♯1 ラヴィン・ユー・ベイビー
投射されたのはいくつもの光の円。
まるでレーザーサイトのように一つの標的を狙い澄ます。その先にいたのは黒装束の少女であった。
目元を隠す仮面を身につけており、唇には赤い紅が引かれている。
その口角が吊り上げられ、雅に微笑んだ。
銃口が一斉に向けられる。手向けられた花束のように少女はその敵意の銃へと口づけを投げた。
直後、空間を劈くのは続け様の銃声である。
少女の身体が跳ねて照準をぶれさせた。
重力を感じさせない動きで少女が空間を機動する。
銃を持っている警官隊がうろたえ気味にその銃口を迷わせた。
「見えているのか……」
一人の警官の発した弱音に仮面の少女が身を翻し様、水の砲弾を放つ。浴びせかけられた水攻撃で銃が湿った。
その刹那、襲いかかってきたのは急速な低温攻撃である。冷却された銃が瞬時に凍て付き、銃口が目詰まりを起こした。
「これじゃ……」
惑った警官隊の群れを引き裂いて、一人の男が前に出る。
拡声器を使い、投射光の先にいる少女を指差した。
「待て! 怪盗キッス! お縄につけぇっ!」
その言葉に少女がフッと微笑む。
「待てと言われて、待つ人間がいれば拝みたいほどよ、キザキの叔父様」
少女の背中に展開されたのは水の翼であった。それが瞬間的に凍り付き、氷の両翼となったのである。
天使だ、と誰かが呟いた。
その言葉通りに、少女が佇む。
ビルの縁に立っており、通常ならば絶体絶命の窮地。
だがそれが通常ならば、の話。
少女怪盗は氷の翼を広げ、何とビルからダイブしてみせた。
飛び降りた少女に数人の警官隊が追いすがろうとする。
しかし、その時には、氷の両翼は空気中に解け、雪の華を発生させていた。
少女怪盗の痕跡は純白の氷で彩られ、その姿は闇の中に消えていく。
キザキ、と呼ばれた刑事が拳を叩きつけた。
「怪盗キッスめ……、また逃げおおせやがった」
「ど、どうなさいますか? 警部殿。これでは追跡も……」
儘ならんのだろう。キザキは手を払って乱暴に命じる。
「黄金のコイキングの彫像は諦める他ない。それか、市場に出回ったところを押さえるか」
「しかしそれでは、被害者は納得しませんよ」
そんな事は百も承知である。キザキは刈り上げた後頭部を掻いてこれからの懸念事項を並べてみせた。
「まずは、被害者への報告。その後は被害額の請求か。まったく、書類仕事ばっかりが増える」
ゴミ箱を苛立たしげに蹴ったキザキに一人の警官が駆け込んできた。
「け、警部殿! これを……」
その警官の持っていたのは一枚の便箋である。キザキは引っ手繰って文面を読み上げた。
「黄金のコイキングの彫像、ありがたく頂戴しました≠セと。キッスめ、嘗めているのか!」
投げ捨てられたその便箋にはキスマークが添えられている。
コガネシティの空域を見張るヘリが一機、羽音を響かせながらビルの屋上へと近づいてきていた。
「本庁からの増援だ」
今さらか、とキザキは唇を噛む。ヘリに搭乗していたのはキザキの部下であった。
「カントーから増援に来ましたが……やっぱり見失いましたか」
白いタキシードを身に纏ったどこかこの場に似つかわしくない青年に、キザキは舌打ちする。
「やっぱりとは何だ、やっぱりとは。現場に来いと、だから言っておるだろう!」
「何ですってー? 羽音でよく聞こえませーん」
キザキはこの部下共々、当てにならんとさじを投げそうになった。
「コガネの街を荒らす小悪党め。必ず、ワシが捕まえてやる。――怪盗キッス」
氷の両翼を融かしつつ、怪盗キッスが舞い降りたのはリニアトレインのホームであった。
屋根に音もなく舞い降り、モンスターボールの収納機能を携えた衣装を脱ぎ捨てる。
掌サイズになった衣装を懐に収め、キッスは駅のホームへと、先ほどからいたかのように降り立っていた。
目撃したのは駅にいた赤ら顔のサラリーマンだけである。キッスはその唇の前に指を立てて、しーっと言いやった。
ルージュを一度引けば、それは魔法の始まりだ。
夜は彩られ、魔術に沈んだコガネの街は深い眠りに落ちる。
ルージュの魔法にかけられたのか、あるいは惑われたのか、赤ら顔のサラリーマンはそのまま眠りこけた。
夢の続きだと思ったのかもしれない。
キッスはどこからどう見ても女子高生の制服姿のまま、駅の改札を抜けて喧騒の街を歩んでいった。
誰も彼もが飛び込んできたニュースをホロキャスターの画面で見やっている。
