FERMATA








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二章 新たなる風
第9楽章「血の断章」

 被害は、と問い質されてヴィオはすかさずダークエコーズからの報告を挙げるべきではないと考えていた。

 それくらいの頭は回っていたし、何よりも不安の材料は減らしておいたほうが組織は効率よく回る。

「ネズミが一匹、かかったようですね」

「ええ、まぁ。しかし過激派の大した事のないネズミでしたよ。ダークエコーズが処理済です」

 嘘であった。ダークエコーズは逃した、と報告していたが、それをゲーチスに言ったところで動きにくいだけである。

 今は、ゲーチスにもNにも、出来るだけ円滑に回ってもらう事が望ましい。

「大した事のない、ですか。だが、反抗する人間がまだいた、というのは事実でもある」

「潰せますよ。我らの保持する戦力ならね」

 ダークエコーズはそのために育て上げたと言っても過言ではない。ゲーチスの直属部隊、ダークトリニティの負担を減らすための私兵である。

「しかし、ワタクシが真に危惧しているのは、Nへの負荷ですよ」

 珍しい事だ。ゲーチスはNを道具のように見ているのだとばかり思っていた。ヴィオは進言する。

「N様は、何も知らないはずでしょう?」

「何も知らない、というのもまた、ワタクシとしてみれば一つの不安材料。あれは純粋さが過ぎる。情報を調整してやらなければ、何か一つに煽られかねない」

 確かにNは純粋である。それがあまりにも危うく見えるほどに。だから、Nは少年時代を一室で幽閉同然で育て上げられたと聞く。

 純粋なる存在は同時に悪にも転びやすいが、それは綱渡りのようなもの。

 いつ自分達に牙を剥くのか分かったものではない。

「情報操作はうまくいっているはずです」

「ライモンの観覧車を見ている程度ならばいいのです。だが、戴冠式の時は迫っている。真に王になる、とあれが意識した時、また世界は変わってくるでしょう」

 今のNは王になる、という目的は持っているものの、まだ何者でもないに等しい。

 今の状態で揺さぶりをかけられれば一番に危ういのだ。

「ですが、N様に謁見出来る人間など」

 一笑に伏すがゲーチスは真剣な声音であった。

「Nには足も生えていれば耳も目もある。本当にあれを篭絡するつもりならば全てを奪うべきだったのですが、あれの能力は便利でしてね。ポケモンと話せる、など」

 ゲーチスはあまりに馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばした。Nがポケモンと話せるのはプラズマ団員ならば誰でも知っているが、それを畏怖の対象として見るか、あるいは愚者として見るかはそれぞれである。

 ゲーチスは愚者の象徴として見ているようであった。

 当然だろう。

 ゲーチスの最終目的は己のみがポケモンの力を有する事。その前段階としてNに力を持たせる。

 張子の虎を演じさせる相手に、感情移入などするはずがない。

「しかし良くも悪くも彼の存在は大きい。プラズマ団という組織にとって」

 Nという存在に依存している団員もいるほどだ。カリスマとして有効な人材であるのは確かなのだが、問題なのはそのカリスマがあまりにも超越している事。

 制御下にない、と言われても不思議ではない。

 Nを制御するには今のプラズマ団の体制では足りない。

「ワタクシは、あれを使ってこの国を手に入れる。だが、あまりにも障害は多い。例えばそれは、イッシュ四天王であり、ジムリーダー達であり、そして王、アデクの存在でもある」

