第3楽章「pastel pure」
何度目かの薄い覚醒と夢の間を行き来しているうち、Nは眠り続ける事さえも出来なくなってしまっていた。
脱水症状が襲い、酷く吐き気がする。それを汲んでか、アリスが木の実を溶かしたジュースを自分に飲ませてくれた。
しかし一滴でも飲もうとすれば胃液を吐き出してしまう。
身体が受け付けないのだ。
もう、生きていたくないのだという自分の心を映し出したかのように、一滴の木の実ジュースも飲めやしない。
「ゴメン……、今日はもう」
「駄目。飲まなくっちゃ、栄養が摂れないですし……」
困ったように微笑む彼女は何度吐き出しても根気よく、自分に栄養を摂らせようとしてくれた。
Nは窓の外を窺う。
あの日からずっと、曇り空のままだ。
自分の新緑の髪が失われた事を、アリスから告白された時、もう自分はNではないのだな、と感じ取った。
この時間軸のNは彼だ。
では自分は?
あの先に待つ運命を知り、敗北し、全ての愛に見離される自分は何なのだ?
理想と真実を突き詰めたかっただけなのに。
プラズマ団の言う通り、ポケモンを人間の手から解放したかった、ただそれだけなのに。
何もかもを失い、放浪の旅を続けた結果が振り出しに戻るのでは話にならない。
しかもその振り出しは、自身の消滅という形でしか贖えないなど。
Nは何日も雨の降りしきる窓際を眺めて言いやった。
「この世界に、晴れが来る日はあるのだろうか」
不意に発した疑問に、スプーンを差し出していたアリスは困惑したようだった。そんなの、あるに決まっている。普通の人はそう言って笑うのだろう。しかし、どこか困ったように笑うアリスは、何ででしょうね、と同調した。
「あたしも、晴れなんて来ないのかな、って思ったりします」
この人は素直なのだろうな、とNは感じていた。素直がゆえに、人に傷つけられやすい。
そうやって傷ついてきた人間もポケモンも、数多く見てきた。
信じなければ、他人に期待しなければ、何も起こらずに済むのだ。だから誰にも期待しない。無論、自分さえも。
自分さえも信じられない自分が憎くって、余計に世界を拒絶する。
そうやって、人は人と出会わないまま、決定的な瞬間を逃していく。
この時間軸に囚われる前の自分ならば、彼女に気の利いた一言くらい添えられたかもしれない。
しかし、トモダチと話す能力も失われ、過去も未来も見えぬ中、何を信じろというのだ。
せめて明日の天気くらいは信じたいのに、それさえも信じられないなんて。
「ボクは、この世界に生きていていいんだろうか」
プラズマ団にいた頃より感じていた疑問。自分はこの世界の異物ではないのか。
王だと祀り上げられた末に待っていたのは、化け物という末路であった。
自分はゲーチスや他の人々からしてみれば畏怖の対象であった。良くも悪くも。
だからこそ、王でいられた。孤独な王で。
しかし一度、その枠から外れれば、王など意味はない。
プラズマ団は崩壊したのだ。もう囚われなくっていい。前までならそう思えたが、この時間軸においてプラズマ団は最盛期。
自分でさえも止められないうねりの只中にある。
「……あたしも、たまに思います。あたしの役割って、何なんだろうって」
普通の人間もそう思うのか。Nは、ならば余計に分からなくなってしまう。
自分に役割がないのだとすれば、それは何のための人生だ? 何のために生きていて、何のためにこの世界がある?
何のために、自分はこの時間軸に飛ばされてきた?
