第1楽章「コッペリアの柩」
目についた悪を葬る。
それが、何もかもから見捨てられ、この世に存続する価値さえも失われたNの、最後の抵抗でもあった。
悪は栄えない、と彼は思っていたが、この世は思うよりもずっと、悪の棲み付きやすい場所であり、なおかつ、悪は至るところで栄えていた。
人心を掌握し、かつての己のように他人のカリスマになろうとする悪。
あるいはただ破壊行為だけを満足に行おうとする悪。
究極の善性がこの世に存在しないように、悪は観測する視点で容易に立ち位置を変える。だからこそ、彼は干渉には慎重であった。
人々が本心から苦しんでいるのを目にしない限りは、歴史から消えた身であるところの自分は、決して正体を明かさず、闇から闇へと悪を倒すだけだと。
ポケモンもその場限りのポケモンを多く使った。
かつての力の象徴、レシラム、ゼクロムは既に逃がしており、時にムクバードのような初心者向けのポケモンも使い、現地で基本的に戦力は稼ぐ。
難しい話ではない。
自分にはポケモンの心が分かる。
助けを求めているポケモンの下に訪れるのはさほど苦難ではなかった。
シンオウはカンナギタウン。すぐ傍に巨大山脈、テンガン山を抱く標高の高い街で一つの原始宗教が流行っていた。
神の叡智を謳い文句にしたそれは、時を操る術を持ち、不老不死を約束するという。
何ら珍しい存在でもない。
この世で人間がかねてより渇望するのはいつだって永遠だ。
Nは現地で調達したモンスターボールに「トモダチ」を連れ、カンナギタウンの司祭の間で引き起こされる儀式に足を運ぼうとしていた。
まずは己の目で確かめなければならない。
戦いが必要ならば、その後である。
遠くシンオウまでプラズマ団の頭目であった自分の経歴は流れていないらしい。好都合であったが、どこか人々を騙しているような気がして、Nは目立たない格好を選んだ。
いかにも旅人の着込みそうなボロを身に纏い、帽子を取って儀式の間に訪れた。
「これより! 時を司るハワード元帥のお言葉を賜る! 全員、拝礼!」
おお、と人のうねりがハワードと呼ばれた男の召喚に波打つ。
仮面の男であった。
時計を模した図柄の仮面を被っており、濃紺の衣に身を纏っている。
「今宵、時を越えたいのは誰ぞ?」
信者達がこぞって寄り集まった。その動きを二人の憲兵が制する。
「鎮まれ! 貴様ら、ハワード様に触れる事など叶わぬ!」
張り上げられた声にハワードはすっと手を掲げた。
「よい。一人だけ通せ」
一人の男が前に引き出された。カンナギタウンでも職に困ったポケモントレーナーは存在する。
その典型のような中年男性であった。
「お願いします……。やり直したいんです。十歳のあの日から。二十年前に飛びたいんです……」
悲痛な心の叫びにハワードは片手を掲げてその手に懐中時計を掴む。
懐中時計の秒針を戻すと、奇妙な現象が発生した。
空間がねじれ、何かが時空の歪みを引き起こしているのである。
桃色の何かがハワードの周囲を飛び回り、鱗粉を撒き散らした。
見間違えようのなく、それはポケモンによる時間遡行であった。
傅いていた男の姿が消え行く。次の瞬間には、男は影も形もなかった。
「ハワード様の霊験により、あの男は二十年前に旅立った!」
憲兵の声に信者達が頭を垂れる。
何とぞ、何とぞとやり直しを求める声が相乗した。
「今日はここまでとする」
ハワードの一声で儀式は取り止めとなった。奥へと取って返すハワードを追おうとする信者を憲兵が打ちのめす。
「愚か者共が! ハワード様がここまで、と仰られたらここまでなのだ!」
Nはハワードとやらの動きを凝視していた。
ポケモンによる時間遡行。難しい話ではないが、それなりの伝説を持つポケモンでなければ無理であろう。
あるいは、時間遡行をした、と錯覚させているか。
これならば簡単である。
幻影を操り、人の認識を阻害するポケモンは数多い。
Nは大方後者であろうと算段をつけた。
カンナギタウンを回っていくうち、中央の社に足を運ぶ。
一人の老婆がそこで祈りを捧げていた。
壁画が描かれており、四足を持つ巨大な霊獣の姿があった。
