FERMATA








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序幕 再演
第2楽章「嵐ヶ丘」

 ゴゥン、ゴゥンと鐘の音が鳴る。

 逃れ続けても追いかけてくるのは焦燥か、あるいはこの場所の絶対的強制力か。

 Nはライモンシティを抜けたところでようやく、黒い煙が指先から棚引いていない事に気がついた。

「何だったんだ、今のは」

 いや、それよりも。

 Nは先ほど確認した事項を脳裏に呼び起こす。

 この時代、この場所は自分がかつて、プラズマ団蜂起に尽力したあの瞬間だというのか。

 時代を特定する手段は人伝のみ。だが、あのNは確かに自分であった。その確信はある。

 樹木にもたれかかって、Nは考えを巡らせた。

「セレビィというポケモンの有する能力は本物であった。だとすれば、ボクはかつての自分と向き合う形になるのか。だがそれは、タイムパラドックスが生じる」

 自分と自分が向かい合った瞬間、巻き起こった現象を鑑みるに真正面から自分と向かい合えば何かが起こる。

 混乱する脳内を整理するため、Nは石を手に取り、樹木の表面に分かっている事を刻んだ。

「一つ、この時代がプラズマ団蜂起の前である事。ボク……Nは一切の真実を知らないままである事。そして極めつけなのは……」

 ホルスターを手繰る。だが、もう手持ちは一体もいなかった。

「ポケモンを、ボクが所持していない事。これでは勝ちようがない」

 セレビィの操るのは時間なのか。それとも、これは幻想なのか。

 その判断を下す必要があったが、物理現実と仮想現実を分ける手段は思い浮かばない。

 鼓動を確かめる。生きてはいる。脈もあった。

「夢を夢と判ずる手段に乏しいように、これが本当にあの時代なのかを判断するのには客観的材料に頼るしかない。ひとまずは手持ちの確保だ。そうしなければ、ボクは自らにやられるだろう」

 あのN……何も知らなかった頃の自分はこの自分を攻撃対象と見るに違いない。すぐにでも追っ手が差し向けられる可能性があった。

 ボールが必要だ。いや、そうでなくともポケモンがいればいい。

 周囲に草むらを探していたその時である。

「おんやぁ? N様が先ほど逃げた奴を追えと仰ったと思えば、何者だ? お前」

 ゼブライカに騎乗してこちらを窺うのはプラズマ団員である。早速か、とNは歯噛みした。

「……ボクが何者なのか、分からないのか」

「N様そっくりに化けてやがるのか。随分と賢しい真似をする反逆者もいるじゃないか」

 反逆者。当然か、とNは感じ取る。プラズマ団が法になる一歩手前のイッシュ。この時代においてプラズマ団に楯突く存在は全員、反逆者だ。

「ボクはNだ」

「本物がそんな事言うわけねぇだろ。小賢しい偽者め」

「本当だ! ボクはNなんだ!」

 プラズマ団員は唾棄すべき対象のように自分を睨み、言い捨てた。

「性質の悪い冗談ってものが世の中にはある。お前がそれだ、偽物野朗。まさかN様を名乗って悪さしようっていうんじゃないだろうな? そんな考え、許されると思うのかよ」

「……でもボクはNなんだ」

「何度も言わせるな! N様がそんな事言うかよ! ゼブライカ!」

 跳ね上がったゼブライカが電撃を充填する。「ニトロチャージ」の姿勢に入ったゼブライカにNは妙案を思いついた。

「そうだ……人間には分からないかもしれない。でもポケモン……トモダチなら、ボクの事、本物だって分かるはずだ。ゼブライカ! ボクはNだ! 攻撃を中断しろ!」

 絶対的な言葉になるはずだった。

 今までポケモンに裏切られた事はない。だから、これも当たり前のように受け入れられるだろうと。

 だが、返ってきたのは、敵意しか感じられない電撃の鞭であった。

 その電撃が語るのは一つ。

 ――偽物がNを穢すな。

 その眼に殺意が宿る。まさか、とNは身構えた。

「ゼブライカ! ボクはNだ!」

「嘘もここまでくりゃ上等だな。確かに、N様には特別な力があるみたいだ。でも、それが通用するのはN様だから。ポケモンと話せるってのも嘘じゃないんだろう。だが、それは本物の話だ。これで決定的だろ? お前は偽物なんだよ」

