第4楽章「雨のソナタ」
「今日診た限りじゃ、随分とよくなっている様子だな」
カヤノの診療を終えて、ノアは左肩をさする。痛みも少しは和らいでくれたか。
「どれくらいで治りますか?」
「日にち薬な面もある、が、リハビリが利いているようだな。これなら一週間はあれば包帯が外せそうだ」
一週間。
自分はもう何日もアリスの世話になっている。その中で得た知識を、カヤノに質問する。
「その、最近、プラズマ団って言う組織が妙に幅を利かせているって聞きました。講演会もあるみたいで」
「そうか。ワシはその辺疎くってな。どうせカントーに帰るから、テレビもまともに観ておらんし。お前さんが元気になった頃にワシはこの土地を去る事になるな」
「お世話になってます。本当に」
「よせよ。お前さん、アリスのお嬢ちゃんに知られたくない事のほうが多いのだろ?」
カヤノに詰問され、ノアは受け答えする。
「名乗りはしましたよ」
「ノア、か。また偽名くさいな……。まぁ、ワシはその辺のチンピラ程度じゃビビらんし、チンピラもある程度は抑えている。こいつは襲ったら報復がある、くらいは」
「プラズマ団の事、他に何かボクでも知らない事、ありますか」
その言葉にカヤノは胡乱そうに煙草に火を点けた。
「……何が言いたい?」
婉曲的過ぎたか、とノアは言い直す。
「つまり……その、市民の眼から見たプラズマ団を知りたいんです」
今までは玉座からしか見た事がなかった。その犠牲も、何もかも。
「そうさな……、そういえば一つの街で大規模集会が決起され、警官隊と揉めたらしい。人死にも出たようだ」
「その、プラズマ団側にですか……」
「だろうな。向こうは武装解除を訴えかけているわけで、あちらからの先制攻撃はあっちゃいかんだろ。だが、いつの世の中でもリベラルな人間ほど割を食う。仕方のない犠牲じゃないか」
仕方のない犠牲。その言葉にノアはシーツを握り締める。
自分の与り知らぬところで、団員が死んでいたなど。
「……大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「大丈夫です。はい、ボクはまだ……」
これよりももっと深い闇に自分は触れなければならないのだ。この程度で心を乱されてどうする。
「そう、か。きな臭いといえば、政府周辺も、だ。どこか、プラズマ団の行動に対して静観を決め込んでいる感はある。つまり、裏取引があるんじゃないか、とワシは思っている。だがなに、勘繰りだよ、勘繰り」
しかし情報は情報だ。カヤノは意味のない事は言わない主義であるのは何回か会えば分かった。
「その、裏取引、抑えられますか?」
「おいおい、ワシは警官でもなければ、ただのヤブ医者。何も出来んし、知らんものは知らん」
「でもボクに聞かせるために、その話は仕入れてきた風です」
たとえポケモンの言葉が分からなくとも自分には培ってきた技術と知恵がある。こういう手合いから情報を引き出すのは難しくない。
最初から聞かせるために訪れたに違いないからだ。
カヤノは舌打ちして言いやる。
「……ライモンシティ地下。そこで集会があるらしいが、どうにもな。ライモンの地下は地下鉄が走っている。どの沿線で、どのようになのかは全く不明だ」
「それでも、充分です。一週間、でしたね」
確認したノアにカヤノは怪訝そうにする。
「そうだが、まさか……」
「三日に縮めさせてもらいます。ボクは、どうやら燻っている場合じゃないらしい」
その言葉にカヤノは煙草を灰皿で揉み消す。
「お前さん、プラズマ団と因縁が?」
「ええ、切っても切れないものが。……でも、この事、アリスには言わないで欲しい」
「何でだ? あの子は必死にお前さんを生かそうとしているのに」
「生かそうとしている人間に、死にに行くような真似を言えるわけがないじゃないですか」
その眼差しに宿るものが本気だと感じ取ったのだろう。カヤノはようやく折れてくれた。
