♯4 シャウト・イット・アウト・ラウド
富豪はここジョウトではぬるいほどのセキュリティレベルである。
殊に大都会コガネシティでは地下区画に幾つもの抜け穴が存在する。それを知っているのと知らないのとでは大違いだ。
黒い仮面を目深に被り、キッスは霊界の羽衣を前にしていた。
庭園の掃除ロボットの隙から潜入し、音もなくこの宝物庫へと潜入を果たしていた。警察が現状、気づいた素振りもない。
「相も変わらず、あたしを止めるには至らないみたいね」
結い上げたポニーテールを揺らし、キッスは仮面に仕込まれている赤外線サーチを起動させる。
霊界の羽衣に至るまでには当然の如くセキュリティがあった。しかしこの程度、児戯にも等しい。
赤外線の網はこちらを嘗めてかかったかのように容易に潜り抜けられた。
霊界の羽衣を収納用のボールに仕舞い、キッスが脱出しようとした、その時である。
ダストシュートから何者かがこの空間に割って入った。
ハッと気づいたその刹那、視線が交錯する。
「キザキの叔父様。どこまでも追ってくるとしたら貴方くらいね」
執念の炎を燃やすキザキが何も考えずにこちらへと駆け込んでくる。
その身体が赤外線の網に触れた。
途端、けたたましい警報が鳴り響く。シャッターが何重にも閉まろうとするのをキッスはそのポケモンで制していた。
「ルージュラ! 悪魔のキッス!」
出現したのは金髪に赤い派手な井出達をしたポケモンであった。人型ポケモンの異名を取る相棒、ルージュラはセキュリティシステムに紫色の口づけを果たした。
途端、全てのセキュリティが昏倒する。
閉まりかけていたシャッターが途中で止まった。
「サクラビス、水の砲門で一気にシャッターの向こう側まで行く」
もう一体のポケモンを呼び出す。桜色の身体を持つ細長いポケモンであった。水の属性を誇るサクラビスが細い口腔から水の砲門を弾き出す。
その砲弾と共にキッスは逃げおおせていた。
既にシャッターの向こうに離脱したキッスを、キザキが忌々しげに目にする。
「キッス! 貴様、逃げ切るつもりか!」
「お生憎様、警部。あたし、まだ捕まる気はないの。じゃあね」
投げキッスを見舞い、キッスが静脈認証セキュリティに触れた。エラーを引き起こしたシステムがシャッターを閉める。
キザキは完全に閉じ込められた形となった。セキュリティの壁の向こうからキザキの叫びが聞こえてくる。
「キッス、貴様ぁ!」
「バイバイ、キザキの叔父様。ちょっとだけ狭い密室でガマンしてね」
ここから逃げるのにキッスは小賢しい手を使うつもりはなかった。エレベーターから堂々と逃げおおせる。
地上区画に出たキッスへと包囲陣が敷かれていた。
キザキが地下潜入前に呼びかけたのだろう。
富豪のSPだけではなく、警察も張り込んでいたのだ。
「やるぅ、キザキの叔父様。五里霧中の中でもあたしを追い込もうってワケ」
「そこまでだ。お縄につけ、キッス」
現れたのは白いタキシードに身を包んだ青年であった。精悍な顔つきをした青年とキッスは視線を交わし合う。
彼が懐からそっと取り出したのはルージュの引かれた黒い便箋である。
ルージュの赤に映えるように醸し出された高級感の漂う黒は「同業者」の証であった。
即ち、この窃盗における仲間である。
青年――ヤマジは張りぼての台詞を吐いた。
「動くなよ……警部はどうした?」
その胸中ではこの場を何とか改善せんと策を巡らせているに違いない。キッスはお手上げのポーズをしつつ視線を巡らせた。
SP達を無効化するくらいはわけないが、如何にして自然さを装い、この場を去るか。
それにかかっている。
自分の動き次第ではヤマジも追い込まれかねないからだ。
