♯2 ハードラック・ウーマン
「えーっ、これより、事件番号1455号の捜査会議を始めます」
やる気の感じられない中間管理職の一声で始められた会議にキザキはため息も出なかった。
連日のように報道される怪盗キッス――事件番号1455号の巻き起こす盗難事件。
やるせなさよりも、警察への不信感が漂うこのコガネシティでは怪盗キッスの応援団体さえもあるくらいだ。むしろ動き過ぎればバッシングを受けるのがこちらだというのが納得いかない。
「先輩、疲れてるんですか? アメ、どうです?」
白いタキシードを着込んだ部下の声にキザキは机を強く叩きつけた。
「要るか、んなもん!」
張り上げた声に中間管理職が咳払いする。
「キザキ君。発言は挙手してからにしてくれたまえ」
上がった笑い声にキザキは羞恥の念よりも責め立てる声音を響かせていた。
「悔しくないのでありますか! 我がジョウト警察がまるで歯が立たないと言われているのですよ! たった一人の小娘に!」
「まぁまぁ、落ち着きたまえよ。そうだ、糖分が足りていないのだろう? アメでもどうだね?」
「アメ渡しゃどうにかなると思われているのが納得いかんのです!」
どうにもジョウト、殊にコガネの人々は苦手であった。誰も彼も人が良過ぎる。だからキッスがこの街を根城にしているのだ。
盗っ人一人捕まえられないとなれば、そのうち他地方からも笑いものにされる事だろう。そのような懸念など何のその。中間管理職は報告を求めた。
「まぁ、キザキ君は落ち着いて。で、今回の盗品は?」
「今回盗まれたのは黄金のコイキングの彫像です。現金に換算すると一億円相当」
淡々と報告するコガネ警察の刑事達に、キザキは不満げであった。どうして彼らはこうも落ち着き払っていられるのだろう。
「一億円かぁ……。僕もクルーザーでそれくらい使った事ありますよ」
にやにやと締まりのない笑みを浮かべる隣の部下にキザキは叱責の声を浴びせた。
「金持ちの道楽にゃ、ワシはついていけん」
「駄目ですよ、先輩。家族には恩返ししないと。クルーザーで世界一周すれば、それくらいするかなぁ」
「ヤマジ。お前さんにはプライドはないのか」
呆けたように口にする部下の名前をキザキは口にする。ヤマジは腕を組んでうぅんと呻った。
「プライドですか。難しいですねぇ」
「何が難しいものか。警察としての面子だ、面子。怪盗キッスに毎回してやられて、今回なんぞ警官隊を並べ立てて発砲許可まで取り付けた。だというのに、捕まらんのだぞ」
キザキは発砲には反対であった。しかし、コガネ警察としての面子を取り戻すために強行採決されたのである。
だが、当のコガネ警察の人々は全員がどこか気だるげに報告するばかりであった。
キザキは机の上に足を置いてふんと鼻を鳴らす。
「これでは、捕まえられるもんも捕まえられんわ」
「警部、糖分足りてないんじゃないんですか? ほら、アメちゃん」
「ワシはアメなんかでどうこう出来る人間じゃないわい!」
叫んだキザキにコガネ警察の総括役が咳払いする。緊張感がないとは言え、キッスの被害報告だ。
自分のほうが弁えていなかった、とキザキは反省する。
「……失礼しました」
「いや、君の考えも分かる。キッスを追って何年かのベテランであったか」
「八年、になります」
その年数に統括役は感嘆の息を漏らした。
「それほどまでに……、いや、君はそうであったな。対怪盗キッスのために作られたと言われている対策班の、唯一の生き残りだとか」
対策班の話はもう随分と昔だ。今さら蒸し返す事でもあるまい、とキザキは冷淡に対処した。
「対策班の話は、今はいいでしょう。金のコイキングの彫像も、今は。ですが、これからの、建設的な話し合いが出来ると思っていたのですが、違いますか?」
机を叩いたキザキの言い分にコガネ警察の代表者達が眉をひそめた。
「そうは言ってもだね。怪盗キッスの手持ちポケモンすら割れない現状。さらに、今回なんて発砲許可まで取り付けたというのに、捕縛出来なかった。警察不要説さえも上がる始末だ。威信をかけてキッスを捕まえたいのは皆同じだよ」
そうだろうか、とキザキは周囲に視線を巡らせる。己のように妄執を持って事件に当たっている者はいないように思われた。
「キッスを捕まえたいのならば、荒事になるのも込みで、もっと慎重に事を進めるべきと進言します」
「キザキ警部、しかしここは我々のやり方に従ってもらいたい。郷に入らば郷に従え、という」
重々承知である。だが、キザキはコガネ警察のどこかやる気のなさに腹を立てているのだ。