「……五日後、ライモンシティ地下鉄。だが詳細は知らん」
「いえ、それだけでも」
「しかし手持ちはどうする? ポケモンもなしで突破する気か?」
前までと違い、ポケモンと心を通わせる手段はない。だが、これが本来の在り方なのだ。トレーナーとはそうやってポケモンとの絆を深めていく。
それが正しい道筋のはず。
「道すがらのポケモンを捕まえますよ」
「そこまでさせるわけにはいくまい。これでも取っておけ」
カヤノの取り出したのは一つのモンスターボールだ。中に入っているポケモンは知らない種類であった。
「これは……」
「政治家のガキを治してやった駄賃代わりにくれられたポケモンだよ。どうせ闇から闇へと売りさばかれていく運命だったポケモンだ。ワシには要らんからお前さんにやる」
「そんな、悪いですよ」
「悪いのはこんなポケモンを乱獲して、そしてワシみたいなヤブにくれてやる政治家だ。お前さんが気に病むこたぁ、ない」
カヤノの言葉に、ノアはモンスターボール越しにポケモンと対面する。今まで言葉さえ交わせば、自分に従わないポケモンはいなかった。
だが、今は――。
今の自分はNではない。ノア、なのだ。
新しくポケモンとの関係を築き直す必要があった。
「この、ポケモンの名前は?」
「ネームタグを首につけてあるらしい。それを読めば分かるんだと」
「出した事、ないんですか?」
「ワシなんかが扱ってもポケモンは喜ばんさ。主のところに連れてやるのが一番だろ」
カヤノが席を立つ。ノアはベッドから起き上がった。そのくらいには体力が回復していた。
「その、何もかもボク、与えてもらってばかりで」
「別にいいだろ。人間なんて両極端だ。与えるか、与えられる側になるか。それしかない。まぁ、奪う側になる、という選択肢もあるが」
奪う側。
かつて自分がそうであったかのように言われて、ノアは少しばかり息苦しさを覚えた。
「ボクは、出来れば与えたい」
「ならさっさと怪我ぁ治せ。まずはそれからだ」
それともう一つ、とカヤノは付け加える。
「そいつも左の前足をやっているらしくってな。普通のポケモンのようには使えんかもしれん」
それだけだ、とカヤノは手を振った。
五日後にここを発つ。
そう切り出した時、ノアはアリスが怒るのだと思っていた。だがアリスは思っていたよりも穏やかにそれを受け止める。
「そう」
「怒らないんだ」
「だってここは癒しの家だもの。旅立つ人達が一時的に羽根を休める場所。旅人の足を止める場所じゃないわ」
少しだけ残念でもあった。
アリスには止めて欲しかったのもある。
「それでその、カヤノ先生からポケモンを」
「あの先生がポケモン?」
そちらのほうが意外らしい。ノアは尋ねていた。
「そんなに珍しいの?」
「あの人は思い出を作らないタイプって言っていたから。ポケモンなんて絶対に持たないんだと思っていた」
実際には賄賂代わりに使われたポケモンだ。それを言わず、ノアは早速提言した。
「ちょっと、庭を使っていいかな」
「ポケモンを試すのね。ムゥちゃんなら、何とか相手になれるけれど……」
ムーランドほどのポケモンならばほとんどのポケモンでも充分に相手取れるだろう。
「やってみよう」
既に夜の帳は落ち、月光が降り注いでいた。
雲が流れる穏やかな夜である。ノアとアリスは向かい合っていた。ポケモンバトルの形である。
「行って! ムゥちゃん!」
ムーランドのムゥちゃんには隙が見られない。さすがは旅人の警戒に使われるポケモンか。ノアはモンスターボールを握り締めた。
「まだ、初対面か……」
以前のような能力はなくとも、ポケモンバトルの技術は衰えていないはず。ノアはボールを放り投げた。
黄金の月光を受けて反射したのは、そのたおやかな躯体であった。
水晶のように煌びやかなそのポケモンにはオレンジ色の艶のある毛並みがある。それそのものが高等な芸術のように、ノアの眼には映った。
四足で、額には小さいながら角を有している。
