第0楽章「禁じられた遊び」
ゴゥン、ゴゥンと長く、低く時計塔の鐘が鳴り響いた。
この世界は美しき数式などでは決してない。
数字ではかれないからこそ価値がある。人間は時に合理的に動くとも限らず、なおかつ計算や打算だけで動く存在でもない。
そう、彼は感じていたし、何よりも実感していた。
張りぼての王を演じ、なおかつその座を永遠に奪われたとなれば、道化を演じるのさえも疲れ果てた。
サヨナラの言葉の向かう先は一つでしかなく、この世界にもう自分の居場所はない、それだけであった。
それだけで、あったのに――。
彼は目にしている。
懐かしい時計塔の音。鐘の音が響き渡り、彼は面を上げた。
時が刻むのは、彼の記憶の中にある最も忌まわしい刻限であった。
「どうして……ボクは、ここにいるはずがないのに……」
困惑する彼はその場を逃げ出すしかなかった。
地を掻き分け、人並みを分けて、逃れ逃れたのは一つの場所。自然と足が赴いていたのか、あるいはそれ以外に知らなかったのか、そこまでは判然としない。
だが、彼はそこに向かっていた。
鐘の音が正午を示す。
イッシュの栄える街、ライモンシティ。その東方にある観覧車の前で待ち構えていたのは……。
「……誰だ、キミは?」
「ボクこそ問いたい。どうして、ボクと同じ容姿をしている?」
胡乱そうに問い返した相手は自分と全く同じであった。
黒い帽子に、新緑の髪。首から下げた幾何学のアクセサリーに至るまで、全てが同じ。
鏡像と呼んでも差し支えない。
ここに、いるはずのない二人の存在があった。
決して合間見えるはずのない、王と王。
一方は、何も知らず、これから先の運命さえもその眼には捉えていない愚鈍なる王。もう一方は、全ての運命を瞳に宿し、その果てに待つ過去な宿命すらも見据えた、王であった事を自ら捨てた存在。
「ボクの名前はN、だ」
「ボクもN、だ」
お互いに名乗ってから、これは間違いなのだと悟る。
大いなる時がもたらした、最悪の汚点。
同じ存在が同じ時間軸に二人存在する。
瞬間、Nは指先から棚引く黒い靄を感じ取った。
靄が少しずつであるが自分をそぎ落とそうとする。
その恐怖に目を見開いた途端、相手もうろたえた。
「何だ? ボクの身体に、何が……」
何と相手も同じ現象が巻き起こっているのである。困惑を浮かべる写し身の自分に、Nは何も言わずに逃げ出した。
そこにいてはいけない気がしたのだ。
駆け出しながら、存在の消滅という恐怖に怯える。
怯える瞳は、つい先刻巻き起こった現象を思い返していた。
「何だったんだ……、ボクの身に何が起こっている? 今日は何年だ? あの時……プラズマ団蜂起から、何年経った?」
手近な一般人の腕を引いて、Nは詰問する。
「今は何年だ? ボクがあの日、イッシュ政府を掌握してから、何年経った?」
その問いかけに市民は胡乱そうにNを見やる。
「あんた、何言ってるんだ? あんたみたいなか弱い男が政府を掌握? そんな事、出来るわけないだろう」
「プラズマ団は? 解散したはずだ」
市民は頬を掻いてその質問に応じる。
「プラズマ団? ああ、ポケモンを解放せよ、って言っている団体か。今、ちょうど、そこの広場で講演していたところみたいだ。……解散なんてしている風じゃなかったけれど」
やはり、とNは確信する。
この時間軸はおかしい。
「ボクは、プラズマ団が蜂起する以前の時間軸に、舞い戻ってきたって言うのか……」
眼を戦慄かせていると、市民がうろたえた。
「あまりドッキリも大概にしてくれよ。そういうの、流行っているのかもしれないけれどさ」
笑いながら去っていく市民は本当に知らないようであった。
このイッシュがプラズマ団に蹂躙される事。
そして何よりも、プラズマ団の危険な思想を。
「何が、どうなって、ボクの身に降り注いだ?」
ゴゥン、ゴゥンと鐘の音がなる。
この場所に降って湧いたような自分の存在を、掻き消そうとするかのように。
「ボクは確か、シンオウに降り立っていて、それで……」
それで、あの男に出会った。
時を操るとうそぶく、仮面の男に。