♯8 ティアーズ・アー・フォーリン
北区画の廃工場は静寂に沈んでいた。どこに敵が潜んでいてもおかしくはない。
「暗がりから一撃、ってのはこっちとしても面白くないわね」
『キッス、周辺に熱源はなし。今のところ接近してくる敵影もない』
「あたしがここで踏ん張っても仕方ないでしょ。敵がいないのならすぐに引き上げる。そうすれば――」
その言葉尻を裂くように、不意にプレッシャーが肌を粟立てた。キッスが飛び退ったのと、その場に弾痕が穿たれたのは同時。
「……敵影はないんじゃなかったっけ?」
『こちらからモニターしている限りはない。だが、そこに存在しているのか……?』
「あたしの視界の範囲には……一人だけ」
廃工場からこちらを狙い澄ましていたのは巨大な顎を持つポケモンである。反らした尻尾から攻撃を放ったのだ。
長大な翅を振動させ、そのポケモンが飛翔する。
「メガヤンマ……厄介なポケモンね」
しかし、こちらには氷タイプのルージュラが揃っている。ここで対処するだけなら、と判じたキッスの耳朶を震わせたのは、馴染みのある声音であった。
「クチバインダストリアル製の製品が逃げ出した、と聞いていたが、なるほど、貴様か。製品番号五十五番」
歩み出てきたのはメガヤンマのトレーナーであった。片目を覆っているレーザーサイトがキッスを照準する。
その姿を目にした途端、キッスの全身から敵意が凪いでいった。これは強制的なものである。設計された当初から備わっている機能であった。
「上官」には逆らえない、というプログラム。
禿頭の男はその巨躯を揺らして哄笑を上げた。
「まだプログラムが有効だとはな。製品番号五十五。この辺りではキッス、と名乗っているようだが、貴様の因縁だけは解けやしない」
「何で……、ケリィ少尉……」
「元、少尉だ。今は大尉である」
訂正したケリィという男がメガヤンマを使役する。翅を高速振動させ、メガヤンマがこちらに向かって特攻を決めてきた。
キッスは萎えかけた手足に檄を飛ばすべく、ルージュラに命じる。
「ルージュラ! 貴女の氷であたしの手足に!」
ルージュラが即座に氷のつぶてを形成し、主であるキッスの手足に突き刺した。
その痛みでようやく呪縛から解放される。
キッスが軽やかに跳躍し、メガヤンマの重機のような攻撃を眼下に入れていた。
先ほどまでキッスのいた屋根が突き崩されている。メガヤンマの顎は超振動兵器を凌駕する破壊力である。
それ一つで肉体をバラバラにする事など容易い。
「五十五番。残念だよ。あの時、私を殺しかけたあの五十五番がまだ、生き永らえていたとは。クチバインダストリアルの忘れ形見、元上官として私が処分してくれよう」
メガヤンマが高速機動し、キッスの直上を取った。ルージュラとサクラビスへと命令を下す。
「サクラビスはハイドロポンプで補助! ルージュラはその攻撃網を利用して、相手へと肉迫! 冷凍パンチ!」
サクラビスの弾き出した水の砲弾に飛び乗り、ルージュラが一気にメガヤンマを射程に入れる。
その拳が水色に照り輝いた。極低温の一撃をメガヤンマが翅を高速で弾かせて跳ね返す。
「メガヤンマ! 銀色の風!」
メガヤンマの放った風圧にルージュラが煽られた。ルージュラがその身体をきりもみさせて出来るだけ攻撃を無効化しようとするが、その目論みも虚しく、身体へと突き刺さったのは幾重もの光線であった。
銀に染められた旋風がルージュラの身を削いでいく。ルージュラが呻き、メガヤンマが接近する。
「残念だが、ここまでのようだな。私が勝利する!」
空中で寄る辺もないルージュラは格好の的である。
このままでは自分の相棒はやられてしまう。
――させない。
心の奥底のたがを、キッスはその瞬間、外した。
目に見える全てが灰色の世界に没する。
途端、メガヤンマの動きが手に取るように分かった。灰色の世界の中では全ての現象は、自分の半分の速度しか持たない。
キッスは手を払った。
「サクラビス、メガヤンマの直上、十メートル上空に水を展開」
サクラビスの「ハイドロポンプ」がメガヤンマを大きく外し、高空へと放たれる。
「どこを撃っている?」
次いでキッスは命令を続けた。
「ルージュラ、サクラビスの放った水を瞬間的に凍結。千の氷結の刃と化す」
水の砲弾は雨となって降り注ぐ。その雨全てに攻撃性能を持たせた。
ルージュラがあの頃の性能を発揮し、全ての水を氷の刃と化した。
降り注ぐ雹をメガヤンマが一身に受け止める。さらにルージュラが雨を凍らせて足場にした。
一粒一粒が凝固し、ルージュラがそれを足がかりにしてメガヤンマへと接近する。
すぐさま背後を取ったルージュラにメガヤンマとケリィが声を飛ばした。
