♯10 ロック・ハード
帰ってくるなりアムゥが抱きついてきた。少女の体温は思ったよりも冷たい。
「おねえちゃん、しんぱいしたよ?」
「ゴメン。でもあの場じゃ、戦うしかなかった」
マスターはあの場所で行われた戦闘をモニターしているのに違いないのだが、何も言わなかった。
こちらとしても追及されないほうが助かる。
「ルージュラとサクラビスをまず回復しよう。話は」
「その後、やね。一夜に二回も三回も逃げてたら、さすがに疲れるわ」
仮面を外し、衣装を仕舞い込む。カウンター席に座るとマスターが早速エネココアを淹れてくれた。
ココアの甘味に何とか助けられる。
今は堂々巡りの思考が掻き乱していた。
――かつての上官が自分と対峙した。という事はつまり、自分の情報は既に相手に割れているはず。だが、警察が割って入った様子もない。考察され得るのは……。
難しい顔をしていたからだろう。アムゥが自分の袖を引いた。
「おねえちゃん、こわいかおしてる……」
アムゥの頭を撫でてやり、キッス――モナカは微笑みを向けた。
「ちょっと疲れただけやから。アムゥちゃん、先に寝とき。そろそろ眠いやろ?」
「うん……ちょっと」
うとうととするアムゥにマスターが声をかけた。
「わたしのベッドを貸そう。リトルレディはそこでお眠りなさい」
アムゥが立ち去ったのを確認してから、マスターは口にしていた。
「クチバインダストリアルの回し者が今さら来るなんて、想定外だった」
モナカは額に手をやって懸念事項を並べる。
「うちの正体を知っとる感じやった。でも、警察が押し入ってくる様子もない。これ、おかしいんとちゃうの?」
「君の偽装住所には誰も来ていない。もしもの時には証拠隠滅のために爆破の準備もされているが、その装置が作動した様子もなし。つまり君の正体を掴んでいても、警察勢力とは組んでいない、と見るべきか」
「キザキの叔父様がそんな事、許さんと思うけれど……」
「あの人の執念は相当なものだ。八年、か。わたしもキッスという存在にお仕えして、もう八年も経つ」
モナカの脳裏に浮かぶのは黒衣を身に纏った精悍な男性の姿であった。その立ち振る舞い、自由奔放にして奇怪。快刀乱麻の活躍をもって皆が畏敬を持って「怪盗」の称号を与えた存在――。
「初代……師匠から継いで二年、か。うちも、自分の因縁くらいは切ったつもりなんやけれど」
「切れていなかった……いや、因縁はどうしてもついて回る。君がモナカという個人を捨てない限り、怪盗キッスとして完全に闇夜にその存在を捧げない限りは一生纏いつく宿命だ」
怪盗キッスとして闇夜に己を捧げるという事は、もうミサとも会えず、女子高生でいる事も不可能になる最終段階。
親友を失う事になる。
それだけは、とモナカは拳をぎゅっと握り締めた。
必死で得たものを失う苦しみを、これ以上味わいたくない。
だがその危うい綱渡りを保証する人間などほとんどいないのだ。
協力者達は初代からの繋がりで自分を観ているだけ。同業者は一時のみのサポート。
畢竟、信じられるのは己の力のみである。
しかし、その力が一時でも暴走すれば……先ほどのような顛末を繰り返す。
「でもうち……切りとうないんよ。メリットだけ考えれば、ミサと会うのも危ないし、女子高生やっとるんも、危ないのは分かる。でもうちどうしてもそれだけは……」
「いや、よく分かる。わたしも、俗世間から全ての足跡を消して闇に生きろといわれれば迷う。初代は言っておられた。いつでも不敵な笑みを崩すな、と。敵は己の心の内に巣食う闇だ。その闇を払う術を持つのも」
「己自身……か。師匠の言うとった怪盗キッスに、うち、成れてるのかなぁ」
時折不安に駆られる。自分の前に怪盗の称号を与えられていた存在の、その威光を消し去るような事を仕出かしているのではないか、と。
だがマスターは、その不安を否定した。
「そんな事はない。君はよくやっているさ。キザキ警部ほどの人がまだ君の正体に辿り着いていないのがその証明だろう。あの人は初代を幾度となく追い詰めた。本物の刑事の、魂を持つ人だ。その人がまだならば、君は大丈夫さ」
その言葉に安堵したからだろうか。モナカはどっと湧いた疲れに顔を伏せる。
「色々あり過ぎて……マスター、ゴメン。二十分ほど寝かせて」
「ベッドはあるよ」
「いい。今はここで眠るわ。それに、アムゥちゃんの事も聞かなあかんやろうし」