 アデク。噂程度にしか語られない、この地の王。

 何故語られないのかは、彼の王が玉座にほとんどいないためだと言われているが、そもそも何のタイプの使い手なのかさえも不明。

 情報が少な過ぎる、と諜報班は判断を下した。

 アデクという男に関して分かっている事があまりに少ない。しかし、いずれは合見える存在であるのは明白。

 敵対対象を知っておかなければ思わぬしっぺ返しを食らう。イッシュ四天王はまだ情報があったが、それらを束ねる長に関してはほぼ不明。

 黒塗りの情報書類を手渡されてヴィオも困惑したほどだ。

 もう少し詰める必要がある、と彼は感じていた。

 アデクの手持ちが明らかにならなくては、たとえ神話級のポケモンを手に出来たとしても負ける可能性すらある。

 それが最強のトレーナーであるところのNであったとしても。

「現王、アデク……。あまりに情報が錯綜しております。今少しお待ちを」

「待ちはしますが、問題なのは時間制限があるという事ですよ、ヴィオ」

 戴冠式までにはアデクの情報を揃えておけ、というプレッシャーだ。ヴィオは傅いてその言葉を受け取る。

「御意に。アデクの情報、それに反抗派に回っているトレーナーのリストを挙げておきましょう。そうする事で我らプラズマ団の支配は完成を見るのです」

「そちらの情報網には期待しています。問題なのは、Nのほう」

 まだ気にしているのか。ヴィオは少しばかり熟考が過ぎると感じていた。

「N様は放任しておいてもいいのでは? もう子供でもあるまいでしょうし」

「子供、ですか……。思えば懐かしい気もしますね。あれをあの悪夢の森から解き放ってやった時の事を」

 その当時の事を、ヴィオはほとんど知らないが、記録としては残っている。まだプラズマ団という組織を興す前のゲーチスがNを辺境の森で見出したのだ。

 その時、何があったのかまでは聞いていないが。

「きっと、それは良い事だったに違いありません。なにせ、N様は辺境の土地でただ死に行く運命であったのかもしれないのですから」

 ゲーチスは遠くを眺める視線をやってその言葉を受け止めたようであった。

「死に行く、ですか……。だがあれは、あの時、完全に超越者であった。人間とポケモンの楔を解き放つ、ワタクシが理想とする存在であった。問題であったのは、あまりに浮世離れしたその能力を我々が抑え込まなければ、今のNは完成しなかったという事」

「N様の能力が、今より上であったと?」

 ゲーチスは僅かに眼を戦慄かせる。当時を思い出すだけで恐怖に駆られるとでも言うように。

「あれは、今のようにまだ分かりやすい存在ではなかった。それこそ、人間でもポケモンでもなかった。あれを神だとするのあらば、まさしくそうであったでしょう。それほどまでに、能力が桁違いであった」

 ヴィオはNの能力に関しての査定に付き従っていないため、Nの能力に関しては眉唾も入っているのだと馬鹿にしていた。

 だが、ゲーチスの声音には誇張も何もない。真に、あのNを恐れているようであった。

「失礼ながら、何を恐れる必要が? N様は確かに驚異的です。トレーナーとしての格も、ポケモンの言葉が分かるというのも。ですが、それだけでしょう? それ以外はただのトレーナー。正直、あなた様が恐れるほどでは」

 その言葉にゲーチスは違う、と頭を振った。

「違うのです。ヴィオ……。あれは、天才という枠に我らが規定したから、それを演じているに過ぎない。もし、我々が教育しなければ、あれは誰に命じられなくとも、ポケモン達を率い、反乱を起こしていたかもしれない。それこそ、たった一人で。我らプラズマ団のような戦略も何もなく、純粋さが引き起こす悲劇を」

 ゲーチスの話はあまりに誇張が過ぎる。ヴィオは鼻を鳴らしていた。

「それこそ、杞憂ではありませんか。だってもう、あのN様は天才ではありますが、理解出来ない化け物ではありますまい」

 そう、今のNは強いとはいえ、所詮は「人間」の域。それを超える存在ではないし、いざとなれば切る事も出来る。

 だがゲーチスが恐れているのは、それ以上の面に思われた。

「あのNが、我々の域に留まっている間は、まだいいのです。もしもの時があるとすれば、Nが我らに反旗を翻し、敵としてプラズマ団を裏切った場合……。その時、我々は知る事になる。化け物を育むとはどういう事なのかを」