見た事のないポケモン、という評価以上に、そのポケモンの醸し出すのは高貴な立場であった。
まるで王であった頃の自分のように、気品ある振る舞いをしている。
「この……ポケモンの名前は……」
タグを読み取る前に、そのポケモンが跳ね上がった。
ムーランドに猪突し、その角を突き上げたのである。その動きにはアリスも、無論の事ノアも瞠目する。
「何をやっている! 戻れ!」
ノアの言葉を聞かず、そのポケモンはムーランドの下腹部を突き上げる。
堅牢さと重厚さを兼ね備えたムーランドが一撃で宙を舞った。
明らかに通常のポケモンの膂力ではない。
浮いた状態のムーランドへとそのポケモンは追撃を行う。
飢えた獣のように、攻撃には容赦がなかった。
ムーランドを切りつけた角の威力はその大きさよりもずっと強大である。
ムーランドが大きく後退する形となった。アリスは言葉も出ないらしい。命令をする、という選択肢も失っているようである。
「戻るんだ! 一度、ボールに!」
ボールを突き出すがそのポケモンは何と、こちらへと攻撃の矛先を変えた。
脚力で飛び上がったそのポケモンは真っ直ぐに攻撃を打ち下ろす。
後ずさりしたノアはその一閃でギプスを切断されたのを感じ取った。
――この切れ味、一歩間違えれば死んでいる。
直後に攻撃が叩き込まれようとした瞬間、ムーランドがようやく動いていた。
フットワークで回り込み、突進を試みた。
だが、そのポケモンは何もかもを予見したように舞い上がる。
月光を受けて水晶の色彩を持つポケモンが透き通ったかのように煌いた。
その角が打ち下ろされかけた時、ノアは思い出す。
「ムーランド! そのポケモンの左前足を狙え! そこに隙がある!」
咄嗟の命令にムーランドは従ってくれた。左前足にある僅かなロスを狙い、横っ腹に攻撃を叩き込む。
狙われている事を警戒してか、そのポケモンが後退しようとするのをアリスの言葉が制した。
「素早く立ち回れば勝てる! 炎の牙!」
激しく燃え上がる牙を交差させて、ムーランドが猪突する。正体不明のポケモンへと食い込んだ一撃が鍵となった。
一撃をもらえば随分と脆い様子だ。先ほどまでの攻撃の先鋭さとは裏腹に、打たれ弱さが大きく目立った形となった。
燃え盛る炎熱の牙が食い込んだ箇所にはすぐさま火傷の痕が痛々しく刻まれる。
しかしながら、そのポケモンの対処は迅速であった。
蹄を立てたかと思うと、瞬間的に水のフィールドが発生する。纏った水の刃をそのポケモンはムーランドに放つ。
ムーランドが後退したが、堅牢な防御を崩すには至っていない。
そのポケモンが次いで角の切っ先に全てを集中しようとした際、水のフィールドが不意に解けた。
荒い息をついているそのポケモンががたりと崩れる。
ノアは覚えず駆け寄っていた。アリスも同様である。
「ノア、このポケモン……!」
「うん、ボクも初めてだ。こんなに消耗しているのに、戦っていたのか……」
なんという不屈の精神。外皮に深く刻まれた傷痕が今も疼いているのがありありと窺える。
左前足はほとんど動かないはずなのに。このポケモンは大立ち回りを決めて見せた。
「応急処置を。回復は、ポケモンセンターと同じものを使えば出来るから」
アリスの声にノアはモンスターボールを突き出そうとする。瞬間、突き上げられた角にノアはボールを取り落とした。
このポケモンは未だ健在であった。その闘志はいささかも衰えていない。
「ノア! 手に怪我を!」
切りつけられた際、掌を鋭く切ったらしい。流れる鮮血よりも、恐怖の念を喚起させたのは、この四足のポケモンの放つ殺気。
どこまでも人間を憎み切っている憎悪の眼差しであった。
捕獲されるくらいならば、とそのポケモンがどう判断したのか、声の聞こえない今のノアでも瞬時に理解する。
ノアは飛び込んでいた。
咄嗟に突き出した手をそのポケモンが噛みつく。
舌を噛み切ろうとしたのだ。
