♯5 ブラック・ダイヤモンド
キッス逃亡の報がすぐさまもたらされ、キザキは二時間もかかって脱出に成功した宝物庫より、遅れて報告を受け取っていた。それと共に、警察上層部の愚痴も、である。
『キザキ警部。君の行動は管轄外だ。あまりに常識外れと言ってもいい。宝物庫にキッスがいなければ、君の行動は空回りしていた』
「しかし、キッスはおったのです」
反論するキザキに警察上層部が睨みを利かせる。
『ミナミ氏と我々は協調関係にあるのだ。それを、一警察官の君程度の行動がご破算にしたのでは目も中てられない』
「わたしの行動が不満ですか」
『まぁまぁ、キザキ君も皆々様も落ち着いて。アメでもどうです?』
捜査本部長が全員にアメを配った事で、一触即発は免れた。だが、キザキは逃した獲物に拳をぎゅっと握り締める。
「キッスはいた。しかしまたしても逃げおおせたか」
『その件だが、キザキ警部。君が出るまでもないよ。新しい部門に既に継続捜査を依頼している』
アメを頬張りつつ、上層部の発した声に、キザキは聞き返していた。
「新しい部門、ですと?」
『何ですかねぇ、えーっと……そうだ。ジョウトPMCトラストですよね。最近、新進気鋭の』
PMC。民間軍事会社。その言葉にキザキはにわかに緊張する。
「軍事会社崩れに任せていい案件ではありません」
『言葉を慎みたまえよ、キザキ警部。今や、カントーの例を見るまでもない。PMCはかつてのような汚れ仕事なのではなく、きちんとしたビジネスとして』
「色眼鏡なんて持っちゃいません。知った上で、わたしはその判断は間違っている。と言っておるのです」
民間軍事会社に任せたのでは、キッスの生存も不明のまま葬り去られるかもしれないのだ。それだけは我慢ならなかった。
『因縁は理解出来る。八年も追っているのだからな。しかし、八年も追っているのだ。その間、何の進展もなかった事、こちらを恥じるべきなのでは?』
言われてしまえばぐうの音も出ない。言葉を呑み込むキザキに捜査本部長が言いやった。
『……しかし、ここで逃がしたのでは、キザキ君も本望ではないでしょう。どうですかね、皆さま。キザキ君には継続捜査権を委譲する、という事で』
捜査本部長の言葉に耳を疑ったのはキザキも同じである。全員がその発言に問い返していた。
『正気かね。彼は公私混同している』
『しかし、その執念が追いすがるものもあるでしょう? キザキ君、わたしが許す。大いにやりたまえ』
アメを配る事しか能のない捜査本部長だとばかり侮っていたが、どうやら慧眼の持ち主らしい。キザキは敬礼して声を張り上げていた。
「キザキ警部、引き続き、キッス確保の任に当たります。……感謝します」
『いいよ。帰ってきたらアメをあげよう』
その言葉で会議室とこちらを繋いでいた通信が切れた。ホロキャスター越しの会議室とはいえ緊張が滲む。
「……これで上層部とは一度お開きになったわけか」
「キザキ警部、すいません……自分が取り逃がしたばかりに」
ヤマジが殊勝な態度を見せる。キザキは部下の失態だとは思っていない。
何よりも自分の責任だ。ミナミをもっと早くに説得出来れば、事はこうもややこしくならなかったはず。
「いんや、お前に責任を問うても仕方あるまい。もう一度だけ話を聞くとしよう」
「どちらに?」
「富豪のところだ。どうにも今回、きな臭いのはあの人物の周辺だからな」
「ミナミ氏なら、今は屋敷に閉じこもっておられますが」
「だったらなおの事、話を聞いておくべきだろう」
ヤマジは後頭部を掻いてこちらに進言した。
「ですが……氏も相当にショックなご様子で。時価総額数億円の霊界の羽衣を奪われたのです。推し量るべきかと」
「お前さん、クルーザーで世界一周でもすれば回収出来ると抜かしておっただろうが」
その言葉にヤマジは困惑の笑みを浮かべる。
「イメージ出来ていなかったんですよ。目の前で怪盗キッスのために警部が身を投げたとなれば、そりゃ必死にもなります」
この部下もようやくキッス逮捕に前向きになった、と見るべきか。キザキは鼻を鳴らし、個人用のポケナビに繋ぐ。
「家にしばらく帰れんと言っておかなくてはな」
「娘さんが一人、でしたっけ? 心配しておられるのでは?」
「だろうな。かわいい一人娘だ。声をかけておくのに越した事はないだろう」
コールするとすぐに通話先がキャッチする。キザキは咳払いした。
「あーうん、ミサか。すまんが、しばらくは……」
『帰れない、でしょ。もういい。あたしにいちいち帰れない報告したって、意味ないから。じゃあね』
「ちょ、ちょっと待ってくれよ! ミサ。ワシだって帰りたくないからこんな事を言っておるわけでは」
『知らないわよ。せいぜいご立派なんでしょうね、警察のお仕事っていうのは。怪盗キッスを追うのにかまけていれば? お母さんもそんなのが嫌だから別れたんだろうし』
「み、ミサぁ……」
たじたじになってしまうキザキを他所に、通話先の娘は冷淡であった。
『お金さえ入れてくれれば、他は何しようと勝手だけれど、お母さんとあたしを裏切る真似だけは、もうやめてよね。……まぁ、とっくに裏切られている身だけれど』
「そ、そんな事はないぞ。ワシは警察の仕事を」
『はいはい。仕事ね、仕事。じゃ、せいぜいお金だけは入れてよね』