 そんな、とNは息を呑む。

 そんなはずはない。ポケモンの言葉は分かるはず。ポケモンの心だけは理解出来るはずだ。

「ゼブライカ! キミの心を教えてくれ! ボクならそれが分かるんだ! だってボクは――」

「ニトロチャージ」

 発生した炎熱の皮膜がNへと襲い掛かった。吹き飛ばされた形のNが激しく背中を打ちつける。

「これ以上、N様を騙るな、偽物」

「でもボクは……」

 その段で気づいた。ゼブライカの声が分からない。ポケモンの言葉が、一切分からない。心も、通じ合っていないようであった。

「能力が、失われた……?」

 そうとしか考えられなかった。理由は不明だが、自分に元から染み付いていた能力が全て、そぎ落とされたようである。

 それでも抵抗を続けようとするNへと電撃の網が見舞われる。

 ゼブライカは本気だ。本気で、自分を排除しようとしている。

 ポケモンにこれほどまでに純粋な敵意を向けられた事のなかったNは狼狽する。

「そんなはずはないのに……。トモダチが、ボクが分からなくなったって言うのか!」

「軽々しくN様のようなことを言うんじゃねぇ!」

 プラズマ団員の怒りを引き移したようにゼブライカの攻撃に迷いはなかった。恐るべき速度でNを追い越し、その蹄が鳩尾に叩き込まれる。

「にどげり」が弾け、Nは再度叩きのめされた。口中に滲んだ血の味が、屈辱となって身体を駆け巡る。

 自分にNという証明が一切ない。

 それが堪らずに悔しい。しかも、それをどうにかする手段がこの場において何も残されていない。ゼブライカが首を振って攻撃姿勢に入ろうとする。トレーナーの強制力以上にこのポケモンは主張している。

 偽物に、この場での発言権はないと。

 そして、せめて清く死ね。その言葉の裏打ちのように、浴びせかけられる電撃の放出量は容赦がなかった。ゼブライカは本気だ。本気で、自分を殺す気であった。

 そうだ、ゼブライカからしてみても、プラズマ団員からしても至極当然な答え。

 自分達の栄えあるリーダーを穢す存在を、許せるはずがない。

 Nが飛び退って電撃の直撃を回避したが、ポケモンの反応速度に人間がついてこられるはずもなかった。

 即座に回り込んできたゼブライカの「にどげり」の応酬。Nは腕を交差させて防御しようとしたが、それさえも脆く崩れ去る。

「これでハッキリしたな、偽物。N様ならば、ゼブライカ程度簡単に服従出来るはず。メッキが剥がれたとはまさにこの事」

「違う! ボクは、本当にNなんだ! 信じてくれ! だって、この姿形を真似ようにしたって、無理があるだろう?」

「その言い草が偽物臭いんだよ、三下が。プラズマ団の解放の理念を曲げようとする背信者が、恥を知れ!」

 違う、と言おうとしたNの肩口へとゼブライカの雷撃の角が突き刺さった。血飛沫が一瞬にして蒸発し、内奥からの灼熱で血管が焼け爛れる。

 呻き声を漏らしたNへとプラズマ団員は追い討ちを仕掛けた。

「やめるなよ、ゼブライカ。そいつを、その……身の程知らずのクソ野朗を、ここで生かして帰すわけにはいかないんだからな」

 ――殺される。

 足元から這い登ってきた恐怖は今までに感じた事のないものであった。

 ポケモンに殺されるなど、一度して考えた事などない。

 トレーナーは言わずもがなだ。

 自分は誰よりもトモダチの事を理解していたつもりであったし、自分を上回るほどの人間にはたった一人しか会った事がない。

 理想と真実を問い質したあの戦場で、自分へと唯一無二の敗北をもたらした、あの存在しか……。

 だが、今の敵はあのような崇高な場所での戦闘などでは決してない。ここで死ねば路傍の石と変わりない存在価値しかないだろう。

「信じてくれ! ボクはNなんだ!」

「だから、どこまでも底意地の悪い、クソッタレだな。N様は、この世に唯一無二だ。そんな事も分からずにプラズマ団に潜り込もうとしたのか? 他の組織からの回し者にしては、頭がさほど回る風でもない」