そのプライドと意志の強さに、ノアは呆然とする。
「こんなにまで……人を信じられないポケモンがいたなんて……」
ノアは首につけられたネームタグを読み取る。ノアの手を噛んだ際、血が口中に広がったのを嫌悪したのか、そのポケモンは唾を吐いた。
その一瞬で読み取れる。
「ケルディオ……それが、キミの名前か」
ケルディオ、と呼ばれたポケモンはノアから距離を取り、呻り声を上げる。
どこまでも戦闘本能で戦い続けようとするケルディオを制したのは赤い光であった。
束縛用の特殊なモンスターボールから放たれた光がケルディオを粒子に還元し、ボール内に収める。
アリスの手にあるそれがカタカタと揺れた。中で暴れているのだ。
「大人しく……して」
アリスが両手で押さえつけようとするのを、ノアが手を差し出して助けた。
幾ばくかしてから、ケルディオのボールがようやく沈黙する。
「無茶苦茶よ……、こんなポケモン……。ムゥちゃん、大丈夫?」
ムーランドに大したダメージはないはずであった。だが、それよりも瞬時にムーランドを突き上げた攻撃の正体が気になる。
「一応、回復はさせないと」
ノアの声にアリスは不安を口にした。
「でも、回復したらそれこそ、あたし達の言う事なんて聞かないかも」
「その時は、ボクが何とかする」
それがこのポケモンを預かった責務だ。
月光の降り注ぐ中、最初の邂逅は苦々しいものとなったのがハッキリと分かった。
ポケモンの回復機器は統一されたものが地方で使われており、その地方内ならば、どれほどの過疎地でも同じ回復機を使う。
それがポケモンセンターに行政ごとに振られた役目であり、ポケモンセンターが無料で使えるのは、日々まかなわれる公的トレーナーの税金によって、である。
しかし自分のようなプラズマ団の人間は公的機関に頼れない。
ポケモンセンターからの払い下げ機器を使ってきた自分にとってアリスの使用した機械がどれほどに万能なのか痛感した。
回復するのに一晩もかからないのだな、と今さらの感傷が胸を掠める。
「これでケルディオはいつでも使える。元気になったはずだけれど……」
濁すのは回復させればまた自決を試みるのではないか、という不安要素。それ以上に、ケルディオの醸し出す殺気に勝てる気がしなかった。
アリスも、であったがそれはノアも同じ。
操っていてもあれほどまでに自分を拒絶するポケモンを見た事がない。
否、今までは王の威光で従わせていた部分もある。
ポケモンの言葉が分かったのはそれだけで充分なアドバンテージだったのだ。
今は、ポケモンの言葉どころか、如何にして操っていたのかの感覚も曖昧であった。
「ケルディオの図鑑データを参照するわ。そうしないと、このポケモン、また暴れ出すかもしれないし……」
簡易回復施設の主にはポケモン図鑑に関して特殊な閲覧権限が与えられている。それを知ったのはつい先ほどであった。
「だって、あまりに特殊な、たとえば伝説のポケモンや、生態系の違うポケモンも回復しなければいけないでしょう? その場合、ポケモンごとに適した回復条件が求められるから、学会の偉い先生方の持っているポケモン図鑑は公のデータベースになっているのよ」
プラズマ団で育った自分には、そのような事もまるで分かっていなかった。
アリスがケルディオのデータを探している間、ノアは束縛用のボールと向かい合っていた。
ボール越しならば、敵意も殺意も何もない――そんな都合のいい造りにはなっていなかった。ボール越しでも、ケルディオが今にも牙を剥こうとしているのが伝わってくる。
「おや」の申請状況もアリスに問わなければならないだろう。交換されたポケモンは以前の「おや」の記憶が強かった場合、言う事を聞かない事はよくある。
プラズマ団はしかも他人のポケモンの解放を謳っていた組織。
他者のポケモンを使役する術は心得ているはずであった。
ノアはその中でも最も簡素なものとして、洗脳装置を記憶している。