疑問だらけの世の中に、Nはどうしようもなかった。
ここまで無力だとは思わなかったのだ。
ポケモンも失い、能力も失い、何もかもがない。何もない存在に、意味が宿る事などあるのか。
Nは明日さえも描けなかった。
明日の天気がもし、晴れじゃなかったら。
もうこの灰色の世界で生きていくのには疲れていた。
「ボクは、死ねたんだ」
その言葉にアリスはスプーンを取り落とした。その段になって彼女が涙ぐんでいる事を察知した。
何故泣くのだろう、と思った瞬間、部屋に乾いた音が残響した。
叩かれたのだ、と熱を帯びた頬で感じ取る。
「……そんな事、言わないで。だって、もし、あなたさえも意味がないって言うのなら、あたしは何のために……ここにいるのか、本当に分からなくなってしまう」
泣きじゃくるアリスへとNは言葉を投げようとして、何も言えない事に気づく。
そんな事ないだとか、キミには価値がある、だとか、泡沫のような言葉しか浮かんでこなかった。
今のアリスを癒すのに、表層の言葉は無意味であった。
「ゴメンなさい、あたし……」
踵を返したアリスが部屋を出て行く。
Nは一人、頬の熱と対峙した。
「この熱は、ボクだけのものじゃない……。ボクだけが、この世界の辛い面を見ているわけじゃ、決してないんだ」
この世界には、自分が救おうと思っていた頃でさえ、困窮し、生きていく事に疲れている人間が数多くいた。
それに気づけず、自分はプラズマ団の王など。
――自惚れだ。
Nは拳をぎゅっと握り締める。
自分はいつの間にか、甘えていた。自分の不運な境遇に酔っていたのだ。
普通の人々はたとえ明日が雨であっても、嵐であっても、または世界の全てが祝福するような晴れ間であっても、関係がない。
ただ生きていく。生き続けていく。
その意志を自分は侮辱していた。
Nは窓の外を見やる。
明日がたとえ雨でも、晴れでも、自分は……。
どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。
後になってアリスの胸を締め付けたのは、彼のような高貴な存在に自分のような町娘が頬を張っていいわけがない事であった。
彼はきっと多くの事を成してきた。だからこそ、疲れていたのだ。
それを悟れず、自分の感情を発露してしまった。
癒しの家を営む人間、失格である。
「謝らなくっちゃ」
しかし自分一人では謝れる気がせず、やはりムゥちゃんを連れて彼へと謝りに行く事にした。
木の実ジュースをろ過して、彼に飲ませようとしたのだ。
気が重いまま部屋に入ると、視界に飛び込んできたのは、立ち上がろうとする彼の姿だった。
覚えず駆け寄り声にしていた。
「危ないです!」
「いや、もう甘えていられない。ゴメン、アリス。ボクは何も、分かっていなかった。本当に、ゴメン」
「あなたがここに居ちゃ駄目だって言ったわけじゃ……」
「いや、ボクは甘ったれだった。明日が晴れてなくても、雨のままでも、一度外に出よう。そうしなければきっと、何も変わらない。そんな、些細な事なんだ」
彼の中で何か決意があったのか。
アリスには分からなかったが、先ほどの行動を咎めない彼に問いかけていた。
「その、さっきは感情的になって、ゴメンなさい……」
彼は少しだけ目を見開いてから、ゆっくりと頭を振る。
「いや、気づかされたのはボクのほうだ。そうだ、明日がどうだって、関係がない。ボクには、ボクの明日がある。キミにはキミの明日があるように」
彼の言葉に宿るのは勇気だ。明日への希望が満ちている。
どうして。
あれだけの傷で倒れていたのだ。
きっと憎まれていた違いない。恨まれていたに違いないのに。
彼は明日を見ていた。
どうしてもう、未来だけを見据えられるのか。
アリスにはその生き方が、どこか輝いて見えた。
「それでも、あたしはこの家の主人。あなたの傷が癒えるまで見守る義務があります」
「その、アリス。敬語はやめてくれないかな。ボクはそんな、大それた人間でもないんだ。それに、敬語はその、どこか余所余所しくってあまり好きじゃない」
彼が始めて意思表示をした。
それに驚いていると彼は困惑する。
「変な事、言ったかな?」
アリスは困ったように笑ってしまう。困ったようにしか笑えないけれど、それでも。
「分かった。じゃあ、いい加減、名前を教えてくれる? 呼びにくいし」
その言葉に彼は顎に手を添えて考え込む。
「名前、か……」
何か、悪い記憶でもあるのだろうか。アリスが顔色と窺うと、彼は、いや、と口にした。
「明日の天気で決めよう」
「変な事を言うのね。ひょっとしてイジワル?」
少しだけ皮肉を言ってやると、彼は微笑んだ。
「いや、多分これは気分、っていう奴だと思う」