 ゼブライカがそのまま突き飛ばす。

 腕が千切れるかと思った。灼熱の角による追突はしかし、ダメージよりも熱が勝る。

 少なくともまともに命中した左肩から先は動きようがない。

「信じてくれ……、ボクは……」

「うるさいんだよ、偽者。ここで潔く、死ぬんだな」

 こんなところで死ぬ?

 自分は、答えを探して彷徨っていたはずであった。

 放浪の旅も、全てがあの日の答えを見つけるためにある。そのために、全てと決別したはずだ。

「サヨナラ」と言ったのは一つも嘘ではない。嘘など、自分は一度としてついた事もない。

 父親への思慕も、拒絶も、全てが真実だ。

 だというのに、この世界は自分を拒む。異端者として、切り捨てようとする。

「ボクは……ボクは……」

 どうすればいい? Nとして、もう二度と立ち上がる事も出来ないのか。

 雑草を握り締める。ゼブライカが次の攻撃に移ろうとする前に、Nは、今までの人生では一度もやった事のない行動に出た。

 雑草を抜き取り、トレーナーへと投げつける。

 それによって生まれた一瞬の隙をついて、Nは逃げ出した。

 敗走。

 今までどれほどの苦悩に揉まれても、負けて逃げる事だけはした事がなかった。

 それはトモダチが――ポケモンがいつだって傍にいてくれたから。自分の理解者が、いつだって近くにいたから。

 だが、この時間軸には自分の味方など一つもない。

 一人として、自分をNとしてこの世で認めてくれる存在もない。

「逃がすな……、ゼブライカ、追え!」

 追撃の声が響き渡り、ゼブライカが駆け抜ける。Nは左肩口の凝固した血液を右手でさすった。赤々とした鮮血に今にも意識が閉じそうになる。

 これほどの出血、放っておけば死ぬだろう。

 しかし、ここで死ぬわけにはいかなかった。

 Nは手持ちのサバイバルナイフを傷口へと突き立てる。あろう事か、熱で閉じているはずの傷口を開き、血潮を撒き散らした。

 草いきれが一瞬にして血の臭いに染まり、朦朧とする意識の中、Nは巨木の陰へと隠れた。

 雨が、しとしとと降り始めていた。

 血糊を見つけたゼブライカが周囲を見渡している。

 これで、Nはゼブライカに自分が出血多量で死んだと誤認させたつもりであった。

 幸いにして幼少期の経験から、どれほどの血の量ならば死んだかどうか判断するという知識は経験として存在する。

 ゼブライカはしかも、捕獲されたポケモンだ。野性の時の嗅覚はほとんど使わないはず。

 トレーナー任せのポケモンに賭けた行動であったが、果たして、と息を詰めた。

 もし、ゼブライカには自分が思っていたよりも野性の本能が勝っており、Nの居場所に気づけばそこまで。

 呼吸を殺し、気配を殺してNはその時を待った。

 やがて、蹄を鳴らして遠くへと去っていくゼブライカの気配がした。遠ざかっていく。死の足音がようやく、自分を遠ざけた。

 安堵した肉体からどっと疲れが漏れる。

 医療技術の心得はない。

 しかしトレーナーカードはプラズマ団に属している以上、存在しなかった。今までも木の実を用いた間接医療をポケモンに用いてきたものの、人間に関しては無頓着が過ぎた。

 止血する方法もどこかから借り受けた知識で、Nは服飾を千切り取り、傷口へと布を押し当てた。

 瞬く間に赤に染まっていく布がどこか虚飾めいている。

 ああ、自分は、こんな場所で何をやっているのだろう。

「ボクは……この時間軸では何者でもない。Nでも、ましてやプラズマ団の王様なんかじゃ、決してないんだ」

 この時間軸では、王を模した、張りぼてに過ぎない。

 滑稽で笑いが漏れてきた。

 かつて父親であるゲーチスからも張りぼての化け物扱いされた自分が、こんな場所で死んでいこうとしている。

 朽ちる時はそんなものか、という諦観が勝っていた。

 自分にお似合いの末路なのかもしれない。

