彼らの労をねぎらう次いでだ。ボクの話を聞いて欲しい」
こう切り出すと大抵乳母は黙って聞き役に徹してくれている。それが助かるのだ。Nは考えを纏める際、他人に聞いてもらうのが一番だと感じていたし、何よりも自分の気心の知れた人間ならば、余分な言葉を差し挟む事もない。
城壁に沿う形で歩きながら、Nは直近の出来事を口にしていた。
「近頃、妙な事が近いところで起こってね。その一つが、……言っても信じられないかもしれないが、ドッペルゲンガーに行き会った」
乳母の返しはいつもほどよいと思った時に成される。今は、ただ聞いてもらうだけでいい。
「ボクも信じられなかった。ドッペルゲンガーなんてものが存在するのかもね。ただ……この同時多発現象、ボク以外にも関知している人間が僅かながらいたようだ。団員の一人がこう言っていたらしい。ボクの偽物が現れた、と。単純に結びつけるものでもないが、これは同じものだと仮定する。そうなってくると、この次元に、ボクが二人いる事になるのだが、まぁ、これは置いておこう。ドッペルゲンガーに関する情報として、最も分かりやすい民間伝承にこうある。見たら死ぬ、と」
Nは一拍間を置いた。すると乳母が返してくる。
「ドッペルゲンガー、というよりもそれはN様を動揺させるための、対抗組織の狗なのでは?」
「それは、ボクも考えた。今、戴冠式を控えたボクに揺さぶりをかける。ただ……このタイミングが適切じゃない気がするんだ。揺さぶりをかけるのならもっと前、それこそ、ボクの決意が固まる前だろう。そうじゃなければ意味がない」
今の自分には一切の迷いがない。
迷いなく判断出来る。
プラズマ団の思想こそが、ポケモンにとっても人間にとっても平和の道なのだという事を。
それを知る前の自分に揺さぶりをかけなければ、この計画は成立しない。
「最近になって、N様の存在を知った」
別の可能性をすかさず挙げてくる乳母にNは切り返す。
「だからといって、ボクの偽物、というのは合理的じゃない。それならば情報網を錯綜させ、プラズマ団という組織を揺さぶるべきだ。ボク個人なんて揺さぶったところで、結果は変わらないよ」
プラズマ団をどうにか出来ない限りは、自分の偽物など団員の士気を上げる事に繋がるだけ。逆効果だ。
ならば、とNは次の思考を巡らせる。この期に乗じて偽物を作り出す意味とは――。
「対抗馬、の存在も完全に消せはしないが、ボクはこう考える。劣化コピーだと」
劣化コピーという言い回しに乳母が疑問符を挟んだ。
「つまり、N様の能力だけを重視した存在だと?」
「そうなるね。ボクという偶像が意味あるものだと判断したが、それに見合った存在を用意するのは難しい。そのために造り出された、クローン、という線が濃厚かな」
だがこの可能性には穴がある。それを乳母はすぐに気づいた。
「クローン可能なほどに技術発展した組織は限りがあります」
「その通りだ。だからボクはこうも考えている。プラズマ団の一派だと」
つまり自分の台頭を面白く思わない、プラズマ団内部での裏切り者の線。乳母は少しばかり考える素振りをしてからこう答えた。
「しかしそれは、思い至ってしまえば魔女狩りになる」
「それをどうにかして避けるために、色々と策を講じているようだが……まぁ、すぐに化けの皮は剥がれるさ。そういう輩が長生きした例はない」
ふと、一つの部屋が視界に入った。傷ついたポケモンに対し、金髪の少女が手を触れている。
桃色の光が浮かび上がり、傷口を瞬く間に修復していった。団員が頭を下げる。
「ありがとうございます。平和の女神、ヘレナ様」
ヘレナは無表情を崩す事はなく、団員のポケモンを見送った。
「出来れば傷つけない戦い方を模索しなさい」
「肝に銘じておきますが……あなたの思うほどプラズマ団の状況はよくないのです」
「ならば、強くなる事ですね。私になど縋る必要がないくらいに」
平和の女神の通り名とは一線を画し、ヘレナの声音は冷たい。切り捨てるかのような言い草に団員は困惑しているようであった。
「その、ですが、今はポケモンの回復機も足りてない状況……。こんな時に、回復を頼めるのは平和の女神であるあなたくらいしか」
「私はあなた方の便利な機械ではないのです。私の能力が及ばない事もある」
突き放す物言いに、団員はポケモンをモンスターボールに仕舞って退散する。
Nはヘレナに声を投げようとして、やめた。
今の彼女は気が立っている。回復した後はいつもそうであった。
「そういえば、キミには話した事があったかな。ボクと、ヘレナとバーベナ、平和の女神と愛の女神が出会った時の事を」
「いえ、お聞きしていませんが」
話す機会もなかった。だが、もうすぐ戴冠式を迎えるに当たって一人くらいは知っておいてもいいだろう。
自分と平和の女神と愛の女神が何故、出会い、こうしてプラズマ団にいるのか。
「全ては、あの森から始まった」
パチッと火花が爆ぜる。