「させるな! 銀色の風で吹き飛ばして――」
「遅い。ルージュラ、催眠術で相手の飛翔能力を奪い、三秒以内にその凍結範囲を広げ、吹雪の暴風の中へと叩き込む」
ルージュラの放った催眠術がメガヤンマの視界を眩惑し、落ちていくメガヤンマの周囲の風を逆巻かせた。
メガヤンマを包囲するのは氷の千刃である。
全てが凍て付いた空間の中へとメガヤンマが放り込まれた。
まるでミキサーのようにメガヤンマの表皮が削り取られていく。
ケリィが歯噛みして声を弾けさせた。
「遂に本性を現したな! KI五十五!」
「……うるさい。ルージュラ、メガヤンマが離脱する前にその翅を奪う。吹雪の凍結速度を倍増しにさせて、翅に枝をつけておく」
暴風域から離脱しようとするメガヤンマの翅には既に氷の触媒が備わっていた。そこから根が発し、メガヤンマを押し包んでいく。
「メガヤンマを……氷で凍てつかせるつもりか。翅の風圧範囲を上げろ! 吹き飛ばすんだ!」
メガヤンマが翅の振動数を上げた途端、サクラビスがその翅へと照準する。
「振動数が上がったという事は、一時的に付け根の筋肉に付加がかかっているという事。付け根を狙ってハイドロポンプ」
正確無比に狙い澄ましたサクラビスの一射がメガヤンマへと突き刺さる。メガヤンマの翅の付け根の筋肉が過剰熱を発生させ、蒸気を棚引かせた。
その蒸気をルージュラが見逃さない。凍結の手がかりを得たも同然だ。ルージュラの瞬間的な凍結が翅の付け根を固定させる。
途端、メガヤンマから飛翔能力が完全に奪い去られた。
振動数がゼロに達し、その身が急激に落下する。
無論、その隙を逃すわけがない。
サクラビスが口腔部へと、オレンジ色のエネルギーを充填していく。
「まさか! まさか、やられるというのか! KI五十五、貴様、あの頃の戦闘本能が、まだ!」
「破壊光線」
凝縮された破壊光線の一条の光がメガヤンマの片翅をもいだ。中心軸に当たらなかった事に舌打ちする。
「殺すつもりで撃ったのに」
メガヤンマが廃工場に墜落し、灰色の粉塵を巻き起こらせる。
ルージュラが舞い降りて湧き上がる塵芥を凝結させた。
それら全てに攻撃性能を持たせ、ルージュラが手を掲げて使役する。
「たとえ塵でも、物質ならば全て攻撃性能を持たせられる。氷の刃の前に沈め」
ルージュラを中心軸として回転を始めた氷の槍にケリィが目を戦慄かせる。
「……民間軍事会社に身を落とした甲斐があったよ。本気の貴様とやれたのだからな!」
舌打ちし、キッスは指を鳴らす。氷の槍の一つがケリィの肩口へと突き刺さった。
痛みに喚くケリィの背筋へと細かい破片を追いすがらせる。血を撒き散らして蹲るその身体へと、容赦なく氷の槍を放った。
一つが腹部を引き裂き、もう一つが頭部を狙い澄ました。その顔面へと切っ先が迫った瞬間、己の中で声が弾けた。
――殺さないで!
ハッと我に帰った時には、氷の刃がケリィの片耳を落としていた。
ルージュラとサクラビスが平時の自分に戻った事に気づいてか、攻撃網を緩める。
ケリィが呻き声を上げて後ずさり、血まみれの身体を引きずった。
「貴様はやはり、そういう気質だという事だ。クチバインダストリアルの造った製品の性を、捨てられてはいない!」
絶句する。氷の包囲網で相手を屠る事のみを考えていた自分に震え出した。
「あたし、は……」
震える手で顔を覆う。またしても、自分を見失った、というのか。
「怪盗などという、生易しい事をやっているようだが、やはり殺戮兵器として生きるのが性に合っているようだな。私は、貴様のその腹の内を知っている。ジョウトのPMCは今にその生意気な小娘の皮を――」
そこから先の言葉を遮ったのは放たれた銀翼の閃き。
櫛のような武装がケリィの頭蓋に突き刺さる。その一撃だけでケリィが倒れ伏した。
メガヤンマも最早戦闘不能だ。
そんな中で、この場を制圧するように銀翼の来訪者が翼を翻す。
「エアームド……ジョウトPMCって……」
キッスの呟きを他所に、エアームドは離脱機動を取っていった。
ここで勝負するつもりはない、という意思表示のようだ。
改めて周囲を見やる。粉塵が舞い上がり、破壊の爪痕が激しい。
自分が全てやったのだ。その悔恨に胸が締め付けられる。
「あたしが、やった……」
『聞こえているか? キッス。今は得策じゃない。一度帰還するんだ』
マスターの声音に自分がどれほどまでに見失っていたのかを思い知る。恐らく彼が声をかけるのも憚られるほどに、自分は戦闘マシーンと化していたのだろう。
「……了解」
サクラビスで離脱ルートを作り、ルージュラの氷で補填する。
コガネの夜景をキッスは横切っていった。