 プラズマ団の王として、無数の人々の骸を踏み越えてきたその因果の終着点だと思えば。

 諦めもつく。

 つくはずなのに……。

「何で……死にたくないって思っているんだろう」

 涙で澱んだ景色の中、雨が降りしきっていた。

 巨木は優しく、Nの身体を抱いてくれている。夜空も仰げず、晴天の下でもなく、こんな曇天が自分の最後だとは。

 重く垂れ込めた空には、一筋の光さえもない。

 世界は灰色に覆われ、黒と白など最初から存在しなかった。

 黒と白、善と悪、理想と真実――。

 しかしそんなものはまやかし、虚像だ。追いかけても追いつけない逃げ水だ。

 この世界は最初から、自分に優しくなどなかった。

 あるいは、と考えてしまう。

 悪の芽を摘もうなどと、分不相応な考えさえ浮かべなければ、今頃はもう少し、楽になれていただろうか。

 だがそれしか存在しない気がしたのだ。

 自分の贖罪の道は。

「ああ、世界はこんなにも、澱んでいたのか……」

 汚い側面をいくつも見てきたつもりだった。無論、この世の美点も他人よりかは見つけてくたつもりだ。

 しかし、そのようなエゴの塊のような考えも終わる。

 自分の命と共に。

 Nはそっと目を瞑った。

 眠るように死ねればいいと感じていた。












 いくつかの記憶がある。

 森を抜けていく感覚だ。新緑のアーチを越えた向こう側には滝つぼがあり、水ポケモン達が戯れている。

 ――ボクも仲間に入れてよ。

 そう言えば、ポケモン達は全員、迎えてくれていた。喜んで居場所を差し出してくれた。

 いつ、ポケモンの声が分かるようになったのか。その心が分かるようになったのかは判然としない。

 だが、彼らがこの世界にあまねく限り、きっと世界はよくなるだろうと考えていた。

 世界は今以上に悪くなる事なんてない。

 ポケモンの森にいる時、自分は満たされていたのだ。

 自分の親が分からなくとも。ポケモン達がどうしてこの森に集ってきたのかが分からなくとも。

 外の世界がどうなっているのか、一生分からなくともいいと思っていた。

 牢獄のような森林。

 あるいは天国のような楽園。

 どちらでもいいと感じていた。

 この場所がたとえ咎人の繋がれる牢屋であっても、全ての業から許された存在だけが辿り着ける最後の楽園であっても。

 自分が生きている事だけは変わらない。

 ポケモン達が生きていく事だけは変わらないはずであった。

 ――あの日、ゲーチスとプラズマ団が現れる前までは。

 ゲーチスのした事は、実のところ少ない。

 ポケモンと過ごせる楽園を作ろう。それだけの、ほんの些細な言葉だった。大それた野望などまるでないように、そう囁きかけられただけ。

 トモダチが悲しむよりかは、自分はトモダチのためになれるほうがいい。

 そう思ってプラズマ団の王様になったのだ。

 ゲーチスはあらゆる事を自分に教えてくれたが、最初から最後まで、愛だけは教えてくれなかった。

 愛する事、愛される事を教えられた事だけはない。

 あらゆる学問、あらゆる学術を脳内に収めた自分でも、分からない事があるとすれば、それは他人を愛する事であった。

 世界は愛おしい。

 だが、個人を愛する事は出来ない。

 トモダチに優劣が付けられないように、自分は多分、一生誰も愛せないのだろう、と思っていた。

 それでいいのだと思っていたし、今もその気持ちだけは変わらない。

 ただ、死ぬのであれば一人くらい、誰か特別な人に思慕を抱くべきであった。

 そうするのが、「人間」のはずなのであった。

 胸を締め付ける後悔の念は、ただ一つだけ。

 ――ああ、ボクにもう二度と、サヨナラを言わせないでくれ。













 ハッと目を覚ました視界に映ったのは木目の天井であった。