霊界の羽衣に関しての追加情報があるはず。自分はそれを聞き届けなければならない。
盗みは、最後まで成し遂げて初めて、成功なのである。
まだその段階の中途で立っているだけだ。
「いいよ。おやすみ、モナカちゃん」
言葉を返すまでに、モナカは眠りについていた。
秘匿回線である、と前置きされてから、ヤマジは報告していた。
「キッスの正体を知っているかもしれない組織なんて、今まで上がっていたのか?」
『キッスの正体は完全に極秘情報だ。掴めているはずがない』
「だが、連中は知っている様子だったぞ。ノエル」
通話先の名前を言ってやると、ノエルはフッと笑ったのが伝わった。
『我々でさえも完全には掴ませてくれないキッスの正体だぞ? それを民間軍事会社くずれが持っているとは思えんがね』
「だが鬼札はあるはずだ。正体を完全に理解している、とまではいかなくとも、その断片でも」
追及するヤマジにノエルは嘆息をついた。
『同業者が踏み込み過ぎた例を教えてやろうか? コンクリート詰めなんてまだ生易しいと思える末路だぞ』
「僕は同業者としての領分まで越えるつもりはないさ。ただ、相手の情報の出方次第ではキザキ警部が察するかもしれない」
『彼が勘付いた様子でもあるのか?』
「逆だ。相手がずさん過ぎる。キザキ警部を嘗めているんだ。だから足元をすくわれた結果、僕にまで飛び火すれば組織全体に関わるぞ」
その脅迫文句が利いたのか、あるいは最初からか。ノエルは、らしいなと声にする。
『八年もキッスを追っているだけはある。証拠物件を押さえたか』
「データは送っておいたな? あれは何だ?」
鑑識に回す前に組織の協力者達が完全に証拠の解析を終えている事だろう。ノエルは言葉を継ぐ。
『エアームド、と呼ばれるポケモンの技の痕跡だ。どうやら暗殺に長けた仕様に出来上がっているらしい。このポケモンの放つ銀色の矢……ステルスロックと呼称されるものに近い。だがステルスロックと違うのは、切っ先に毒が塗られている』
「毒だって? でも警部は何も」
『時間経過で消える毒素だ。着弾した十秒後には対象に染み渡り、完全に痕跡を消す。これはそこいらのトレーナーの育てではあり得ない。金をつぎ込んでこのような仕様にエアームドを鍛え上げた。そう思っていいだろう』
ジョウトPMCはそこまでの技術力を持っているのか。
恐れが這い登ってくるが、問題なのはこの毒素が使用されたのかされなかったのか。
「……現場で一人、死体が発見された。損傷が酷かったらしいが、致命傷は不明。まさかその毒が?」
『そのまさか、だな。死体の身元はケリィ・ライアン。元イッシュ軍人。二年前から傭兵職を転々と。その結果がジョウトPMCだろう。ケリィという軍人に関する情報は集めておいたが……彼はキッスの正体を知っていた、数少ない人物である可能性が高い』
「どういう事だ、ノエル。キッスの正体は極秘なのではないのか?」
たじろいだヤマジにノエルは息をつく。
『キッスになってから、の情報はA級の秘匿権限で守られているが、キッスになる前の情報を掴まれていたらしい。つまり二代目怪盗キッスの、その過去に由縁のある人物であったと』
二代目。その言葉でさえも自分達の間でしか使われない極秘事項である。
初代怪盗キッスと二代目怪盗キッスが異なる人物であると民間では知られていない。
警察上層部でも知っているのは恐らくは一握りの人物のみに限られるであろう。
「過去、か。怪盗キッスの過去の閲覧レベルは?」
『SS級だ。君には知る権限はない』
だがそのSS級の情報が出回っている。ジョウトPMCにこれ以上嗅ぎ回られれば、帰結する先としてキザキの耳にも入りかねない。
そうなった場合、己の身の破滅だ。
躍起になるヤマジを他所にノエルの情報の開示度は渋い。キッスに関して組織の知っている事を話せと詰め寄ったところで同業者にはその権限がないと言われてしまばそこまでだ。
踏み込んだ場合、自分の立場も危うい。
「……ではキッスに関する動きは」
『君は依頼があればそれを実行する警察内部での同業者だ。無論、君の他にも都合のいい人間はたくさんいる』
暗に自分を特別だと思わない事だ、と釘を刺される。
ヤマジはノエルへと最後の疑問を発した。
「では終わりに……ノエル、あんたはどうしたいんだ? キッスを破滅させたいのか? それとも救い出したいのか?」