「おい、また出たんだってよ、怪盗キッス!」
「いいなぁ、一度でもいいから会いたいよなぁー。きっと美人なんだぜ」
「バァーカ、怪盗キッスは男だって噂もあるぞ」
巷に溢れ返る怪盗キッスの噂話の中を、当のキッス本人が歩き抜けていく。
プリンを模したピンク色の腕時計を見やり、彼女は白い吐息をついた。
待ち合わせ時間には何とか間に合いそうである。
「あっ、遅い! サギサカ・モナカ! あんた、五分遅刻だからね!」
待ち合わせ場所にいたのは髪を二つ結びにした少女であった。自分と同じ高校の制服に袖を通しており、勝気な瞳が釣り上がっている。
「ごっめん、ミサ。うち、走ってきたんやけれど……」
「ウソ。あんた、悠々と歩いてきたんでしょ。いっつもそうなんだから」
ぷいっとそっぽを向いたミサにキッス――モナカは困惑の笑みを振り向けていた。
「ごめんやって。歩いてきたんは謝るから」
「やっぱし、歩いてきたんじゃない! 罰金、一億万円!」
頭を引っ叩かれモナカは大仰によろめく。
「いたた……。一億万円? そんなに持ってへんよ、お金」
「ものの例えよ! あんた、そんな鈍くさくってよく生きていられるわね」
「酷いなぁ。生存権をどうこう言われるほど、うち、頼りないかなぁ」
「そんなんじゃ、ナマケロしかいないサファリパークでも生きていけないよ」
胸元を指差されてモナカは手を振った。
「うち、ナマケロだけしかいいひんサファリパークはいややなぁ」
「それくらい鈍くさいって事。はい、自覚して!」
ミサに丸め込まれ、モナカは挙手する。
「はい! 自覚しました!」
そのやり取りに飽き飽きしたのか、ミサはやれやれと首を横に振る。
「あんたってホント、グズ。これから先、生きていけるのか心配になるわ」
「ミサは偉いもんなぁ。アルバイトも真っ先に始めたし」
「あんたとは違うのよ。そのバイト先も紹介してやったのに、いっつも遅刻、遅刻! はい! 自覚して!」
「じ、自覚しました!」
挙手して言いやったモナカにミサはため息を漏らして詰め寄った。
「……で? 遅刻の言い訳は?」
「えっと……電車混んでてんけど……」
「電車混んでて、で?」
「でって……、うち、それ以上は特にないよ」
ミサは一際大きなため息を漏らして額に手をやった。嘆かわしげに口を開く。
「一分一秒でも惜しいじゃない。もうっ、あんたカラオケ代、二割増しだから」
「えーっ……、カラオケ楽しみにしてたんやけれどなぁ」
「あたしとあんたの二人カラオケだけれどね。聖夜も近いし、バイト代も入ったしぱぁっとストレス発散するわよ!」
「お、おーっ」
街はクリスマスシーズンに彩られ、電極が輝きを放っている。
オドシシに乗ったサンタクロースがアローラから来るというのである。
イルミネーションで着飾った街の交差点で街頭モニターの女性キャスターが特報を読み上げた。
『今しがた入ってきたニュースです。黄金のコイキングの彫像がコガネ美術館より盗難されたという情報が入ってきました。捜査本部は今回も劇場型の犯罪者、怪盗キッスの仕業と見て間違いないという見解を示しており……』
「まぁーた怪盗キッスだってさ。どこのどちら様なのかしらね。金のコイキングの像なんて盗んで、さぞやお金には困らない事でしょう」
「……そんな事もないと思うんやけれど」
「何であんたが肩持つのよ」
怪盗キッスのニュースに人々がホロキャスターを手にしSNSに書き込んでいるのが窺い知れた。
「怪盗キッス」で検索すればニュースランキング上位に入っている。
「市民の人気もゲット、お宝もゲットっていう、とてつもない輩ね。どういう奴なのか見てみたいくらいだけれど」
「ミサ、お父さんが刑事やん。見せてもらえばええんとちゃうの?」
「……あの人の事は言わないでよ。せっかくカラオケに行くって言うのにしらけちゃうじゃない」
つっけんどんなミサの言葉に、モナカはふぅんと返す。
つい先ほどまで、その父親の鼻を明かしてきたのだとはさすがに言えない。
「何よ、ふぅんって知った風なカンジ。モナカのクセに、生意気よ」
ぽかんとまたしても頭部を叩かれる。モナカは大げさにつんのめった。
「ミサのツッコミはキツイなぁ」
「ツッコミじゃない! あんたが万年ボケだから、こういう風になっちゃってるだけ!」
怪盗キッスのニュースを続ける街の中心地を尻目に、モナカとミサは人混みの中に消えていった。