ANNIHILATOR - 深化篇
EPISODE86 兄妹

「おや? 持ってきたのに食べていないのか? 好きだっただろう? ロリポップ」

 シトロンは箱買いしてきた飴にユリーカが一切手をつけていない事に気づいた。

「私は、私の信じるものしか食べないし、信じるものしか飲まない」

「それでは死んでしまうだろうに。分かったよ、要望には応えよう。何が不満だ?」

「全てだよ。シトロン」

 椅子に座っていたユリーカが振り返る。

 その視線の先には白衣を纏ったシトロンの姿があった。己の兄。血を分けた兄弟の、はずであった。

 しかし、見つめ合う双眸はまるで異なる。

 ユリーカは憎しみを携え、シトロンは愛情を湛えている。

 ――否、偽りか、それも。

 ユリーカにはもう数年ぶりに会う家族の心情が分からなくなっていた。

 ただ、目の前の男はフレア団の幹部研究員なのだ。ハッキリしているのは、血縁云々よりもまずはそれである。

「何か、怒らせるような事をしたかな?」

 シトロンの眼鏡越しの瞳には慈愛さえも混じっている。しかし、今の今までEアームズで自分達を狩ろうとしてきた連中の一角。やすやすと信じられるはずもない。

「その、口先ばかりの言葉が、余計に。私にミュウツーを完成を手伝わせたいのだろう。汚れた研究だ」

「研究分野に汚れはつきものさ。そんな事が分からなくなったほど、俗世に塗れたか?」

 お互いにけん制の言葉を浴びせあっていても仕方あるまい。ユリーカは建設的な意見を述べようとした。

「……私がここから出るのには、どうすればいい?」

「ぼくの言う通りにしていればいつでも外出は許可出来るが、同時に何もする気がないのならば外出どころか外の空気を吸わせてあげる事も出来ないね」

 絶対に自分を外に出さないつもりだろう。それは交渉条件からも明らかだ。

 マチエールやヨハネと会えないようにしている。自分の存在理由は培養液に浮かぶ肉腫を進化させる事のみ。

「ミュウツー細胞、これ自体は素晴らしく意義がある。人間に適用すれば若返りも可能だろうし、何よりもメリットに比してデメリットが少ない。想定される悪影響と言えば、脳波の乱れくらいだな」

「そこまで調べるとは、さすがはぼくの妹だ」

 賛辞を無視してユリーカは情報を読み上げる。

「このミュウツー細胞を使って、ポケモンの純粋強化、くらいは出来るが、Eアームズに比してこれが全く議題に挙がらないのは、情報操作か?」

「向こうが言ってきたんだよ。Eアームズ造りに専念しろって。ミュウツー細胞の事は聞かれていないから言っていないだけ」

 肩を竦めるシトロンに、どこまでも狡猾な、とユリーカは判断を下す。この男は、聞かれていないからで全てが済むと思っているのだろう。

「組織にとってベストなのは、ミュウツー細胞による強化に切り替えたほうが、まだマシだという事くらいか。Eアームズ、今の状態と研究成果を見せてもらったが、あれは酷い代物だ」

「酷いとは、とんだ言い草だね」

 無視してユリーカはEアームズの欠陥を述べる。

「第一に、ポケモンとの同調域に関してだが、ハーモニクスの値が一個でも狂えば即暴走、という危険な代物だ。それに、Eアームズの適性者であるかどうかの選抜だけで、数十日は要する。これでは兵器としては失格だ」

「そこまで判定するとはね。案外、Eアームズ研究に向いているんじゃないか?」

 兄の皮肉を聞き流し、ユリーカは結論を口にする。

「つまるところ、Eアームズに固執する意味はもう、存在しない。だというのに、フレア団はEアームズ研究を進める。何故だ? これでは意味がないどころか、前回のように、暴走状態のEアームズとポケモンを作る事になる」

