EPISODE89 錯綜
呪いの効果はほとんど消え失せていた。
しかし、ファウストから、動くな、と厳戒命令だ。
コルニは起き上がり、プロトEスーツの入ったアタッシュケースを手にする。
「……待ってばっかじゃ、性に合わない」
宵闇の中を駆け出す。ミアレの街並みは以前と変化していないように映ったが、コルニには一つだけ違和感があった。
「前には、でかい一つの存在が、ずっと見張っている感じだったけれど、それがなくなったな」
代わりに感じるのは分散した気配。壁沿いに気配を感じ、コルニは拳を握り締めた。
次の瞬間、壁に拳を叩き込む。
亀裂が走り、向こう側にいたポケモンが跳躍した。タマゲタケ、という小型のポケモンである。
コルニはすぐさま追いつき、タマゲタケの首筋を捉えた。
「捕まえた。何だって街中にタマゲタケが?」
「教えるつもりはなかったのだけれどね」
背後に迫った声にコルニは振り向かずに応じる。
「アタシがいない間に、何かあったのか。ファウスト」
「いくつかだけ、断片情報を伝えるとしましょうか。タマゲタケの大量発生とそれに伴い、一度、エスプリは敗北した」
「別に、負けるくらいよくある話なんじゃないの? 殊更、取り上げる意味が分からない」
「……言い方が甘かったわね。エスプリは敗北し、死亡した」
その事実にはさすがに震撼した。
――エスプリが、死んだ?
ではヨハネは? ユリーカはどうなったのか。
その事実の中心軸にいるのがタマゲタケなのか。
様々な質問をファウストは一言で片づけて見せた。
「でも、生き返って今は戦闘を継続している。あなたの出る幕はないわ」
「生き返って……? そんなの、普通じゃないでしょ」
ほとんど冗談とも思える言葉であったが、仮面の女は怜悧な眼差しのまま、こちらを見据えるばかり。
本当だというのか。
「生き返って、ってのがまず本当だったとして、じゃあさ、今戦っているエスプリは前のエスプリと同じなの?」
「そういう事になっているわね」
「そういう事っていうのはつまり、厳密には違うって事なんだ?」
ファウストは顔を伏せて口にする。
「……我々にも解明出来ないけれど、特別な方法でエスプリは蘇った。だから、その方法さえ分かれば進展はするんだけれど」
「今は何も分からないって事?」
「恥ずかしながら、ね」
コルニはアタッシュケースを肩に担いで、手元のタマゲタケを凝視する。
「やっぱりやられたんだ……。だよね、弱いもん」
「今回は絡め手が用いられたのよ。決してエスプリが弱いだけじゃないわ」
しかし、弱いと言っているようなものではないか。もっともそのような皮肉、この女には通用しないのかもしれないが。
「で、どうするっての? 弱っちいエスプリが蘇ったところで、やっぱり弱いままって事?」
「錯綜していて答えはすぐに出せないけれど、気をつけなさい、コルニ。あなたの復讐の、邪魔になるかもしれない」
「わけ分かんない。だってあんなの全然脅威に上がらないよ」
小首を傾げるコルニへとファウストは言ってのける。
「慢心、というわけでもないけれど、本調子じゃないのと、〈チャコ〉を奪われているままの事だけは覚えておきなさい。まだ呪いの効果、切れてないんでしょう」
「お陰様で大分薄まったけれど」
ほとんどボクレーの呪いに関しては完治したと言うべきだろう。しかし、ファウストは念を押した。
「それでも、戦闘中に暴れ出さないとも限らない。イグニスの戦いに泥を塗られる覚悟もあると考えるのよ」
「ファウスト……、あんたの手腕は分かっているし、その情報の確かな事も知っている。アタシに、プロトEスーツをくれた人だし、無下にするつもりはない」
「……だから?」
「それでもさ、アタシの道はアタシが決める。今さら、誰かさんを頼るほど弱々しく生まれたつもりはないし」
一瞬だけ脳裏を過ぎったのはヨハネの姿であるが、それを感じさせない声音であった。ファウストは嘆息をつく。
「だと、いいけれどね。それでも、気をつけろ、と言っているのよ。まだイグニスは出させるつもりはない」
「じゃあいつやらせてくれるのさ。アタシ、言っておくけれど待ってられないよ。いつ、じィちゃんを殺した奴に辿り着かせてくれるんだ?」
「……辿り着くわ。このまま言う事を聞いていれば、ね」
「それは本当なのか? 本当に、この手でじィちゃんの仇を討たせてくれるんだろうな?」
「保証する。それよりもコルニ、タマゲタケを離しなさい。それを追尾してエスプリが来るわよ」
「面白いじゃん。蘇って強くなったのか確認が出来る」
コルニの強気な発言にファウストは頭を振った。
「あなたは……本当にじゃじゃ馬ね」
「よく言われ慣れているよ。このタマゲタケを持っていれば〈チャコ〉と合流出来る可能性もある。今のアタシには、〈チャコ〉がいないと話にならない」
「ルチャブルとの連携が基本スタイルのあなたは、そうでしょうね」
「じゃあね。世話になった。忠告くらいなら聞いておくけれど?」
駆け出そうとするコルニにファウストは言付けた。
「では言わせてもらうわ。あなたの身柄は依然、こちらにある。忘れない事ね。あなたもまた、悪魔と契約している事を」
「二つ目は?」
「プロトEスーツは有限よ。エレメントチップが切れそうになったら頼りなさい。その時にはまた違う力が必要になるかもしれないけれど」
「アフターサービスもちゃんとしてるじゃん。ファウスト、あんたってどこまで計算?」
ファウストは肩を竦めてみせる。
「どこまでも。計算外では動かないタイプだから」
「ふぅん。まぁいいや。アタシ、もう行くね」
コルニは跳躍してミアレの高層建築の屋根を伝う。
タマゲタケから何らかの信号が出ているとすればエスプリと――ひいてはヨハネと再会出来る可能性があった。
そういえばユリーカに関しては聞いていなかったがどうなったのだろう。エスプリが死んだとなればユリーカも無事では済まなかったはずだ。
「どっちにせよ、結構面倒には違いない、か」
ぼやいてビルの谷を抜けた。