 最悪のシナリオを想定しているようであったが、ヴィオはその可能性を棄却する。

「ないですよ。あなたがいる限り、N様はそれを超えるような真似はしないでしょう。なにせ、あなたはN様にとっては絶対なのですから」

 Nにかけられた暗示の一つだ。

 ゲーチスの言葉はNにとって絶対。

 この暗示のお陰でNは道化を演じてくれている。

 その言葉で少しは落ち着いたのか、ゲーチスは息をついた。

「そう、ですね。今のNが我々を倒そうとするなど、あり得ない。あるとするならば……」

 濁した語尾にヴィオは問い返す。

「あるとするなら、何です?」

「いや、これもナンセンスですね。あるとするなら、我々のやろうとしている事を、全て看破した上で止めにかかる、超越存在など」

 そんなものは存在しない。ゲーチスは服飾を払い、歩み出していた。

 ヴィオはその背中に続く。この男の背中を追っている以上、自分に敗北の二文字はない。

 それだけは確信出来た。











「勝負出来るからってじィちゃんにそそのかされた。オレ、弱いヤツとは戦わないんだ」

 顔を合わせるなり、バンジロウはそう口にした。ノアはその恐れ知らずの言葉に声を詰まらせる。

「これ、バンジロウ。まだ弱いとは限らんぞ」

「見れば分かるもん。その兄ちゃんがオレより強いなんて、あり得ないね」

 どこまでも傲岸不遜。さすがはアデクの孫と言ったところか。言葉を失っているとアデクはフォローを入れた。

「すまんな、えっと、なんという名前じゃったか」

「ノアです」

「そうじゃったな。いやはや、ワシは名前を覚えられんのが玉に瑕でな。ほれ、ノアタローもこう言っておるじゃろう。強いか弱いかなど、戦う前から決めるもんじゃない」

「いーや、分かる。ボロボロになっていたところをじィちゃんに助けてもらったんだろ? ライモンのトレーナーでそんなヤツは一人もいなかった。全員と戦ったから、オレ、この街の人間全員が束にかかったって負ける気はしない」

 ノアは絶句していた。王の孫とは言え、ここまでとは。しかしアデクもいさめる様子もなければ、それを殊更、失礼な事だとも思っていないようであった。

「バンジロウ。お主、また他人を軽んじて。強さは対外的なものだけではない。勝利と敗北がそのまま強さに結びつくわけではないと、言っておるだろう」

「でもじィちゃん、それって結局、よえーヤツをいきがらせるだけだって。オレは違う。よえーヤツと戦って、自分まで惨めな気分になるのは嫌だからな。よえーヤツにはよえーって現実を向き合わせる。そして二度とオレと戦おうなんて思わせない」

 プロでさえも恐らくは二の句を継げないであろう。それほどまでに洗練された言葉遣いであった。彼の言葉には迷いがない。

 勝負において、勝者と敗者があるのならば、自分は必ず前者であるという自信に満ち溢れている。

 これほどのトレーナーを、ノアは知らなかった。

 否、知らされる事のないまま、王になったのだ。

 今までポケモンの声を聞けば、自ずと相手の作戦領域、攻撃射程が手に取るように分かった。だから、相手のポケモンの一挙手一投足を見るまでもなく、全てが詳らかだったせいか、あの頃から戦いにおいて努力した事などない。