「モロバレルか。あれはぼくの管轄下じゃない。副主任のものでね。ぼくはそれを阻止する手段を講じていたが、面子があるのだろう。拒否されてしまった」

 当然と言えば当然か。シトロンほどの頭脳ならば横から掻っ攫うくらい、わけない。モロバレルの暴走を理由にしてその副主任とやらを更迭する事も出来るだろう。

「私が何よりも気になっているのは、どうしてマチエールを蘇らせるなんて無用な真似をしたのか、という事だ。しかも、爆弾つきで」

「ルイ・オルタナティブは爆弾じゃない。優秀なシステムだ」

「何を求めている? ルイを使って何がしたい?」

「早合点が過ぎるよ。もうちょっと、足並みを揃えて、俯瞰してみるといい。何か、意外な事実を見逃している」

「何の事だ。ミュウツーのもたらす恩恵を、一人で独占している事が、か?」

 舌鋒鋭く言い返すと、シトロンは眉を跳ねさせた。

「驚きだな。妹にそこまで信用されていないとは」

「信用云々の話を持ち出したかったらそもそも、マチエールを再生した理由を、もっともらしく付けるんだったな」

「理由はあるよ。ルイ・オルタナティブのデータを運用試験に回したかった。しかし、Eアームズでは不備が生じる」

 シトロンはコンソールを指でなぞりつつ、奏でるようにリズムを取った。

「Eアームズではない。Eスーツならばデータが取りやすい。しかし、そんな理由で、今まで使ってきたOSを手離すのは不可解だ」

「そうかな。実用試験に回せるのなら、ぼくはどっちでもよかったと取れる」

 歩み寄ってくるシトロンにユリーカは手を払った。

「来るな。ルイの防衛ラインが設けられている」

 投射されたのは赤い線である。歩みが一歩でもこちらに向いていれば超えていただろう。

「自爆スイッチでも作ったかい?」

「自爆よりももっと性質が悪いぞ。全ての情報をオープンソースにして各地方にばら撒く」

 ルイにはそれが出来る。しかし、シトロンは怯えた様子もない。

 それどころか、さすがはユリーカだ、と賞賛を送った。

「抜け目ない。そういうところが、血は争えないのだと感じる」

「いいのか? 今にもそれが出来る」

「ならばこっちはこうしようか? 例えばこのコンソールのボタン」

 シトロンの指が触れたのは何の変哲もないボタンである。

「それがどうした?」

「蘇った相棒が死ぬ事になる」

 目を戦慄かせる。しかし、あり得ない話ではないのだ。保険くらいは打っておくべきである。

 考えあぐねた結果、ここではこう着状態をお互いに選ぶ事となった。

「……交渉はここまでか」

「そのようだね。まぁ、ぼくもこのライン以上には近づかない。ミュウツーの状態とバイタルサインはぼくのシトロニックギアだけでも充分だ」

 シトロニックギア。己の名を冠するそのシステムは自律稼動状態であり、ルイでも介入出来ない。

「……何のために、このカロスをここまで支配する? 崇めている王とやらにそこまで意義があるのか?」

「王にまで至ったか。だが、気をつけるんだ。王の情報系等はぼくでもたどる事はない。この意味、ユリーカならば分かるだろう?」

「王に下手に触れれば、その怒りに焼かれる」

「分かっているじゃないか」

 シトロンはわざとらしく手を上げて後退していく。ユリーカは舌打ちした。

「結局、上にも下にも圧力がかけられない状態、というわけか」

「分かっているのならば話は早い。キミのすべきはミュウツーを完成にこぎつけるか、あるいは新たなる手段を講じるかだが、後者はおススメしないな。何も一つや二つ程度のラインを張っているわけじゃない」