「おや」の登録情報を抹消し、書き換えるという代物だ。
自分はその機械の存在に嫌悪を催したが、今にして思えば、あれも必要悪であったのかもしれない。
プラズマ団の思想は決して、白と黒で塗り分けられるだけの単純なものではなかった。
この世界が白と黒だけで出来ているわけではないように。
自分の灰色に染まった髪が、世界の祝福を拒んでいるように、世界はどのような色にも染まる。
「ケルディオ、お願いだ……。ボクに力を貸してくれ」
そう懇願しても、相手はモンスターボールの叡智に縛られ、身動きも出来ない状態。
これでは対等な交渉になどなるはずもない。
アリスが書類を持って部屋にやってきた。数枚の書類にはケルディオのデータが参照されているはずであった。
「これ、ケルディオのデータなんだけれど……」
受け取ったノアはその書類に胡乱な視線を注ぐ。
何故ならばほとんどの情報が黒塗りであったからだ。
これでは情報とはとてもではないが呼べない。
「アリス、これが、ケルディオの情報だって言うのか?」
「……何度かアクセスを試みたけれど、やっぱり駄目みたい。ケルディオの情報は、まだこのイッシュには存在しない」
ではイッシュのポケモンではないのか。
その無言の問いかけにアリスは赤い髪の毛をさする。
「分からないのよ、本当に……。偉い先生方に一応データは送っておいたけれど期待しないでくれと言われたわ。見た事も聞いた事もないポケモンだ、とも」
「でもタイプは分かったんだ」
タイプ欄には、水、格闘とあった。
あまり馴染みのないタイプ構成である。
「それも結果論で……、ムゥちゃんに通用したタイプだから、っていう試算みたい。格闘は推定だけれど、水タイプってのは確定らしいわ。あの、水のフィールドを見たでしょう?」
ケルディオは火傷を治すために自力で水のフィールドを構築した。高レベルの水タイプでなければあのような芸当は出来ないだろう。
「水タイプ、しかも特殊攻撃に秀でていないと、あんな事は出来ない」
これまでの経験則の入り混じった意見にアリスは首肯する。
「覚えている技構成もかなり攻撃的ね。インファイト、ハイドロポンプ、アクアジェット、ってのが何とか導き出せた技構成。一瞬で肉迫したのはインファイトでしょうけれど、アクアジェットとハイドロポンプはかなり応用が出来るみたい」
どれもが、攻撃用の技ばかりである。その事からノアはある推定を考え出した。
「苛酷な環境で育ったのかもしれない。そういう、戦いの絶えない場所で育成されると、自然と攻撃技ばかりが目立つようになる」
現地でポケモンを調達してきたからこそ出る言葉であったが、アリスは苦い顔をした。
「でも、ここまで攻撃的に育てたものを、どうしてカヤノ先生は持っていたのかしら?」
それに関しては言わないほうがいいだろう。政治家の賄賂に使われたもの、など言ったところで彼女にショックを与えるだけだ。
それにケルディオにもよくないだろう。
もっとも、ケルディオ自身、それに気づいている様子であったが。
「攻撃技ばかりなのは助かるんだけれど……、ボクを信用してくれないのは困る」
これではプラズマ団の癒着の密会に立ち会う事など不可能だろう。肩を落としたノアに、アリスは言いやった。
「慌てなくっても、ポケモンはあなたの気持ちに沿ってくれるわ」
「いや、ボクは慌てなくっちゃいけないんだ」
プラズマ団がこの地を完全に占拠する前に、自分は行動を起こさなくてはならない。
N――この時間軸の自分を止めるために。
その生き急ぐ理由が分からないのだろう。アリスは頭を振った。
「あたしは、あなたに生きて欲しくって、カヤノ先生を紹介したの……。そんな、死にに行くみたいな眼をしないで」
自分はそんな眼をしていたのか。ケルディオの事は言えないな、と反省する。
「でも、ボクは一刻も早く、ケルディオと共に戦えるようにならないと」
そうでなければ、どうやって、プラズマ団の野望を砕くというのだ。