 全て、トモダチが教えてくれたのだ。

 しかし今、その能力は失われている。

 ケルディオで勝てるか、僅かに怪しかった。

「でも、ボクだって本気だ」

 それでも、退く様子を見せてはならないのだと感じている。この少年の天狗になった鼻を折るのは年長者としての務めもあった。

 この世界は勝者と敗者だけではないのだと教えなければ。

 バンジロウは怪訝そうな目を振り向ける。

「でもよ、オレ、よえーヤツと何度も戦えるほどガマン強くないんだよね」

「まだ分からんぞ、バンジロウ。机の上でやる計算は苦手なのではなかったのか?」

 今のバンジロウの自信は勝負に裏打ちされたものであろう。それは分かる。だが、自分との勝負の前に弱そうだという先入観を持ち込んでいるのは明らかであった。

 当然かもしれない。祖父の助けたどこの馬の骨とも知れぬ青年など、歯牙にもかけないのが王者だ。

 しかし、その一言はバンジロウの闘志に火を点けるのには充分であった。

「じィちゃん、オレが負けるって?」

「分からんぞ、と言っておるのだ。勝負は時の運とも言う」

「時の運、ねぇ。オレ、その言葉嫌いだね。だって運任せで負けるなんて、あるわけない。いいよ、やろう。でも、オレ、何度もお願いされて戦うの、嫌だから」

 一回きり、と言いたいのだろう。ノアもそのつもりだった。

 今の自分の力がどこまで及んでいるのか。それを知るのにはチャンピオンの孫との戦いは悪くない。

「言っておくけれど、ボクのポケモンは一体だけだ」

「オレもこいつだけ。こいつで勝ち進んできた」

 バンジロウはホルスターに提げたモンスターボールを掴み取る。

 簡易的に設けられたバトルフィールドに両者が揃い踏みした。審判を勤めるのはアデクである。

「両者、見合って、見合って」

「じィちゃん、相撲じゃねぇんだ。ポケモンバトルだよ」

「しかし、相手を見ずして戦えるものではあるまい」

 アデクが腕を組んで言いやると、バンジロウは鼻を鳴らした。

「バッカでぇ。見なくたってオレは勝てるよ」

 どこまでも正体不明の自信に満ち溢れたトレーナーだ。その内奥から発せられる覇気が羨ましくもある。

 だが、ここでは負けられない。

 勝てる戦いをするしかない。

 ノアはモンスターボールを握り締めた。

「行くぞ……、ケルディオ!」

 繰り出したケルディオが四足で蹄を打ち鳴らす。それを目にしてバンジロウは感嘆の息を漏らした。

「見た事ないポケモンだな。でも、オレはじィちゃんから譲り受けた、こいつで勝負だ! メラルバ!」

 投擲されたモンスターボールが割れて出現したのは、白色の矮躯であった。

 赤い触手を身体から伸ばして、そのポケモンが玉のように地面を転がる。

 メラルバ。アデクの切り札、ウルガモスの進化前だ。

 ウルガモスと一戦交えた事のある自分ならば相手のタイプは看破出来る。

 炎・虫。つまり、水・格闘を持つケルディオには優位な相手だ。

 これは大きなアドバンテージとなるだろう。なにせ、相手はケルディオを知らないと言った。ケルディオの見た目だけからそのタイプを逆算する事はまず不可能のはず。

 ――この勝負、先制点はもらった。

 ノアは手を薙ぎ払う。

「ケルディオ、アクアジェット!」

 ケルディオが蹄を鳴らし、前足から水のベールを作り出す。発生した水流を纏い、砲弾のようにケルディオがメラルバに直撃した。

 まともに食らえばさしもの育てとは言え、手痛いダメージには違いないはず。

 ノアはこの勝負、勝てるかもしれないと感じ始めていた。

 だからなのか。

 直後に展開された攻防に、ノアは息を呑んでいた。

 メラルバに攻撃が命中していない。

 メラルバは健在であった。ケルディオの「アクアジェット」は命中する前に蒸気となって霧散したのだ。

 馬鹿な、とノアが次の命令を下す前に、バンジロウが言い放つ。

「兄ちゃん、嘗めてんのか? アクアジェット、確かに有効だよ。その選択肢をしたって事は、タイプ相性は頭に入っているみたいだけれど、それってさ、机の上でやる事なんだよね。オレの嫌いな勉強ってヤツ。頭使うの苦手なんだよ。でも、どれだけ勉強が出来ても、勝てないヤツっているよな? オレがそうだよ。ポケモンバトルはしかも、ポケモン同士がぶつかり合い、その場で確率論が引っくり返るもの。そんなものなのに、確定している事実なんて一つもない。兄ちゃん、やるんならもっと全力で来いよ。こんな、小手先じゃ、メラルバに触れる事だって出来ないぜ」

 そんなはずがないのだ。炎相手に水は効果抜群。誰だって知っている。

 しかし、眼前のメラルバは特別な事をしたわけでもない。体表から伸びる触手が僅かに赤らんでいる。

 放熱が行われたのだろう。

 それだけで、ケルディオの水の攻撃を完全に無力化した。

 そんな事実があり得るのか。震撼するノアに、バンジロウが言いやる。

「考えてんの? どうやって、だとか、どうして、とか。でも、考えている暇があったら、ケルディオ? だっけ。下がらせたほうがいいと思うぜ」

 ノアは瞬時に命じていた。ケルディオにメラルバから離れよ、と。相当な隙があったにもかかわらず、メラルバは微動だにしない。ケルディオはその攻撃射程から逃れた。

「……何で、何もしなかった?」

「あのさー、簡単な事聞くのやめてくんね? だって一撃でもやっちまうと、勝っちゃうもん」

 一撃でももらえば、ケルディオが負けるというのか。その言葉に、ノアは歯噛みする。

「……そんな勝率なんて」

「違うよ。勝率とか、難しい話じゃないんだ。算数は、オレ苦手だし、次の攻撃が何パーで刺さるかだとか、そういうの自信満々に黒板に書くセンコーは大っ嫌いだし。だって、んなの、見れば分かるじゃん。何偉そうに言ってるの? って感じ。ケルディオ、左足、大変そうだね」