 目に見えない罠があると思っていいだろう。ユリーカはコンソールに手を触れる。

「……作業に戻る。出て行ってくれ」

「了解。ご飯は食べるんだよ。そうしないと、せっかくの頭脳ももったいない」

 ラボを出て行ったシトロンが充分に離れてから、ユリーカは緊張の糸を緩めた。

 思っていたよりも疲労が溜まっている。フレア団に来てからずっと心の休まった事がない。

『マスター! 大丈夫ですか?』

 浮かび上がったルイにユリーカは手を払う。

「大丈夫だ。それよりも、どこまで潜れた?」

 ルイに問うたのはシステムの階層状態である。ルイは指折りして数えた。

『えっと……、二つ、三つ、四階層まで潜れました。でも、そこから先はちょっとシステムトラップが多くて』

「すぐには探らせてくれない、か」

 ユリーカはルイに向き直り、キーボードを手繰ってくる。打ち込んだレジストリキーを頼りにしてルイの末端システムが自律稼動する。

 ルイ本体が潜っていった箇所へとルイのダミーを走らせているのだ。その結果、得られる情報がディスプレイに表示されていく。

 しかし、ほとんどがジャンクファイルだ。やはりすぐに頼りになる情報を得られると思うのは間違いか。

『マスター……。その、ボクじゃやっぱり、あのシトロンには……』

「弱音を吐くな。システムの癖に。私が諦めていないんだ。お前も毅然としていろ」

 むしろ弱音を吐きたいのはこちらである。どれほど潜ってもシステムの階層と罠が張り巡らされているばかりの情報の深海だ。

 光も差さないその場所に身一つで潜っているようなものなのだから。

『少しでも信号を出せれば、マチエールさんやヨハネさんに、ここを伝えられるんですけれど』

「無理だろうな。あと、それらしい痕跡があっても触るなよ」

『どうしてですか?』

「それこそ罠だ。ヨハネ君とマチエールは奥の手になる。こちらから罠にはめてどうする」

 その段になってルイも思い至ったようだ。ユリーカは頭を抱える。

 このラボはルイのシステムを十パーセントも引き出せないように出来ている。その状態からミュウツーの情報にアクセスしようとすればそれこそ無理が生ずる。

 畢竟、一手進んでは三手戻る、を繰り返しているに等しい。

「これでは進捗も何もないな」

『Eアームズの研究成果を得られたのは、大きかったんじゃないんですか?』

「あんなもの、ジャンクファイルと大差ない。あってないようなものだ」

 Eアームズ被験者のデータはほとんどが「死亡」の赤い通知で上塗りされていた。ほとんどを失敗作に費やしてきたシトロンは何のつもりなのだろう。

「副主任、とか言っていたな。そいつと渡りはつけられるか?」

 ルイは面を伏せて首を振る。

『駄目です。通信手段は全て監視されていて……。フレア団内でも難しいです』

「向こうから気づいてくれるように仕向けるのには、このシステムの深海は危ういな」

 手詰まりか、とユリーカは息をつく。ルイは申し訳なさそうに顔を伏せた。

『すいません……。全然、マスターの役に立てなくって』

「いや、よくやってくれている。システムの深海を見つけ出したのは大きかった。ここから別の場所に浮上出来れば、一発逆転の好機だ」

 しかし、それを読んでいない兄だとも思えない。

 下手に手を打たないほうがいいに決まっている。だが、手を打たなければそれこそ犬死だ。

 自分達は一刻も早く、フレア団という盤面を引っくり返さなければならない。力の足りていない今は、待つ事しか出来なかった。

「待つんだ……、ヨハネ君か、あるいは他の誰かかは分からない。ただ、今は待つしか……」

 濁らせた語尾には悔恨が滲んでいた。こんな場所に縫い付けられた自分。それしか方法がなかったとは言え、もっと上策もあったのではないかと今さらに感じられる。

 マチエールは無事だろうか。ヨハネの安否は……。ルイ・オルタナティブが二人を惑わしていないだろうか。

 今は、後悔と懸念が渦巻くばかりの胸中である。

『マスター……。二人とも強いです。だから、必ず辿り着いてくれますよ』