あと四日、黎明の空を窓から仰ぎ見る。
朝が来ようとしていた。
「アリス……ムーランドで全力でやれば、ケルディオを倒せるかい?」
その問いかけが意外だったのだろう。アリスは目を見開いていた。
「どうして……倒す、だなんて」
「今のケルディオは我を忘れている。こんな状態をすぐにでも脱するべきだ。つまり、頭を冷やさせるのには敗北が一番だとボクは思う。だから、ムーランドのムゥちゃんで、ケルディオを一度倒さなければ」
そうでなければ一生、ケルディオは自分に従わないだろう。
ノアの決意にアリスは小さく返した。
「……あたしは、トレーナーとして強くないから。ムゥちゃんも護身用程度だし」
「じゃあ、どうすれば」
「あなたが、使えばもしかしたら違うかもしれない」
その言葉の意味を、ノアははかりかねた。
「ボクが?」
「そう。あなたがムゥちゃんを使って、ケルディオを倒し、ボールで捕獲する。そうする事で初めて、ポケモンとトレーナーの関係が対等になる。つまり、野性の状態をシミュレートするの」
ムーランドで、ケルディオを倒す。
それはタイプ相性から鑑みても難しい事に思われた。
だが、ほとんどのトレーナーは旅立った時からそれを行っているのだ。
自分はただ、たまたまポケモンの言葉が分かり、必要最低限の争いで仲間に出来ていただけ。
通常のトレーナーは痛み分けか、あるいは手痛いしっぺ返しさえも食らって、ようやくポケモンを仲間にする。
それが、真のトレーナーの一歩目だった。
「……ボクに、ムゥちゃんは着いてくれるかな?」
それだけが不安であった。ゼブライカに拒絶された感覚が未だに残っている。
アリスはムーランドの入ったボールを撫でた。
「あたしが言えば、大丈夫だと思う。ケルディオをあなたのポケモンにしたいなら、多分この方法が一番手っ取り早いはず」
ケルディオを一度戦闘不能までに追い込む。
やるべき事は決まった。
束縛用のモンスターボールの効力は一回きりで、一度拘束を解けば逃げ出す可能性すらある。
そう前置きしたアリスにノアは頷いていた。
「いい。やってくれ」
「ケルディオが逃げたら、全てお終いよ」
「ケルディオは多分、逃げる事はないと思う。そういう眼をしていた」
人間への憎悪、殺意。全ての敵意の入り混じった瞳。目の前に敵がいるのならば、それを踏み越えなければ気が済まない、という性質だ。
「じゃあ、行くわよ」
「ああ、頼む」
束縛用のモンスターボールが解除される。
躍り出たケルディオの左肩口には傷痕が残っているものの、それ以外は完璧に完治していた。
今の状態はベストコンディションのケルディオである。
それに対して相性上不利な、ムーランドで勝つ。
その方法しかない。
「行け! ムゥちゃん!」
ノアがモンスターボールを投擲するとムーランドがバトルフィールドを踏み締めた。
堅牢さを感じさせる威容。だが、その実、格闘タイプの技を繰り出されれば詰めの弱さの目立つポケモンでもある。
如何にして、ケルディオに有効打を打ち込めるか。それにかかっていると言っても過言ではない。
「ムゥちゃん! 雷の牙!」
最初に選択したのは、ムーランドの覚える基礎的な技である。
「かみなりのきば」を含む三種の属性の牙による噛みつき攻撃。それがムーランドを支える優秀な技構成であった。
ムーランドが肉迫し、電磁を帯びた牙を突き出すが、その程度は予測済みだとでも言うようにケルディオが跳ね上がる。
空中から展開されるのは瞬時に接触しての「インファイト」であろう。
ノアは次の技を繰り出させていた。
「ストーンエッジ!」
ムーランドが激しく地面を踏むと足先から伝った波紋が地面から岩の刃を突き出させた。
対ケルディオ用に仕上げた技構成が空中のケルディオを突き刺そうとする。
命中、の感触に浸る前に中空のケルディオを貫通した岩の刃が弾け飛んだ。
「ケルディオのその姿は、もう幻影よ! アクアジェットの高速移動で、残像を作り出すなんて……」