 今の数秒だけで、バンジロウは左前足の負傷を看破したと言うのか。ブラフの可能性もある、とノアは表情には出さなかった。

「何の事だか」

「とぼけるのももっとうまくないと話にならない。兄ちゃんさ、ケルディオの負傷を隠して戦うの、そりゃ立派だと思う。それに、結構仕上がっている。悪くない出来だよ。ただ、足りないなぁ、って思うのは、その地力、っていうのかな、元のパーセンテージが、オレとはダンチだって事だけ」

「ボクは負けない」

「吼えるのは誰でも出来る。でも、勝つってなると難しい」

 バンジロウの眼差しにあるのは常勝の人間だけが持つ己への信頼であった。勝てる人間は誰だって持っている。かつての自分も持っていたものだ。

 それがありありと伝わってくる。

 恐ろしい事に、この少年。一発だってもらうとは思っていない。

 ケルディオの攻撃が一撃だって突き刺さるなんて蚊ほどにも思っていないのだ。

 ノアはどうするべきか決めあぐねた。

 バンジロウ、彼は魔物だ。常勝の魔物。それに打ち勝つのには、単純な実力だけではない。

 自信が必要なのだ。

 勝てる、負けるはずがない、自分達に比肩するものなどありはしない。それほどまでの、自信に満ち満ちてなければ、容易く勝負の世界では飲み込まれてしまう。

 バンジロウの自信は格段だ。

 今まで戦ってきたトレーナーとは桁違い。それこそ、段違いであった。

 では、段違いに違うトレーナーと、能力を失い、自信も欠片ほどもない自分はどうやって勝てばいい? 

 そもそも、今までどうやって勝ってきたのか。

 その足場が崩れ落ちそうになっている。

 ノアは勝負を投げようかとも思っていた。

 ここでかつてないほどの敗北を味わうよりかは、賢い選択を望まれているような気がしていたが、アデクが声を振り向ける。

「おいおい、口数の多さが、強さじゃないぞ、お互いに。勝ちたければ飢えろ。口数だけでも、相手に勝ってみせろ。今のままではバンジロウに流されるがままじゃ。こんなのは勝負とは言わん」

 ノアはハッとしていた。まずはトレーナーである自分が呑まれない事だ。呑まれれば、終わる。

 それはケルディオの能力のせいではない。己の自覚不足だ。

 勝つ。勝てる。――いや、勝ってみせる。

 ノアは帽子を被り直し、その双眸をメラルバに向けた。

 何を恐れる事がある?