「これが、この地の神ですか」
Nの振り向けた声に老婆は応じる。
「時を操る神、ディアルガ。もう一つ、空間を司る神、パルキアの壁画です。後年の人々の信心によって生じた、一種の神格化されたポケモンと言えるでしょうね」
ディアルガとパルキア。Nは知識を総動員するが、そのようなポケモンとは会った事がなかった。
「今、この街で流行っている宗教も、それに根ざしたものだと?」
老婆はしかし頭を振った。
「いいえ、あれは紛い物でしょう。もし本当にディアルガとパルキアを従えたのならば、それは神を従えた事になる。記録上、ディアルガとパルキアが召喚されたのは一度きり。たった一度のはず。ディアルガは遠く、カントーの王が捕まえたと聞きますが、パルキアについてはとんと。ですが、あの仮面の男の使っているポケモンがこの二柱でないのは確実でしょう」
「意外ですね。この街でも妄信的に、あの男を信じている人間ばかりじゃないのは」
「人は信じる対象を選べます。今のカンナギタウンは、信仰が失われて久しい。私は古き神を信じるだけです」
という事はあの男の操るポケモンは少なくともディアルガなどの神話級ではない。Nは少しだけ安堵する。
神話級のポケモンは相手にするだけでも相当の覚悟が必要になってくるからだ。
「お話が聞けてよかった。あなたは……」
「カンナギタウンの、カラシナです」
「カラシナさん。ボクは奴を止めます。止めなければならない」
その言葉に宿るものを悟ったのか、カラシナは忠告した。
「止めませんが、一つだけ。あれの引き起こす時間を操るとうそぶくもの、それそのものは、真実でしょう」
カラシナの声を受けつつ、Nは踵を返す。
「たとえ真実でも、ボクは目の前の事実を放ってはおけない」
「気品高いのですね。まるで王のようだ」
王のよう、か。今のNからしてみれば皮肉でしかない。
「戦うのならば、覚悟は決めておくしかない」
Nがまず集めたのは情報であった。
仮面の男、ハワードに関しての情報は断片的ではあったが、突如としてこの街に訪れた事。それと前後して、数人の失踪事件があった事である。
「町の有力者を最初からなくして、発言力を強めた……。ハワードという男、最初からこの町を狙っていたのか」
Nは次に戦力を整えた。
テンガン山に根城を張るポケモンを説得し、仲間にしたのだ。その中でも馬力に自信があるのは一体のゴローニャであった。
ゴローンの集団を束ねるゴローニャには傷痕と亀裂があり、歴戦のつわものであるのが窺えた。
「ゴローニャ、もしかするとこの町を毒しようとしている存在かもしれない。ボクに力を貸してくれ。キミも、このカンナギタウンの人々を愛しているのだろう?」
ゴローニャは頭を垂れる。
その頭にモンスターボールを突き出した。赤い粒子となってゴローニャはボールに収まる。
戦力としては事足りるであろう。問題なのは、いつ仕掛けるのか。
ハワードは一日に数時間だけ、自分一人の時間を作る。
その時を狙うしかないが、憲兵が根城を囲っており、容易く攻め込める感じはしない。
「もしもの時は強行突破だが、出来るだけ穏便に行きたいところだ。彼女を使うとしよう。イルミーゼ」
繰り出したのは蛍火を明滅させる虫ポケモンである。
イルミーゼは憲兵二人の視線を集め、その感覚を眩惑させた。
一時的な「フラッシュ」による強烈な光。
その隙をついて、Nはハワードの寝所へと潜り込んだ。
ハワードは眠りについているはず。
その期を逃さず、ここで仕留める。
ゴローニャのボールを強く掴んだその時であった。
「私を探しているのでしょう?」
いつの間にか、相手は背後に佇んでいた。
Nは仕掛けられた迂闊さよりも、いつ、どうやって後ろに立たれたのかが分からなかった。
だが、そんな事の追及はどうでもいい。
今は対峙した相手を倒す事だ。
「キミのやっているあの儀式、ボクは好きになれない」
「何を言うかと思えば、あなたはつくづく愚かと見える。それは、イッシュで組織を束ねていた人間の言葉ですか? 国際指名手配犯、プラズマ団の王、N」
向こうが自分の経歴を知っていたのは想定外であったが、Nのやる事は変わらない。