探り探りの視線を交わし合う中、唐突に怒声が劈いた。
「コソ泥が……! わたしの霊界の羽衣を、返せっ!」
富豪が出てきた途端、ヤマジがウインクする。その袖先から小さなボールが投げ込まれた。
キッスだけはそれを予感していたため、ガスマスクを着用出来たが、他の者達はそうではない。
ピンク色の催涙ガスが舞う中、ヤマジが大げさな声を振り絞る。
「キッスが逃げたぞ! 表へ追え!」
警官隊が一気に表へと雪崩れ込む。その最中、キッスへと最も接近したのはヤマジであった。
「……あまり軽率な盗みはしないよう。警察とて馬鹿ではない。キザキ警部は気づいておられた」
「分かっているわよ。あんただって勘繰られれば面白くない腹の持ち主でしょ」
ヤマジはフッと微笑み、警官隊へと連絡する。
「キッスは表参道を抜けて逃走中! 至急応援を頼む」
目配せの意味は無論、逆方向を行け、の意味だろう。汲み取ったキッスはサクラビスに命じていた。
「屋敷を抜けて一気に逃げ切るわよ。ルージュラ、貴女の氷が役立つわ」
ルージュラが空間を凍て付かせ、催涙ガスに氷結の魔術を混ぜてから、キッスは屋敷の屋根へと舞い上がった。
警官隊が明後日の方向に突撃するのが目に入る中、キッスは逆方向へと駆け出す。
「バイバイ、警察さん。さて、逃げ切るわよ、サクラビス! 波乗りを発生させてルージュラの氷で道を作る!」
サクラビスの発生させた「なみのり」による波状の水攻撃が通路を空中に作り出す。
まるで空中庭園を行く天使のように、キッスはジョウトの街並みを駆け抜けて行った。
氷の華が咲き、その道のりを彩る。
霊界の羽衣はその手中にある。今回も盗みを成功させた。盗みの達成は同業者の手によって警察にもたらされるであろう。
子供が空中のキッスを見つけて手を振る。この季節だ。聖夜を彩る天の使いにでも映ったのだろう。
投げキッスを返して、子供達の目線を抜けつつ、キッスは一つの高層ビルに降り立った。
既に富豪の家から随分と離れている。
足取りを掴まれる事はあるまい、とキッスが今回の獲物を取り出そうとした、その時である。
「だれ……」
自分以外の声が弾けた。キッスは硬直しつつ、次の手を講じる。
――見られたか。
全身の感覚を研ぎ澄まし、キッスは打てる手を編み出す。
声はどこから聞こえたのか、と視線を巡らせようとすると、またしても声が途切れ途切れに漏れ聞こえた。
「だれ、なの……。私をここからだして」
声の主をキッスは見つけ、震撼する。
霊界の羽衣から、声が発せられているのだ。
「何……これ」
霊界の羽衣だけを奪ったはずだ。他の財宝には手も触れていない。だというのに、霊界の羽衣には小人としか言いようのない存在が纏い付いていた。
紫色の髪を流した少女である。
その存在がモンスターボールの縮小技術を利用した中に収まっているのだから、キッスの鼓動は爆発しかけた。
「まさか、亡霊?」
「だれ、なの……。ここからだして。おとうさまの下にかえして」
おとうさま。その言葉にキッスはボールの射出ボタンを押し込む。紫の髪色をした少女は射出時に出る蒸気でむせていた。
「貴女、何者? 霊界の羽衣に、いつからついてきていた?」
答えの如何によっては、とキッスが戦闘本能に火をつけようとした矢先、少女がくしゅんと短くくしゃみをする。
「さむい……」
高層ビルの屋上である。この季節だ。宝物庫と寒暖の差は十度以上ある。
キッスはひとまず自分の黒衣のスペアを取り出し、少女に纏わせた。少女はモンスターボール大に入っていた時よりかは大きくなったとは言ってもキッスの背丈の半分ほどしかない。
その正体を怪訝そうに見つめるキッスに、少女は小首を傾げた。
「おねえちゃん、だれ?」