 自分はまだ夢うつつの中にいるのか、と錯覚したが、左肩の激痛が現実だと訴えてきた。

 どういう事なのだ、と周囲を見渡そうとすると、簡易処置しか施していなかった左肩には包帯が巻かれ、上着は脱がされていた。

 Nは起き上がろうとしつつ、その度に激痛に襲われた。

 生きている事のほうが不都合だと言わんばかりの瞬間的な痛み。トモダチに傷つけられた最初の傷痕。

 完全な拒絶の意図が傷から滲み出てくるかのようだ。

「気がつきましたか」

 その声に顔を上げると歳若い女性が、扉を開けて入ってきたところであった。

 誰だ、と習い性の身体が警戒を走らせるも、肩口の痛みの前ではそれすらも霧散する。

「あっ、動かないでください。傷は結構深くって……、あたしも簡易処置しか出来なかったんですけれど……」

 申し訳なさそうに女性は面を伏せる。Nはその段になってようやく、この場所がどこかの家屋なのだと認識した。

「ここはどこだ?」

「ライモンシティの近くです。あたし、その、自信ないんですけれどブリーダーをやっていて……。旅をするトレーナーさんを休ませる施設もかねているんです。あっ、一応ポケモンリーグからは許可も取っていて、その、怪しい場所とかじゃないです……多分」

 消え入りそうな声にNは左肩の包帯をさすった。まだにわかに赤い。傷口を縫合する事も出来ていないのだろう。

「ポケモンの、医療施設……」

「有り体に言えばそうですけれど、何て言うんですかね、憩いの場、ってよく呼ばれています。ガラじゃないんですけれどね」

 そう言って僅かに微笑む女性は一体のポケモンを引き連れていた。イッシュではよく見るポケモンである。主を守る忠実なしもべを思わせるその威容に、Nのほうがたじろいだ。

「ムーランド……」

「あっ、知っているんですね。ムーランドのムゥちゃんです。あたしの、最初で、それでいて一番の相棒なんです」

 ムーランドまで育て上げるのにはそれなりの時間を要する。ブリーダー、だというのは間違いではないらしい。

「ここは、トレーナーの簡易医療施設だと思えばいいのか。でも、ライモンから遠くないって事は」

「ええ、旅のトレーナーさんから懇意にしてもらっています。その、あなたが樹の影で倒れているのをムゥちゃんが見つけてくれて。それで何とか助け出せたんですけれど、その……怪我が酷くって。あたしみたいなにわか仕込みのブリーダーじゃ治せるのも限られていて、お医者様を呼んでおきました」

 ムーランドがその時、玄関口に向かって吼えた。現れたのは白衣を纏った初老の男性である。

「おお、ムゥちゃんは懐かないなぁ、相変わらず」

「すみません、カヤノさん。こんな時に頼っちゃって……」

「いいわい。ワシもポケモンに懐かれる性分はしておらんからな」

 ムーランドをあしらった医師はNを見るなり、ほおと感嘆したようであった。

「……何か」

「いや、何も。アリスお嬢ちゃん、ちょっと別室で待っておいてもらえるか? ワシはこの御仁と話がしたい」

「話、ですか……。その、危ない事とかじゃ……」

「ないない。その辺は安心しておいてくれ。ワシだって怪我人に鞭打つような趣味はない」

 アリス、と呼ばれた女性は別室へと困ったような微笑みを湛えたまま控えていく。

 ムーランドがこちらに不躾な視線を向けてくる中、カヤノが切り出した。

「お前さん、カタギの人間じゃないね」

 まさか、とNはざわめく。自分の事を知っているのか。

 覚えず、と言った様子で掴みかかっていた。

「ボクの事を、知っているんですか!」

 瞬間、激痛が走り、Nは額にどっと汗を掻いた。カヤノがその腕を払い除ける。

「男からの熱烈なボディタッチなんぞお呼びじゃないわい。ワシはな、一応医師免許は持っている。それに、大概の患者を診てきたが、お前さんの顔を見りゃ分かる。そいつが、表を歩いてきたのか裏を歩いてきたのかくらいはな」