 相手も一人、自分も一人だ。

 戦うのは己だけに非ず。ケルディオの闘志を裏切ってはならない。

 ノアは吼えた。

 生まれて初めての、戦闘の昂揚による咆哮。

 その声音に、バンジロウがにやりと口角を吊り上げる。

「ようやく……一端のトレーナーに見えてきた」

「ボクが、勝つ!」

 ケルディオが跳ね上がる。その攻撃の矛先はメラルバの直上であった。水を練り上げて砲弾を作り出す。

「ハイドロポンプ!」

「さっきよりかは強い技だ。でも、そんなんじゃ!」

 メラルバは地面から動きもせず、熱を周囲に向けて放射する。視覚化さえされない、灼熱が浮かび上がると「ハイドロポンプ」は蒸発した。

 やはり熱のフィールドを帯びる。

 ケルディオに次いで命じたのは近づかない事だ。

 ケルディオは一定距離を挟み、メラルバの隙をつこうと周回し始める。

「いいね! さっきよりかは悪くない。メラルバの隙をつこうと多面的に攻めてきた。でも、そんな付け焼刃でっ!」

 メラルバが触手から放熱を一射する。

 技名ですらない、ただの熱線。しかし、その一撃がケルディオの体表に触れた時、明らかに表層にある水分を奪い取られた。

 その段になって気づく。

 メラルバの本懐は己から発する熱による攻撃だとばかり思っていた。

 当然だ。進化系であるウルガモスは灼熱の戦場を行き来し、六枚の翅で圧倒的戦術を誇るポケモンである。

 しかし、違う。

 バンジロウのメラルバはそうではない。

 彼のメラルバは熱を操るのだ。それも、目に見えるレベルの放熱現象ではなく、目に見えないほどの微細な体温の上昇と下降。

 その落差で気温を変動させ、相手のポケモンの攻撃力を割く、というやり方。

 よく言う、とノアは笑みを浮かべていた。

 机の上での戦いが苦手だと言っておきながら、この戦い方は机上の戦略に近い。

 計算上は可能ではある。

 ポケモンの放つ熱波の現象で気候を操り、意のままに相手を自分に優位なフィールドに落としこむ事は。

 だが、それは結局のところ確率論の話。

 通常は無理なのだ。

 理由として挙げられるのは、ポケモンとの熟練度。トレーナーの関知能力の範囲外だという事。

 だが、その戦闘を可能にする方法を、自分はよく知っている。

 バンジロウは、直感か、あるいは本能でかは分からないが、自分と同じくポケモンの声を聞き、適切な命令を下しているのだ。

 しかし、あり得るのだろうか。

 自分と同じような能力者の存在も疑問であれば、バンジロウがその域に達しているのかも疑問。

 だが、今はそれを念頭に置いて戦うしかない。戦って、勝つしかないのだ。

 それが自分にとっての最善。この場における最良の選択肢。

 ケルディオが周回するうち、メラルバの弱点を看破出来るはず。それを待とうかと思ったが、恐らくその間にバンジロウとメラルバは対策を練る。

 ならばその意表を突く。

「ケルディオ! インファイト!」

 今しがた、距離を取れと命じたばかりなのに、超接近戦は矛盾しているだろう。

 当然の事ながら、バンジロウは面食らったようである。

「インファイト……? さっきまでの戦いを見ていなかったのか? やっぱり、兄ちゃんはよえー」

 メラルバが放熱しようとする。しかし、その放熱の角度が僅かにぶれた。ケルディオに直撃するはずの放射熱があらぬ方向を射抜く。

 バンジロウが目を瞠った。

 瞬間、ケルディオがその射程に潜り込む。

 叩き込まれたのは前足による連続攻撃であった。メラルバは初めてのダメージに恐れ戦いているようであった。

「放射が効かない? 何で」

「バトルフィールドを動かせるのは、何もポケモンの技だけじゃない。この時間なら、そろそろだ」

 言いやったノアの帽子の鍔に落ちてきたのは水滴であった。

 湿気が突然に立ち上り、メラルバの精密機器のような放熱を阻害したのである。

 降り出したのは豪雨であった。突然の大雨にバンジロウはたじろぐ。

「そうか……ここが湿原だって、分かっていて……」

「湿原地帯では大雨が不意に降り出す。これも確率論の世界ではあるが、年長者ならではの感覚がある。キミのような子供より、雨の降り始めが分かりやすいものを、ボクは持っているのでね」