 辿り着いてくれる、か。だがその時、自分達がどうなっているのか、保障はないんだぞ。

 そう言いかけて、ユリーカは口を噤んだ。

 これ以上希望が潰えるのを自分の口からは言いたくなかった。
















「妹君を軟禁とは、随分と趣味の悪い」

 背中にかけられた声にシトロンは振り返る。

 自分に忠実な部下であったが、今日ばかりは糾弾の眼差しであった。

「……何が気に食わない?」

「ユリーカという子供は危険だと、わたしは感じているのです。あれは、ともすればフレア団を瓦解させかねない」

「だからホロンに幽閉していた、か? ホロンの最終試験データを基にしてEアームズは量産されているんだ。役には立っている」

「危うい綱渡りだと言っているんですよ。無二の頭脳が、一つの組織に集中するのは」

「何の不都合がある? Eアームズも強化されて、みんなハッピーじゃないか」

 白衣を翻して講釈を垂れるシトロンに部下は言い返していた。

「あれはエスプリを擁していた子供なんですよ。元はと言えば、敵です」

「だが元はと言えば、味方でもある。利用しない手はない」

 部下はしかし、今日ばかりは譲らなかった。

「それ以上に危険だと、分からないんですか!」

「何だい、今日のキミはえらく食い下がるね。ユリーカがそんなに気に入らないか? それとも、個人的にユリーカと確執でも?」

 言いよどんだ部下にシトロンは嘆息をついた。

「キミの事情は知らないが、フレア団全体の事を、ぼくは考えているつもりだ」

「……モロバレルアームズを破壊するためにしては、エスプリ復活はやり過ぎだったのでは? 方法はいくらでもあったでしょう」

「その代わりに、ぼくのやりたかった事が出来ている。ルイ・オルタナティブの実戦配備。やる、って言っても許しが出なかったが、相手が交渉材料に持ちかけてきたのならばしょうがないだろう?」

 シトロンの言い分はこうだ。

「あくまで相手がルイ・オルタナティブとルイ・アストラル、それにユリーカとエスプリの交換に応じた」という筋書きである。

 こちらの身勝手でこの交換条件が成されたとは一言も言っていない。

「それは、そうかもしれませんが……。正直なところ、こちらの柔らかい横腹を晒したようなものなのでは?」

「大した事ないさ。ルイ・オルタナティブは充分に育成した。育成の次に行うべきは巣立ちだ。巣立った結果、その後どうなろうとぼくの関知するところじゃない」

「……本気で仰っているので?」

「本気でなければ、ルイをくれてやるものか。あれだって一応はぼくの研究成果だからね」

 部下は怪訝そうであったがやがて納得した様子だった。

「……分かりました。今は、それで手を打って起きましょう。追跡情報ですが、前回分散したタマゲタケをエスプリ一行が追っているようです」

「だろうね。もう一度モロバレルに進化されたらまずいのは分かっているか」

「どうさないますか? まだこちらでモニター出来るだけでも数十体。再現は可能です」

「するまでもない。そろそろ自律進化する頃合だ」

 時計を見やるシトロンに部下は瞠目する。

「自律進化……、何を、仰っているので?」

「あのタマゲタケには一体ずつ、小さな学習装置が備わっていてね。一体の進化が複数体の進化を促進させる。つまり、放っておいてもモロバレルにはなるんだ」

 何という事を、と部下は絶句した。

「以前のように、コントロールを失ってしまえば被害は……」

「甚大、かな。でも、それはないよ。何のためにルイとエスプリを帰したと思っている?」

 その段になって部下はハッとしたようだ。

「ルイ・オルタナティブと、Eスーツに、何かを仕込んだのですか?」

「言い方が悪いね。あれは成長するんだ。そういう風なものを、育て上げてある」

 シトロンはギアに表示されるデータを読み取った。そこにはこう綴られている。

「FLARE EXTERMINATE SUIT」と。



オンドゥル大使 ( 2017/01/28(土) 22:53 )