アリスが息を呑む。
それほどまでのポケモンだという事だ。
「アクアジェット」で瞬時に降り立ったケルディオが背後ががら空きのムーランドに突撃しようとする。
しかしノアはまだ冷静であった。
ポケモンバトルは場数が支配する領域。
確かに自分は天才的であった。ポケモンを操る術も、他のトレーナーとは一線を画していた自信はある。
だがそれは、同時に慢心の領域でもあったのだ。
声が分かるだけで、ポケモンバトルに勝てるわけではない。
ポケモンと己を渾然一体とし、フィールドを支配した側こそが、バトルの勝利者となる。
「ムゥちゃん! 反転して攻撃! 波乗りだ!」
ムーランドの足先から迸ったのは水流であった。激しい水の流れがケルディオの攻撃を鈍らせる。
「なみのり」は水タイプの技。ケルディオに効果は今一つであったが、この技は全体攻撃である。
自分を中心軸として全方位に攻撃を放てる「なみのり」はケルディオのスピードに追従するのに必要であった。
命中したケルディオが「なみのり」の場から離脱するために地面を強く蹴ろうとする。
当然だ。足場がなければ如何に強力な格闘ポケモンであろうとも、どうしようもない。格闘タイプの弱点は何もない中空で攻撃出来るほどの器用さを持ち合わせていない事。
絶対に攻撃のモーションが存在する。
その隙が如何に少ないかだけの話。
ケルディオが地を蹴ったのを感覚したムーランドが次の技を試す。
「ストーンエッジで逃げ場をなくす!」
地面を踏み締めた途端に発生したのは退路を崩す岩壁であった。突如として屹立した壁にケルディオがたたらを踏んだ。それをノアは目視し、手を払った。
「波乗りの接触点を利用して、攻撃! 雷の牙!」
「なみのり」によって地面は泥のようにぬめっている。水は電気を通す。基本的な戦術であった。
結果として全方位に放たれた「かみなりのきば」の一撃がケルディオを身体の内側から焼いた。
後退しようにも岩壁のせいで逃げ場のないケルディオは全身に裂傷を作る。
ムーランドが反転し、ケルディオを真っ直ぐに見据える。
ケルディオも覚悟を決めたようであった。
その角が薄く輝き、「インファイト」を予感させる。
――ここから先は、怯えたほうの負けだ。
「ムゥちゃん! ケルディオ本体に、雷の牙!」
地を蹴りつけて肉迫したのは同時であった。
ケルディオの角が輝き、ムーランドへと一撃必殺の格闘技が叩き込まれようとする。
ムーランドが口腔内から電磁を放出し、「かみなりのきば」がケルディオの身体に突き刺さった。
それとその角による一撃がムーランドを突き破ったのは同時。
ムーランドが姿勢を崩し、転倒しようとする。
まさか、と息を呑んだ。
ムーランドはしかし、足先一本で耐えていた。
最後の一撃を耐え凌いだのは、ムーランドのほうだ。
ケルディオが崩れ去る。
膝を折った瞬間を狙い、ノアはモンスターボールを投げた。
ケルディオが赤い粒子となって飲み込まれる。
ボールが揺れ動く。一瞬でさえも気の抜けない状況。
やがてピタリとボールは止まり、内側からロックがかかった。
「やった……ケルディオを、捕まえた……」
信じられない心地なのだろう。アリスの言葉にノアは覚えずへたり込んでいた。
初めてであった。ポケモンを力で屈服させて仲間にしたのは。
毎回これほどまでの緊張を通常のトレーナーは味わっていたのか。
「そりゃ、強いわけだ……」
今さらにその感慨が湧き起こってきてノアは笑っていた。
アリスがボールを掴んでノアに差し出す。
「これで、ようやくあなたのポケモンになった」
「ああ、だがまだ、完全にボクを信用してはくれないだろう。あと、三日、か」
その間に、ケルディオを物にしなければならない。プラズマ団員と対等に戦えるくらいには。
険しい道のりだ。
しかし決して悲観する事はない。それだけは、目の前のボールが証明していた。
――まだ、ボクは戦える。