「あたしの名前は……怪盗キッス。このジョウトで盗みを働かせてもらっている」
偽っても仕方あるまい。この姿を知っていればすぐさま通報も出来る。
しかし少女は疑問を隠せないまま、キッスを見返した。
「こわいひと?」
「……かもね」
キッスは応じつつ、目の前の少女が霊界の羽衣を凝視しているのに気づいた。
「質問、いくつかいいかしら?」
「しつもん……? むずかしいのはむりだよ」
「歳相応のものを考えるわ。貴女は……人間? それともポケモン?」
最初に思い浮かんだのは、この少女は人間であるのか。それともポケモンの能力が発現した代物なのか。その違いだ。
少女は霊界の羽衣を抱いてこくりと首を横に振る。
「わかんない。ポケモン、なのかな……」
その正体は本人にも不明、か。キッスは頷きつつ、状況を整理しようとした。
「とりあえず、今回の依頼が奪還、である事に起因しているのかもね。貴女、名前は?」
呼び名がなければ不便だろう。見下ろしたキッスへと、少女がこっくりと頷き、その名を紡ぐ。
「アムゥ、っておとうさまは呼んでいたわ。私の事を」
「アムゥ、ね。じゃあ、アムゥちゃん。貴女が何者なのかを、探らなければならなさそうなのだけれど……」
濁した瞬間、肌を刺すプレッシャーがキッスへと襲いかかった。習い性の身体を飛び退らせる。
先ほどまでアムゥがいた空間と自分の頭部へと銀色の櫛のような武装が突き刺さっていた。
振り仰ぐと銀翼のポケモンがキッスを睥睨している。
「エアームド……、追っ手? でもキザキの叔父様はこんな真似はしないはず」
突き詰める前にエアームドがキッスへと急転直下の攻撃を仕掛けてきた。きりもみつつの銀翼の翼が閃く。
アムゥを抱え、キッスは後ずさった。
「ルージュラ! 貴女の氷は相性が悪いわ。とりあえず二十秒稼ぐ! 凍結壁面を伝って、ビルを飛び降りるわ。アムゥちゃん、ちょっとジェットコースターに飛び乗ってもらうわよ」
アムゥが返答する前にルージュラの構築した氷の壁がエアームドの鋼の攻撃に軋む。
サクラビスが波乗りでビルの壁面を濡らした。途端に凍て付いたビルを蹴り、キッスは真っ逆さまに落ちていく。
必死に自我を保っていなければ脳細胞がクラッシュしてしまいそうな落下速度であった。
血液が一気に脳天に集められ、視界が暗転する中、キッスは着地先を探した。
視線の中にあったのはコガネの露天商のテントである。
瞬時に落下速度と制動を脳裏に計算し、キッスはビルの壁面を滑り降りていった。
氷の壁に幾重もの亀裂が走る。エアームドが特攻覚悟の速度でこちらを取りに来ているのだ。
急転直下の中、キッスは振り向き様にルージュラへと命じた。
「ルージュラ、催眠術!」
ルージュラの作り出した催眠の渦がエアームドを一瞬だけ眩惑させる。その隙にキッスは射程外に出ていた。
その身体をテントが押し包む。
落下速度が僅かに計算を勝っていたせいか、肋骨に痺れたような痛みが宿った。
そんな中、胸の上でアムゥが微笑む。
「あむぅ! とってもすごいのね! おねえちゃん!」
その笑みを受けながらキッスは自嘲を返した。
「……二度と御免だけれどね。地上三十二階からのダイブなんて」
エアームドが翼を翻し、キッスを見失ったのかジョウトの空を旋回していく。
とりあえずキッスは離脱した戦況を頭の中で整理した。
戦局は依然としてよくはない。
不安材料のアムゥという少女に、霊界の羽衣の価値。それを問い質さなければこの依頼で呑まれるのは自分の側だろう。
「痛み分け、で済むかどうかも分からないわね。これじゃ、下手な依頼を受けちゃったかも」
後悔で占められそうになった胸中に、キッスは冷笑を浴びせた。