「次のターゲットが割れればまた、ご報告ください。自分は失礼します」
敬礼をしてキザキは捜査本部を後にする。その背中にヤマジが追いついてきた。
「怒らないでくださいよ。みんな、必死なんです」
「何が必死なものか。あれではキッスは捕まらん」
「やり方に問題があると仰るのなら、それ相応のポストに直訴すれば」
「それで片がつくのならばワシはそうしておるわ。どうにもコガネ警察、キッスをただのこそ泥と思い込んでいる節がある」
ヤマジは白いタキシードを整えて、思案を巡らせているようであった。
「カントーでの大事騒ぎの後ですから、それなりに人員は配置していると思いますよ。ただまぁ、カントーで勃発したものとは規模が違いますから。ジョウトは隣接しているとはいえ、やはりどこか他所の国の出来事だと思っているみたいです」
「カントーのプラズマ団蜂起の一件にはワシは噛んでおらんからどうとも言えんが、裏組織が相当に介入したと聞く。コガネが荒れる、というイメージが湧いておらんのだ」
本腰を入れるならば、コガネ警察とてもっと躍起になるはずである。カントーの二の舞は御免だと。
「ヤマブキの闇に関しては僕も調べておきましたが、あれは十年二十年の違いがあります。その点、怪盗キッスはまだ小物、という考えが浸透している」
「カントーはヤマブキ。その本性は殺し屋、闇組織、人身売買の温床と聞く。地獄絵図があるのだそうだ」
「お詳しいんですね」
「一度か二度、カントー警察で組んだ事があるからな」
ヤマジはキャンディを片手に問いかける。
「それはキッスを追って?」
「無論、そうだ」
キザキはロビーの喫煙室に入り、煙草を取り出そうとして部下の目がある事に気づく。
「お前は吸わんのだったな」
「ええ、ですが別に嫌煙家というわけでもないので」
「ではここだけの話くらいは守れるな」
キザキは監視カメラを視界に入れつつ、くたびれた帽子の鍔を目深に被った。
上から下まで一式が茶色の一点ものだ。よれよれのコートを翻し、キザキは椅子に座り込む。
「僕はキザキ警部の部下です。当然の事ながら秘密は守りますよ」
キザキは一服吹かしてから、ゆっくりと口火を切った。
「コガネに現れた怪盗キッスの手口は今のところやわい。ワシは、前哨戦ではないかと思っている」
「前哨戦、ですか……。捜査本部で口にすれば」
「袋叩きだろうな。だがワシにはその予感がある」
紫煙を肺の中に取り込み、キザキは言いやった。
「八年、だ。追ってきた経験則と言ってもいい」
「怪盗キッスへの唯一の対抗策、とまで言われていますからね、警部は。生き字引、とも」
フッとキザキは自嘲の笑みを浮かべた。
「そこまで詳しくなるつもりもなかったのだがな。年かさは重ねるものでもない」
「僕は所詮二年目のひよっこです。警部に比べれば」
「謙遜はよせよ、エリートコースの出世頭。もっと自分の身分を自覚してもいいだろう」
ヤマジは自分のような人間とは違い、キャリア組だ。将来の確約された人間である。
叩き上げの刑事とは物が違う、と言ってもいい。
「しかし、今回も前哨戦だとすると、キッスの真の目的は何なのでしょう? 獲物を狙う際、キッスは必ずぼろを出すはずなのですが」
「その辺りはこのコガネに慣れてからでもいいかもしれんな」
ふぅと煙い息を吐き出し、キザキが灰皿へと手を伸ばしたその時である。
灰皿に置かれていたのは白い便箋であった。
煙草をもみ消す直前に気づき、キザキはそれを手に取る。明かりに透かすとルージュの痕跡が浮かび上がった。
怪盗キッスの挑戦状の形式である。
「まさか……いつからだ?」
「どうなさいました?」
「キッスからだ。奴は、次の獲物を既に探し始めている」
キザキは便箋を破ろうとして、重要な証拠だと思い留まった。すぐさま捜査本部へと取って返す。
自分の役目だ、とキザキは胸に刻み、その便箋を握り締めた。
「うわぁ……ミサ歌うまいなぁ」
カラオケボックスで歌い終えたミサの横顔を見やり、モナカはホロキャスターにメールが届いたのを確認する。
件名の「NEXTKISS」を目にした瞬間、モナカの纏う空気が変わった。
「ほら、次はあんたよ」
「ゴメンなぁ、ミサ。うち、ちょっと野暮用入ったみたい」
「はぁ? もしかしてシフト変更とか?」
「せやねん。やから、後はミサだけで楽しんでもらえる? お金は払うさかい」
モナカが平謝りするとミサは嘆息をついた。
「あんた、いっつも暇そうなくせに、肝心な時にいないわねぇ」
「ゴメンなぁ」
「いいって事よ。あんたとトモダチしてると嫌でも慣れるし。まぁ、あの人みたいに仕事人間じゃないだけ、あんたのほうがマシかもね」