「ボクは悪を摘むために、こうして戦っている。それだけだ。ゴローニャ!」
繰り出したゴローニャがハワードを見据える。その敵意に、ハワードは手を薙ぎ払う。
「噂通りのようですね。ポケモンを自由自在に従え、一説によれば、ポケモンの言葉が分かるというのは」
「彼らが語りかけてくる。キミを倒せと」
「さて、それはエゴとは呼ばないのでしょうか」
エゴかもしれない。だが、今の自分にはこうして贖罪を続けるしかないのだ。
「ゴローニャ、ロックブラスト!」
ゴローニャの射出した岩の散弾を、ハワードは繰り出した一匹のポケモンで防御した。
「セレビィ、防御皮膜」
桃色の妖精のようなポケモンであった。小型で、頭に触覚を有している。自然界のエネルギーが寄り集まり、ゴローニャの「ロックブラスト」を跳ね返した。
「エスパーか……!」
だが何よりも驚いたのはそのポケモンの見た目の非力さである。小さな躯体に大きめの眼。どう考えても戦闘向きではない。
「その通り。だがただのエスパーと思うなかれ。プラズマ団のNよ」
Nは最初の可能性を棄却した。このような小型のポケモンに時間遡行のようなエネルギーを膨大に使う能力などあるはずがない。
「やはり、信者を騙して金を巻き上げる悪徳集団か」
「部下は、そうかもしれませんね。ですが、セレビィは特別ですよ」
「ゴローニャ! 転がる!」
腕と足を収納したゴローニャが相手へと突進攻撃を仕掛ける。セレビィは踊るように舞い上がり、その小さな手でゴローニャの体躯を受け止めた。
腐ってもエスパーであるのは、その小ささに見合わぬ能力だ。
ゴローニャが完全に動きを制限される。
だが射程内に入ったのはお互い様であった。
「ゴローニャ、砂嵐!」
発生した砂の皮膜の中にセレビィを閉じ込める。これで、相手からポケモンを奪い取る事が出来た。
「さすがは、プラズマ団の王。腐っても戦闘経験者ですね。イッシュのチャンピオン、アデクを下した、という話も誇張ではなさそうだ」
「ボクは、キミを倒す。行くよ、ムクバード!」
繰り出したもう一体の手持ちが一気にハワードへと肉迫する。その風を纏い付かせた翼が切りつけたかに思われた。
だが、その瞬間、奇妙な既視感に囚われる。
何か、それを行ってはならないのだと、本能が告げていた。
「駄目だ! ムクバード!」
主の制する声にムクバードが風の刃を押し止める。その矛先にはハワードではなく、攻撃を継続しているはずのゴローニャがいた。
何故、と問い返す前に、ハワードが背後の空間から立ち現れる。
「厄介ですね。やはり、あなたは強い」
振り返った途端、その視界に大写しになったのは大気を寄せ集めるセレビィの姿であった。
鱗粉を振り撒き、その矮躯が浮かび上がる。
何かをしようとしている。だが、自分にはそれがまるで分からない。
「……どうやって、ゴローニャとムクバードを相殺させた?」
「説いたところで、分からぬのは同じ」
「ムクバード! ゴローニャ! 全力攻撃だ! トレーナーを狙って――」
「既に遅い。セレビィ、時渡り」
途端、Nの意識は闇に放り込まれた。無辺の闇の中を落ちていく感覚だけが支配する。
時計を模した円環の中を、ただただひたすら落下していく。ムクバードに命令して飛行しようとしたが、これは実体空間ではない。ゆえに、ムクバードは干渉出来ない。
「何を、どうなっているんだ……」
「N、面白い趣向を考えつきました。あなたはあなたと出会い、そして絶望して死んでいく。後悔よりもなお濃い、対消滅と言う名の死を迎える」
「ガバイト! 相手へと逆鱗で攻撃!」
繰り出した濃紺のドラゴンがハワードへと食いかかろうとする。しかし、それはセレビィの作り出したフィールドに阻まれる。
何人たりとも、この時空の闇の中を抜ける事は不可能に思われた。
「これは、牢獄か……」
「当たらずとも遠からず。時の牢獄の中に囚われ、あなたは死ぬ。戻してあげましょう」
懐中時計を取り出したハワードがその秒針を巻き戻す。
「――あなたがまだ、理想を追い求めていた時代へ」
無辺の闇に叫びが木霊する。
それが自分の、最後の記憶であった。