木材を焼くのはメラルバの役目で集めてくるのは自分達トレーナーの役目であった。
すぐさま空気中の熱気を吸い上げて熾した火を用い、飯ごうが焚かれる。
火を中心にしてバンジロウとノア、それにアデクが揃い踏みした。
ノアは火を見つめながら思案にふける。今、どうするべきなのか。何をどうすれば、プラズマ団の野望を阻止出来るのか。
「難しい事を考えておるな、お主」
アデクに見透かされ、ノアは困惑した。
「どうして……」
「顔を見れば分かるよ。ここに皺が寄っておる」
額を指差され、ノアは顔を伏せた。
「どうしても、清算しなければならない事があるんです」
「清算、ねぇ。お主のような若者に、そのような事があるのか」
これは一生かかっても償いきれない罪だ。ノアはここで言ってしまうべきか逡巡した。
アデクを倒してしまうであろう事。その自分を止めるのは今しかない事。
だが、誰が信じるであろう。
この時間軸に二人のN。そのうち一人はこれからあなたを倒す。
冗談にしか聞こえない。
「なぁ、じィちゃん。あれやろうぜ、あれ」
「おお、あれか」
あれと言われてアデクはにわかに立ち上がった。何をするのかと思えば、モンスターボールを投擲する。
「行け、ウルガモス」
出現したのは六枚の翅を擦り合わせ、炎のフィールドを作り上げる虫ポケモンだ。ウルガモスはその巨躯を用いて瞬時に炎の渦を形成した。
その渦へとメラルバが自身を放り込む。
炎を浴びて、メラルバの体表が一瞬で赤らんだ。
「何を……」
「これこれ! メラルバ、フレアドライブ!」
メラルバの発生させたのは今までの比ではないほどの熱量であった。瞬時に湧き上がった炎の柱が木材を炭化させる。
何をしているのだ、とノアは眼をしばたたいた。
「何なんですか?」
「まぁ、見てみぃ。これじゃ、これ」
炎の柱が立ち上った跡には肉が巻かれていた。
瞬間的な熱で肉を芯まで焼いたのだ。
「やっぱり、肉料理に限るよなー!」
出来上がったのはホイル巻きである。熱量を上げる事によって瞬時に完成させたのだ。
「ほれ、お主も食うといい」
「その、いただきます……」
頬張りつつ、バンジロウは口火を切った。
「兄ちゃんさ、何でライモンで倒れていたんだ? あれくらい強けりゃ行き倒れって感じじゃないけれど」
ノアは自分に立ち向かってきた三人を思い返す。
謎の部隊、ダークエコーズ。その実力を。
あまりに桁違いであった。自分が思い込んでいたプラズマ団は、この時代においてももう存在しなかったのだ。
影の存在が跳梁跋扈し、既に自分の時代などなかった。
「少し、野暮用があって……」
そうとしか答えられない。自分の事情にバンジロウとアデクを巻き込めなかった。
「ふぅん、まぁいいけれど。話したくないなら話さなくっても。でもよ、ケルディオがカワイソーだぜ」
「ケルディオが、かわいそう……?」
肉を噛み千切り、バンジロウが口にする。
「あれだけ強いのに、こんな扱いを受けたんじゃあな。ケルディオに似たポケモンは見た事がないけれど、あれは強いポケモンの井出達だよ。普通のポケモンのそれじゃない」
つまり自分に対してケルディオは無理をしている、と言いたいのか。
振り向けられた声に沈黙していると、アデクが声を差し挟んだ。
「まぁ、どう育てるのかはトレーナー次第じゃからな。あんまり口出しは出来んよ」
だが、ケルディオで戦えるつもりであったのだ。その認識が甘かったとは言えない。
「その、ケルディオとボクは、まだ強くなれますか?」
問い返すとアデクは顎鬚をさすった。
「どうじゃろうかなぁ……。強くなれるかどうかは畢竟、そのトレーナーの努力と根性に集約される。ワシとて、保障はどこにもないよ」
「オレはツエーと思うけれど。ケルディオは使い方さえ心得ればツエーポケモンになる」
手合わせしたバンジロウが言うのだから心強い。アデクはふむ、と一拍置いた。
「しかし、強いポケモンというのがただの実力面での強さなのか、それとも精神込みでなのかは違ってくるぞ。ワシは、精神も込みで強くしてやりたいが……。お主、何か深層意識で迷いがあるな」
突然に突きつけられて、ノアは言葉に困った。
「迷い、ですか……」
「戦う事、それそのものに対して忌避をしておる。だから、突然の命令に対応出来ず、なおかつ何と言うのか……今までのトレーナー歴もさほど浅くないと見えるのに、まるでつい最近トレーナーを始めたかのような、そういう不均衡さがある」
さすがはこの地の王である。
ノアのバランス感覚の悪さを一発で看破した。
ノアは肉を置いて思い返す。自分のルーツを。何が始まりであったのかを。
「その、ボクは元々、戦うためにポケモンと一緒にいたわけじゃないんです」
「じゃあ、何のためだったんだ?」
ノアは顔を上げて決意する。話さなければならない。
己の始まりを。
「ボクにとって、ポケモンはトモダチだった。そのトモダチに、ボクは報いなければならなかったんだ」