 左肩口にある目新しい傷。それがじくじくと疼き出して、ノアはこの可能性を思い至ったのだ。

 傷口の痛みによる天候の察知。

 これは健康体であるバンジロウには出来ない芸当であった。

 メラルバが猛攻を受けて地面から初めて身体を離す。一撃が食い込めばメラルバの防御は薄い。

 即座に叩き込める、とノアは判断した。

「アクアジェットで肉迫! インファイトで蹴散らしつつ、ハイドロポンプ、一斉掃射!」

 水の皮膜を纏い、ケルディオがメラルバへと接近する。放射熱の照準を見誤らないメラルバがそれを蒸発させるが、その時にはケルディオは回り込んでいた。

 死角からの「インファイト」が突き刺さり、メラルバがじわじわと追い込まれていく。

 メラルバが触手を一斉に後方に放ち、バンジロウが叫んだ。

「ブースト攻撃だ! あっちが接近するのなら、こっちももっと接近する!」

 推進剤のように焚かれた放射熱。それによってケルディオの反応速度を超えたメラルバがほとんど体当たりのような形で上を取った。

「上を取ったら、勝ちの定石だと思うな!」

 ノアの放った声音に相乗して、ケルディオが周囲に水の螺旋を描かせた。「ハイドロポンプ」がメラルバを包囲する。

 無論、メラルバもただで受け止める様子ではなかった。

 その白い体毛が燃え盛り、内奥から視覚化された熱が浮かび上がる。

「フレアドライブ!」

 まさに炎と水の大激突。

 メラルバの炎熱が勝つか、それともケルディオの水流が打ち勝つか。

 勝敗は――一瞬でついた。

 メラルバの熱量が僅かにケルディオに勝る。体表の水分を奪い取られたケルディオの照準がぶれ、包囲陣に鈍りが生じた。

 メラルバを撃ち抜くはずであった多角の「ハイドロポンプ」が明後日の方向を穿ち、ケルディオが呻いて膝を落とす。

 勝負ありであった。

 アデクが判定の旗を揚げる。

「勝者、バンジロウ!」

 負けた。

 敗者は勝者の前に這い蹲るのみ。それが世の理だと信じていた少年はしかし、眼前の勝負に息を切らしていた。

 ギリギリの攻防であった。

 どちらかの集中が切れていれば勝負の行方は分からなかっただろう。

 それほどまでに、実力が拮抗していた。

 バンジロウがメラルバをボールに戻す。

 ノアもケルディオを戻した。赤い粒子となって吸い込まれるケルディオに対して、ノアは一言添える。

「ゴメンよ。勝てなかった」

 結果論はそれに集約される。敗者だ、自分は。

 しかし、歩み寄ってきたバンジロウから発せられるのは最初のような侮蔑でもなければ敵意でもなかった。

 穏やかな笑みを浮かべたまま、彼は後頭部を掻いた。

「見込み違いってあるんだな。オレ、楽勝だと思い込んでた」

 彼が差し出したのは右手である。何のてらいもない、勝負の後の握手が求められているのだと分かったのは僅かに時間を置いてからであった。

「握手?」

「そう、ポケモンバトルの後は握手だ! トーゼンだろ」

 バンジロウからしてみれば、一つの勝負の余韻も、彼を一つ成長させたのだろう。アデクも満足気に見守っている。

「その、ボク、あまりポケモンバトルの後に、握手ってのは」

 馴染んでいない、と言おうとしてバンジロウが笑った。

「それ、見りゃ分かる。何だか、何もかもを賭けているみたいに見えるんだよなー。でも、そこまで肩肘張ってやるバトルってタイクツじゃね?」

 退屈。

 そのような事、思う間もなかった。

 一つでも勝利しなければ自分は玉座に登る資格はないのだと。

 一つの黒星が、自分の人生そのものを狂わせるように感じていた。だからこそ、眩しく感じたのだ。

 純粋なポケモンバトル。

 何も奪い合わず、ただ与え合うだけの行為など存在するのかと。

 それを教わったのは、何もかもを失ってからであったが、ノアは悪くないと感じていた。

 こんな風に、爽やかな風が吹き抜けるバトルも。

「雨間じゃな。晴れるぞ」

 雲の合間から光が差し込む。雨ばかりの空がないように、この心にも、雨が降りしきる事はない。

 いつかは、晴れが来る。夜明けが訪れる。

「よっし! 今日はキャンプしよーぜ! じィちゃん」

「小屋を借りておるが」

「んなもん、狭っ苦しいって! オレは外がいい!」

 バンジロウの自由さにアデクでさえも参っているようであった。しかし、その顔に浮かんでいるのは孫思いの笑顔である。

「我が孫ながら、せっかちよの。どうする? ノアタローは」

 振り向けられた声にノアは逡巡しつつも応じていた。

「その、ご一緒させていただいてよろしいでしょうか」

「応よ! キャンプは一人でも多いほうが盛り上がる!」

 快諾するアデクにノアはこの時間軸に来て初めて、自然と笑えていた。






オンドゥル大使 ( 2017/06/20(火) 23:14 )