『どちらでもないよ。キッスは象徴だ。それを組織は高く買っている。キッスが活躍すればするほどに、我々としては評価のレートに上がる、という事だ。間違っても組織より上の立場になろうなど、キッスは考えもしないだろう』
その確信がどこから来るのかも不明であったが、ヤマジは承服するしかない。
「分かった。僕は今まで通り、警察への根回しとキッスの助力を」
『助かるよ』
その言葉を潮にして通話は切られた。結局、キッスに関して欲しい情報は得られないまま。
ヤマジは舌打ち混じりにホロキャスターの通話履歴を辿る。
その中の一つへとコールしていた。
『もしもし?』
「流しのヤマモトさんだな? ちょっと頼みがある」
その切り口にヤマモト、と呼ばれた男の声が鈍る。
『何の用だ? そっちのやり方に口は出さない。こっちのやり方にも口は出させない。それが同業者のルールのはずだが?』
「今回の一件でキッスの正体が露見しかねない。その場合、芋づる式に僕らは破滅だ。だからこそ、手を打っておきたい」
通話先のヤマモトが胡乱そうな声を出す。
『手ぇ? 何だ、俺達でノエルをはめようとでも言うのか?』
「不可能な事を言い出すなよ。ノエルには隙がない。……今のところは」
『いつかはあるみたいな言い草だな』
「僕が提案したいのは、キッスの情報の完全封鎖のために、協力して欲しいという事だ。お互いに獄中生活は嫌だろう?」
せっかくここまで登り詰めたのだ。ならば、赴く先は一つ。栄光だろう。
『……あんた、勘違いしてるね。流しなんてもんに、流儀があると思っているのかい? 組織が一番に切り捨てられるのは、俺達みたいな末端なんだぜ』
「末端にしか分からない苦悩もある、と言っているんだ。それに、末端だからこそ任せられるヨゴレも。……キッスの正体を知っているかもしれない民間団体が敵になる。僕は出来るならばそいつらの動きを制したいが、金でどうにかなる連中じゃない。荒事専門の何でも屋だ」
『聞き及んでいるよ。ジョウトPMCだろ? いつから民間軍事会社に尻尾を振るようになったのかねぇ』
「お歴々はその民間軍事会社の舵を取っている。ついでにキッスを洗い出せれば上々、とでも思っているのだろうが、それだと僕の上司が納得しない」
その言葉振りにヤマモトは自嘲する。
『怪盗キッスへの対抗策、キザキ警部、か。有名だぜ? その道ではな』
「キザキ警部は組織が思っているよりも勘が鋭い。その下についてみてよく分かった。欺き続けるのは難しいだろう。しかも、僕がぼろを出さなくとも、向こうがぼろを出せば同じだからな」
『お互いに踊らされているってわけかい。いいぜ、坊ちゃん。火遊びは一人じゃ怖いが、みんなでやればそれほどなのはよぉく分かっているさ』
「流しならではの情報網があるだろう? それを貸して欲しい」
『金ぇ、なんて事は言うも野暮か』
ヤマジはすぐさま前金と成功報酬を提示する。通話先のヤマモトは上機嫌に口笛を吹いた。
『いいのかねぇ。そんなにもらって。政治家の流しだってそこまで気前はよくねぇぜ?』
「僕にとって金は使わなければ紙クズ同然だからね。打てる手は全て打つ。そうでなければキザキ警部を騙す事は出来ない」
『信用してるんだか、対抗してるんだか。だが、納得だ、坊ちゃん。今回の仕事は請け負おう。流し代表として、裏切りはないと言っておくよ』
「流しのネットワークを使って調べて欲しい人物がいる」
『あいよ。名前は?』
「ケリィ・ライアン。イッシュに従軍経験のある元軍人。今は傭兵をやっていたらしい。そいつの死因と、過去を洗い出してくれ」
『信用に傷がつくと、俺達の仕事は話にならないんでね。これを絶対に外に漏らさない保証は?』
「……今繋いでいるホロキャスターの番号がその証明だ」
使用しているホロキャスターは組織のために利用するものではなく、一個人としてのプライベート回線であった。
ヤマモトは得心したのか、なるほどとこぼす。
『番号は控えさせてもらうよ。ケリィとかいう軍人の司法解剖のデータは一瞬で出た。危ねぇな。あと一歩でジョウトPMCの秘匿情報に引っかかるところだったぜ』
相手より一歩前に出られた。その確信にヤマジは拳を握る。
「よし、そのデータを僕の端末に送信してくれ。ジョウトPMCはキッスに関する重大な情報を隠し持っている。そいつを抜き出してキッスの安全を確保する」