その言葉を潮にして通話は切られた。しょぼくれるキザキの肩にヤマジが手を置く。
「娘さん……手厳しいですね」
「年頃だからなぁ。仕方ないのは分かっておるんだが、ワシも何も言えん。小さい頃に寂しい思いをさせたから、余計にかもしれんが」
それにしたところで、ミサの言い分はお金さえ入れてくれるATMとしか考えていないようで、キザキはやる気を失いそうになってしまう。
怪盗キッスを追いかける自分に追いつけないから、という理由で別れた妻。未だに復縁を切り出せないのは、キッスとの決着がついていないからでもある。
娘も同じだ。自分はろくな事も出来ないまま離れたせいで、何一つ父親らしい側面を見せられていない。
仕事人間だと揶揄されても仕方ないのだ。
「キッスを捕まえましょう。そうすれば娘さんも」
「そうだろうかなぁ……ワシも自信がなくなってくる。本当にキッスを捕まえれば、ミサは振り向いてくれるのだろうか」
ヤマジは人のいい笑みを浮かべてキザキの肩を叩いた。
「きっと大丈夫ですよ」
「そうかなぁ……」
「警部らしくありませんね。もっと毅然としているもんでしょう」
それはキッスの前だけだ。ミサとの会話の後ではいつも沈んでしまう。
「切り替えて仕事、といくべきか」
もっとも、その仕事こそが自分と家族を遠ざけているのだが。部下はこちらの思案を他所にお気楽な笑みを浮かべる。
「何とかなりますよ」
「そういうもんか? まぁ、何とかせにゃならんのは同じだが」
「ミナミ氏に話を伺いましょう。事はそれからです」
今は、一つでもキッスを追い詰める材料を作るべきだろう。
キザキは一旦家族の事を置いておいて、刑事の職務を全うする事に決めた。頬を張り、気合を入れ直す。
「……うむ。そうだな。今は一つでも、キッス逮捕に向かうべき材料が欲しい」
「そう来なくては」
まさかこの能天気な部下に諭されるとは。分からないものだ、とキザキは改めて、屋敷へと向かっていった。
「あれは、どういう意味があったのだね、捜査本部長」
問い詰められて、好々爺のように笑みを浮かべる捜査本部長は肩をすくめた。
「あそこで彼を責め立てても、何も出ませんよ」
「しかし、責任の所在、というものがある。部下に責任を取らせるのもまた、上司の役目ではないのか」
捜査本部長は飴玉を手に、その艶めきを反射させていた。
「アメとムチです。結局は、それに集約される。わたしがアメを与えなければ、彼は際限なくどつぼにはまるでしょう。それに使える部下には動いてもらわなければ。この程度でしょげてもらうのでは困るのです」
その言葉に上層部の一人が腕を組んで渋い顔を作る。
「だが……、キザキ警部の動きは厄介だ。勘繰られやしないか? 我々がミナミ氏と極秘裏にコネクション……繋がりのある事を」
「軽率な発言は控えるべきでしょうな。警視総監」
その役職を口にした事で、相手は萎縮する。捜査本部長という役柄でありながら、男はこの場を掌握していた。
「キザキ警部は優秀だ。それは認めよう。しかし、優秀さと危うさは紙一重。ミナミ氏が口を滑らさないとも限らない。……始末は早々につけるべきだったのでは?」
「まだジョウトPMCトラストに依頼したばかり、という体裁を作らなくては。そうでなければキザキ警部は敵となる」
「左様、怪盗キッスについても、我々は知らぬ存ぜぬのスタンスを貫かなくっては、な。現在の怪盗キッスの所在について、報告は?」
秘書官が携行端末を手に与えられた情報を口にする。
「エアームドによる追撃は失敗。目標をロストしたため一度帰還しました。元々、エアームドによる追撃任務だけで制する事の出来るほど甘い相手ではなかった、と見るべきです」
「だが、今回のキッスは違うのだろう? 以前までとは」
その言葉に会議室がにわかに緊張する。
「事件番号1455号」についての報告書、と纏められた電子書類を捜査本部長は机に置いた。
「1455号は二代目に渡った、と見るのが筋でしょう。ですが、それだけでは話にならない事もある」
「その二代目の報告書がこれか。クチバインダストリアル製の……」
濁した高官の声音にはおぞましさが宿っていた。怪盗キッスの情報を警察上層部はキザキ警部よりも多く得ている。
それをわざと下に開示しないのは、怪盗キッスの盗みを逆利用する動きもあるからだ。
今回の場合、ミナミ氏との繋がりによって怪盗キッスをある程度追い詰める作戦が練られている。
「既に草は放ったのか?」
「キッスに縁のある人物を。ただ……怪盗キッスがその本性を現すかどうかは賭けですがね」
「賭けでも、やらなければならないのだ。キッスの正体を知っている者は少ないほうがいい」
異論はないようだった。全員が重く沈殿したような空気を飲み、その事実を受け止めている。
「キッスの正体を知った時、キザキ警部はどう動くだろうか」
その懸念がついて回ったが、捜査本部長はそれこそ取り越し苦労だ、と告げる。
「心配要らないでしょう。ジョウトPMCは優秀ですよ。それこそ、我々が思っている以上に、ね」
アメを袋から取り出した捜査本部長が口に放る。
全員の席にアメが配られていた。
「皆さんもどうぞ。わたしの自慢のアメです」
それが全員の罪のように、上層部の高官達は瞑目してアメを口に投げた。