モナカは親友の背中を眺めてから、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
彼女の心の隙間を増やしている一端は自分にもあるのだ。
カラオケボックスから出るなり、モナカが向かったのはテナントビルの屋上であった。
周囲に張り巡らされた定点カメラを意識し、その死角へと歩み出る。
既に準備していた男がアタッシュケースを取り出した。中から現れたのは不可視のポケモンである。
ギザギザの腹模様だけを晒して、そのポケモンが白い便箋を吐き出した。
モナカがそれを受け取り、月明かりに翳す。
ルージュをあしらえた文様はキッスの依頼の証だ。
赤いルージュは「盗み」。青いルージュは「奪還」。
便箋に浮かんでいるのは青いルージュであった。
つまりは奪還任務である。
「うち、コイキングの彫像盗んできたばっかりなんやけれど」
男は外套に身を包んでおり、目深に被ったフードのせいで顔もまともに窺えない。
黒衣一色のその姿はノエル、と呼ばれていた。
『別件です。既に警察には挑戦状を叩きつけておいたと、協力者から』
電子音声である。キッスの周辺の人間は電子音声でのみ協力する「協力者」と実際に盗みを働く際、力になってくれる「同業者」に分かれている。
協力者達はいつでもキッスを切れる立場にある高位の者達で構成されている。
比して同業者はキッスと似たような立場の者達ばかりだ。いわゆる寄せ集め、ゴミ溜めから這い出てきた人間ばかりである。
「警察に連絡するん、うちに連絡するのと最近、後先になっとらん? その辺間違えてもらうと、うちやって蜂の巣になりかねんからね」
発砲許可が降りているとは思わなかった。先刻の盗みも命がけだ。いつだってキッスの盗みは命の張り合いである。
『ご心配なさらぬよう。今回も協力者達はバックアップを惜しみません』
「期待せんとくわ」
現場で動くのは自分だけである。
そう言外に付け加えるとノエルは肩を揺らして笑った。
『手厳しいですね。それほどまでに、普段の生活が大事ですか?』
「当たり前やん。うち、そこに影響出てくるって分かったら雲隠れするから」
しかし、この言葉が意味を成さないのは自分がよく知っている。
むしろ、協力者達が証拠を持ち出せば、いつでも捕まる立ち位置にいるのだ。
ノエルは分かっているのだろう。その言葉に余裕ある声音で応じていた。
『それは怖い事で。今回の依頼は一つ。取り返して欲しい、というものです』
便箋を切ると中に入れられていたのは数枚の書類である。四つ折の書類の中に、次の標的の写真が添えられていた。
「ターゲットは、霊界の布、ね」
『そこいらの霊界の布じゃありませんよ。それら十枚以上を織り込んだ新たなる秘宝、霊界の羽衣、と呼ばれているものです』
霊界の羽衣、と呼ばれているらしいそれは全身を覆う事の出来るほどの大きさであった。薄紫色の生地に額の部分に赤いダイヤモンドが煌いている。
「この赤いダイヤは?」
『それも特注のようで。どうやら付加価値を上げている代物の様子です』
ふぅんとモナカはその写真を観察する。書類の中には所蔵されている館の見取り図があった。
しかし、見取り図だけだ。
どこをどう潜入し、どう潜り抜けるのかは怪盗キッスの腕前にかかっている。
ある種、こちらの手を完全に相手に明かさない事でこの危うい均衡は守れているのである。
「あんたらがどれほど、うちに期待しとるんか知らんけれど、セキュリティの情報くらいは欲しいところやね」
『それも、怪盗キッスの腕前を信じての事』
言葉の表層ばかりの賛辞など反吐が出る。モナカは便箋を手に踵を返した。
「目標を盗むんは明日未明。警官隊が張っておるんは」
『そちらも込みで、いつもの口座に入金しておきました』
危険度は自分で推し測れ、か。食えない連中である。
「ええけれど、ノエル、あんたどうするん? ここから飛び降りて姿を消す? 言っとくけれど、うちのポケモンが定点カメラの位相を変えたらあんたの姿、見えてまうよ」
『ならば、オーダーの通り、飛び降りでもしますか』
ノエルがすっと目深にフードを被り直し、一足飛びで街中へと飛び込んでいった。
無論、心配は要らないだろう。
この程度で死ぬのならば今まで自分に依頼を寄越しては来られない。
「いつかて、うちの不利に転がるんは変わらん、か。キッスを継いだ者の宿命って言われればそれまでやけれど」
モナカはうなじの髪をかき上げる。
そこに輝いているのは鮮烈なキスマークと「KI−55」の刻印であった。