「……何者なんですか」

 ようやく搾り出せた声がそれだった。

 カヤノは懐から煙草を取り出す。火を点けて静かに紫煙をたゆたわせた。

「さて、どこから話すべきか。……とかく、お前さんみたいな眼をした人間は分かるんだよ。それこそ、山のように見てきたからな。人の邪悪を覗き込んだみたいな眼ェしやがって」

 そんな暗い眼差しになっていたのだろうか。Nが目を伏せるとカヤノは嘆息と共に煙い息を吐き出した。

「プラズマ団、っていう新興宗教がこのイッシュでは流行っているみたいだな。ところ構わずデモが巻き起こっているし聴講会みたいなのもよく見かける。まぁ、ワシは滞在先の地理や経済なんてころっと忘れるタイプだから、カントーに帰ればそれこそ、一個も覚えておらんのかも知れんが」

「カントーの……。じゃあ外国のお医者様なんですか」

「正確には、表の医者じゃない。裏稼業、何でもござれの人間さ。向こうじゃヤマブキで通っているが、イッシュに医療関係の仕事で滞在していてな。一週間ほどこっちのこういう、簡易医療所を回っている。まぁ、その辺の統一管理をしっかりしているかの抜き打ちテストだな。お上の一声でワシにも声がかかった。で、お嬢ちゃん……アリスって言う子の経営するこの簡易医療所に来る予定日に、お前さんのようなどこの馬の骨とも知れない人間が倒れている、という報告を受けた」

 煙草を吹かすカヤノに、Nは言葉を失っていた。この初老の男性は、では正規の医者ではないのか。

「その、ボクの事は……」

「安心しろ。上には報告しておらん。そもそも、結構いるもんだ。怪我人を偽って簡易医療所を不当占拠し、挙句その管理者を殺したり犯したりする奴なんざ」

 Nは瞠目する。自分がそのような凶行に及ぶはずもない。

「そんな! ボクは何も……!」

 訴えかけようとして、傷口の痛みが邪魔をする。カヤノは目を細めた。

「安心しろ。お前さんがそんな性質の悪い連中なら、もうとっくにお嬢ちゃんはカモだ。ワシが来た、という事でその疑いは晴れたと思っていい」

「でも、ボクは……。そんなの……」

 カヤノはムーランドを目にして、はんと息をつく。

「ポケモンはワシらが思っているよりもずっと聡い。害を成すつもりなら、もうやっている頃合だろう」

 ポケモンが聡い。その言葉だけで、カヤノの経験に裏打ちされたものが窺えた。

「……ボクが何者なのか、聞かないんですね」

「怪我人に説教やってどうする。傷口を見せろ。場合によっちゃ大病院に行かなきゃならん」

 カヤノはアリスが応急処置を施した場所を見やり、すぐさま適切な処置を済ませた。点滴を打ち、傷口を縫うのだが、麻酔は持ち合わせていないのだという。

「すまんな。これで死んだら……まぁそこまでの人生だったと思ってくれ」

 部屋の中に充満する血の臭い。死の臭気。

「……ボクは、死んでもおかしくない。そうい人間だった」

「うん? 懺悔ならワシにしたって意味ないぞ」

 意識が朦朧とする中、Nは何度もうわ言のように口にする。

「ボクは、死んでも、殺されてもおかしくなかった……」

「諦めるのは勝手だが、後味悪いから口は閉じてろ」












「……終わりました?」

 アリスは庭先で木の実に水をやっていた。カヤノが入ってもう二時間を超えていた。

 屋内から出てきたカヤノがやったのはまず一服だ。

 アリスは僅かに距離を取った。あまり喫煙者は好きではない。

「……あの坊主、何度も言っておったな。自分は咎められて当然の事をした、と」

 それは、とアリスは口にしかける。それはつまり、彼は悪人なのか、と。 

 しかし何度もその機会を失って、結局は項垂れた。

「安心するといい。一命は取りとめた」

「それは、その……ありがとうございます」

「お嬢ちゃん、もうちょっと愛想はいいほうがいいな。困ったように笑うのは悪い癖だ」

 指摘されて、それでも困ったようにしか笑えないのがアリス・エステルの癖であった。この稼業を始めてからも、旅人に対して困ったような笑い方をするのを指摘された事がある。