太陽の光が降り注ぎ、灰色の世界に切れ間を生じさせた。
木の実をつけた木々が久方振りの太陽光に浮かれたように伸びているのが分かる。
この世の祝福が訪れたかのような、奇跡の晴天。
青が視界に突き抜けてくる。
この世界では、もうNではない。
Nはこの時間軸に生きるもう一人だ。
では自分はどう名乗るべきか。Nではない、もう一人の存在として。
「ずっと雨なんだと思っていた。それこそこの世界を洗い流してしまうみたいに」
「まるで神話の話みたいね」
アリスが陽光を手で翳しながら口にする。
「神話?」
「聖書よ。長く続いた雨と洪水の後、鳩を一匹遣わして、オリーブの実をくわえてきた時に、ようやく、制裁の日々が終わったって思うの」
「その登場人物の名前は?」
アリスはNを見据えて言いやった。
「ノア、って言ったかしら」
――ノア、その名前を咀嚼する。自らの名前であるNと符合するものを感じ取った。
「だったら、ボクは今日からノアだ」
その言葉にアリスはむっと頬をむくれさせる。
「ふざけているの?」
「いや、ボクは今日からノアと名乗る。この世界において」
Nを名乗る事が許されないのならば、せめて赦しの名前として。
アリスは怪訝そうにしていたが納得したらしい。
「まぁ、呼び名があったほうが分かりやすいし。あたしもその名前で呼んでいい? ノア」
N――ノアは首肯する。
「もちろん。キミに最初に呼んで欲しいくらいだ」
アリスはその言葉に頬を赤らめて困ったように笑う。
「その、からかうのは……」
「ああ、ゴメン。クセみたいで」
「……いい、許すけれど、でも本当にノアでいいの?」
「ああ、それで構わない。そして今日が晴れてくれて助かった」
ノアは左肩に巻いたギプスを軽く動かす。まだ痛みがあったが、治る頃には完全に動かし方を忘れているという。
「リハビリになるといいけれど、でもあたしの庭園の手伝いまでしてもらうのは悪いわ」
「いいんだって。全部キミに任せっきりだ。ボクも手伝いたい」
「重労働よ、割と」
「そのほうが、治りも早いかもね」
ノアはそう微笑んで、アリスの庭園へと歩を進めた。
家屋の隣には木の実の庭園がある。様々な種類の実をつけた木の実をもぎ、今日の糧とする。それが彼女の生活だ。
「ムーランドは、じゃあ何のために?」
「護身用よ。ムゥちゃんはお利口だから、危険な人が来るとすぐに分かるの。あなたを見つけた時にも気が立っていたわ、そういえば」
追っ手がまだ近くにいたのだろう。アリスに気づかなかっただけでも幸運か。
「テレビとか、外界の情報を得る手段は? そういえばないように思えるけれど」
別室にも彼女のベッド以外、さほど重宝している品はないように思われた。
「あたしはずっとこれ」
掲げられたのは手首に巻いたポケッチであった。
「ラジオしか受信出来ない」
「それでいいの。テレビは、何だか点けていると余計に気が削がれちゃうし、それにたった一人だって余計に分かっちゃう」
彼女なりの処世術か。
ノアは目についた木の実をもごうとして、彼女の手に遮られる。
「駄目よ。この子はまだ早い」
撫でた感触は完熟に思われたが違うのだろうか。
「触れた感じだと完熟だけれど」
「木の実はジュースにするから。熟れ過ぎたくらいがちょうどいいのよ。この子のほうがいい」
手にしたのは少しばかり熟れて外皮に亀裂が走っているものだ。
それがアリスの得意な木の実ジュースの材料となる。
「でも、アリス。木の実ジュースって、毎日結構な量を作っている気が擦るけれど、どうやって?」
「最近、新しいジューサーが出回ったのよ。こっちに来て。あっ、その子はまだ早いから、こっちの子をもいであげてね」
アリスに一つずつ教わりながら、ノアは木の実を収穫し終える。
厨房に持ってきた木の実を水洗いしてから、アリスの取り出したのはツボツボ、というポケモンを模したジューサーであった。
「ツボツボの」
「そう、元々木の実ジュースはツボツボの体内にある内部ろ過装置を通して取り出せる希少なものだったんだけれど、その内臓の配置がようやく判明して。イッシュで先行販売されたわけ」
「……本当に、ボクは何も知らなかったんだな」
人々の営みに、興味などなかったのかもしれない。
「木の実ジュース自体、作るのが面倒だからって言う人がほとんどだし、気にしないでいいと思うけれど」
「いや、そうじゃなく……ああ、でもこれは、ノアとしての言葉らしくない」
Nならば言ってもおかしくはないが、ノアならば知らなくてもいいような知識だ。
「何それ」と彼女は笑う。
またしても少し困ったような笑み。
「いいから作り出そう。せっかく、晴れたんだし」
この世界で祝福されているうちに作りたい。そう、ノアは思っていた。