『坊ちゃんの口ぶりからしたんじゃ、キッスが捕まると自分も危ういって事なんだろうが、俺達に恩を売れば後々高いぜ? それも込みで分かっていると思っていいのかねぇ』
警察という身分と将来が確約された財閥の跡取り。それら全てを投げ打つ覚悟はあるのか、と問い質されていた。
しかしヤマジは迷わず答える。
「生きている間しか、恩は売れないんでね。流しの世話になるくらいなら、金は出し惜しみしない」
その言葉にヤマモトが昂揚した声を発する。
『気に入ったァ! 坊ちゃん、覚悟は据わっているみたいだな。なら教えてやるよ。ケリィって奴はイッシュ軍人の中でも生え抜きであった。それこそ、生粋の軍人気質だったんだがある一つの極秘作戦に関わっていた形跡がある』
「極秘作戦……? 何だ?」
『そこが靄のかかったように読みづらいんだが、死人の情報だ。書き換えられる前に回収したよ。えっと、クチバインダストリアルっていう会社からの人材斡旋か』
どうしてここでカントーの会社の名前が出てくるのか。胡乱そうにするヤマジにヤマモトは、なるほどと得心する。
「何が、なるほどなんだ?」
『いや、こいつぁ……キッスの正体がそうかもしれない、って事か』
「勝手に納得するな。僕に与えられている情報はまだゼロだぞ」
『これは、知ったらなかなか苦しいぜ。知らないほうがいいかも知れん』
「教えろ、金は払った」
詰問にヤマモトは応じる。
「あいよ、坊ちゃん。クチバインダストリアルってのは表向き人材派遣会社だが、その人材を雇っていたのではなく、造っていた、って話だ」
「……どういう」
言葉の意味が飲み込めないでいると、ヤマモトは言いやる。
『幼少の子供を攫い、人格を破壊、投薬による均一化、自我を調整し、戦闘兵器としてのメンテナンスを加え、より兵器としての純度を上げていく。人を兵器に変え、その兵器を密輸する。それがクチバインダストリアルの本業だったらしい』
「人間を兵器に……。そんな事が」
『おぞましいかい? だが事実だ。ケリィなる男はここから派遣されてきた一体の兵器の主任を任されていたらしい。より兵器らしく純正とするために、イッシュ軍で鍛え上げる腹積もりであったんだろう。しかし、その兵器は行方不明。兵器がどうなったのかを開くと廃棄済み、と出る。何かが起こったんだろうな』
「何か……その兵器が、キッスとどう関係がある?」
『頭ぁ働かせな、坊ちゃん。ケリィなる男はその兵器に借りがあるとしよう。今回、ジョウトPMCの命令以上に前線に出る理由があったとすれば』
そこまで言われてヤマジはハッとする。
「キッスが、クチバインダストリアルの戦闘兵器……?」
『誰も辿り着かなかった結論だな。しかし、そう考えるとその手際のよさ、それに流麗さもある程度説明はつくんだよな。齟齬があるとすれば、キザキ警部そのものになっちまうが』
「……警部は八年もキッスを追っておられる」
『そこだ、坊ちゃん。八年前からずっと、じゃあその戦闘兵器が野に放たれていたのか、というと違う。この計画が施行されたのは四年ほど前。キッスの出現時期と被っちまって、符合しない』
「じゃあ、やはり思い違いなのでは?」
『それにしちゃ、この情報の閲覧権限が高過ぎるんだよなぁ。俺はこの情報、持っておいて損はないと思うぜ』
キッスがカントーの造り出した殺人兵器。いかにもゴシップが好きそうな話題である。
「……分かった。頭の隅には置いておこう。しかし、キッスが殺戮兵器だとして、じゃあどうして我々の組織の傘下に下っているのか」
『生きるためか、あるいは他に食い扶持がなかったからか。どっちにせよ、あまり賢い選択とも言えないな』
その意見には同意である。組織に一度下れば、逃げるのは容易ではない。
一回でも仕事を共にすると、組織はこちらの弱みを確実に掴んでくる。
「そこまでで充分だ。これ以上は憶測の交し合いになる」
『だな。まぁ、金の入金も確認したし、またいつでも頼っていいんだぜ』
「考慮に入れておく」
通話を切り、ヤマジは警察署へと戻った。警察の中では若手のエリートでありながら、まだ青い果実である事をアピールしなければならない。
熟してもいない人間である事をキザキに思い込ませなくては、一度でもこの方程式が崩れれば瓦解する。
組織との繋がりも然り。自分という存在に関してのキザキの判定も然り。
警察内ではせいぜい無能を演じる事であった。
鑑識から回ってきた書類を手にヤマジはキザキへと電話をかけた。