 もっと明るく振る舞え、と何度も学生時代から言われてきた。

 その明るく、が分からないまま、今年で二十四歳になろうとしていた。

 アリスには模範、というものが分からないのだ。

 誰もが見本にする笑い方も分からず、かといって悲しみ方も分からないまま、二十四年。

 流されるままにブリーダー業を親から引き継ぎ、二年前から簡易医療施設の資格を取ってようやく、食っていくのに困らないようになった。それまでは慈善事業の育て屋のような真似事もしていたのだが、あまりに採算が取れないため、両親は何度も喧嘩を繰り返していたのを思い出す。

「あの若造、人生を悔いている様子だったな。あの歳で、まだ若いのに、何もかもが終わってしまったかのような、そんな諦めを持っていた」

 その言葉はそのまま自分へと突き刺さる。何もかもを諦めているのは、自分も同じだ。

「その、治るんですかね……」

「精一杯尽くしたが、傷跡は残るだろうな。まぁ、男だし、何よりも服で隠れる部位だ。さほど、気にはならんだろうが……」

 濁したカヤノの言い草にそれだけではないのが窺えた。アリスは顔を窺う。

「その、何かあるんですか……」

 カヤノは額に手をやって嘆息をつく。

「……ストレス性のものなのか、それとも急性のものなのかは知れんが、髪の毛が、な」

「どうなったんですか……」

「灰色に。ちょうど、この曇り空みたいになっちまった」

 そうこぼすカヤノの視線の先には、垂れ込めた曇天があった。アリスは残念そうに顔を伏せる。

「そう、ですか……。綺麗な新緑の髪だったのに」

「人生というものが輝きを帯びるとするのならば、きっとあのような色だったんだろうな。今はもう、くすんでしまった」

 それはそのまま自分の人生観のようで、アリスは他人事とは思えなかった。

「その、彼の名前は……?」

「まだ聞いておらんかったな。だが、まぁ、一晩くらいは寝かしてやってくれ。随分と疲れていた様子だ」

 カヤノが医療鞄を手に取り、一度ライモンシティのホテルへと戻るという。送ろうか、と思ったが、カヤノは必要ないと跳ね除けた。

「ワシより、あの坊主の面倒を見てくれ。ありゃ、随分と修羅場を渡って来たに違いない。ワシにはそういうのが分かっちまうからな」

 カヤノが去った後、アリスは寝室で寝息を立てる少年の世話をする事になった。

 カヤノの言った通り、この世の美しいものだけを見てきたような新緑の髪は、何もかもを失ったかのように灰色にくすんでいる。

 彼は、きっと太陽だったのだろう、とアリスは推測した。

 そうでなければ、神様があのような美しいかんばせと、精緻な芸術のような髪の色を与えるはずがないのだ。

 アリスは一つ結びにした赤毛をさする。

 このイッシュでは珍しくもなんともない、貧乏臭い赤毛の自分。そばかすの浮かんだ顔が、女としては少し小憎たらしいほど。

 それに比して、彼は何者であったのだろう。

 世界から祝福を受けたかのような彼の美しさは、今は苦悶に歪んでいる。

 自分に出来る事は、彼の介抱のみであった。

 額のタオルを一時間おきに変えてやり、少しでも彼の悪夢をマシにしてあげたかった。

 彼はうなされているのか、何度も同じ言葉を繰り返した。

「……頼む。ボクにもう……サヨナラを言わせないでくれ」

 彼はきっと、大切なものを切り売りして生きて来たに違いない。

 自分とは違う、対照的な存在であった。

「あたしは今まで、大切なものなんて、何も、切り売りした事なんてないのに……」

 どうしてだろうか。

 彼は自らの宿命の中にある幸福さえも、全て、切り離してしまったかのようであった。



オンドゥル大使 ( 2017/06/07(水) 20:23 )