EPISODE80 慟哭
マチエールはプリズムタワーに集まりつつあるタマゲタケを追いかけながら〈もこお〉に命じていた。
いつでもエスプリに変身出来るようにしてある。しかし、相手の目的が見えなかった。
「何のために、こんな目立つ真似を……」
プリズムタワーの下層で待ち受けていたのは赤スーツである。やはりフレア団と身構えたマチエールの目に映ったのは、タマゲタケの群れに流されていくフレア団員の姿だった。雪崩のように巻き込まれ、飲み込まれていく。
タマゲタケが密集し、一つの形を作った。
くねった頭部に、一対の腕を有している。先端部は球状に丸まっており、その全容は巨大化したタマゲタケそのものだった。
寄り集まったタマゲタケの亀裂が埋まっていき、そのポケモンの姿を完全にする。
タマゲタケは百体以上集まり、そのポケモンへと進化を遂げたのだ。
「新しい、ポケモン……」
呆然とするマチエールへとそのポケモンが腕を払う。
毒の一閃が放たれ、マチエールは横っ飛びして避けた。
「そんなもの! 〈もこお〉、行くよ!」
バックルを取り出して腰に装着する。ベルトが伸長し、待機音声が流れた。
「Eフレーム、コネクト!」
〈もこお〉の抱えていたアタッシュケースから飛び出した黒い鎧が螺旋を描き、そのポケモンの攻撃を防ぐ。
暴風を発生させながら、マチエールはエスプリへと変身を遂げた。
「探偵戦士! エスプリ、ここに見参!」
すぐさまホルスターからヒトカゲのボールをセットする。赤の姿へと変身し、エスプリは炎を滾らせながら相手へと肉迫した。
見たところ相手は草タイプも併用しているようだ。炎は効果抜群のはず。
跳躍して回し蹴りを叩き込む。たわんだキノコ型のポケモンはすぐに反撃は出来ないようだ。
直下から突き上げるアッパーを放ち、その無防備な身体へと炎の拳を打ち込む。
手応えはあった。突き込まれた拳からエスプリは炎を噴出させる。紅蓮の炎に焼かれてキノコ型のポケモンが悲鳴を上げた。
「どうだ! これで、あたしの勝ち!」
そう宣言しようとした瞬間であった。
キノコ型のポケモンが一斉に崩壊した。
正確に言えば、進化したそのポケモンが一斉にその形状を解き、退化したのだ。
百体以上のタマゲタケが一斉にこちらを見る。その小さな眼に敵意が宿った。
慌てて腕を放そうとするが、いくつかのタマゲタケが連鎖して絡み付いて離れない。
蹴りを打ち込むとその部分が窪み、こちらの逃げる手立てを奪った。
「悪足掻きを……!」
全身から炎を迸らせる。ファイアユニゾンの能力を全開にし、タマゲタケを焼き払ったかに思われた。
しかし次の瞬間、放たれたのは紫色の霧であった。ばら撒かれた霧の中に微細な胞子が宿る。
瞬く間にEスーツの表面が胞子で覆われた。エスプリはそれを引き剥がそうともがくが、スーツの神経系統に潜り込んだ胞子は剥がせない。
「何を……、この……」
少しずつ呼吸が苦しくなってきた。スーツの循環器系を潰しているのだ。エスプリは思わずバイザーを上げた。
それが失策であった。
バイザーの開いた部分から胞子が寄り集まり、生身の部分に取り付いた。
炎を噴出させようとするが、空回りするばかりで胞子を焼く事すら叶わない。必死に相手へと攻撃を叩き込もうとするが、その時には胞子が体内に宿って激痛を伴わせていた。
咳き込むと血を吐いていた。かっ血した事にさえ気づかず、エスプリはたちまち体温が奪われていく感覚に陥る。寒い、と身体を震わせている間に全身が虚脱した。
ユニゾンの光が失せ、スーツがバラバラに解けていく。振り返ったマチエールの眼にはヨハネが映っていた。彼が声を張り上げる。
「エスプリ!」
その手を伸ばしたが、途端に神経が壊死していった。末端の感覚が失せ、舌がもつれ始める。
何か言わなければならないのに、何も言えなかった。
あ、と呻きとも呼吸音ともつかない声が漏れただけで、そこから先はマチエールの意識は霧散した。
エスプリのスーツが解除された。
それだけでも異常事態なのは窺えたが、何よりも顔面を蒼白にしたマチエールがタマゲタケの進化形態に取り込まれつつあるのを防ぐ必要があった。
「ゴルバット! クリムガン!」
相棒達を繰り出してヨハネは叫ぶ。
「何とかしてくれ! マチエールさんを、救い出してくれ!」
命令の体を成していなかったが、ゴルバットは的確に空気の皮膜を形成し、タマゲタケを切り裂く。
クリムガンが肉迫し、青い燐光を棚引かせながら凄まじい膂力を発揮する。その結果、マチエールをその手に助け出したが、タマゲタケの粘菌がマチエールの身体に根を張っていた。
ヨハネは瞠目し、ひたすら声にする。
「引き剥がしてくれ! 頼む!」
クリムガンが応じて粘菌を剥がそうとするが、その時には、菌はクリムガンの爪に至っていた。爪の先に凝縮され、その鋭さが鈍る。
クリムガンが咄嗟に体内から龍の波導を放出しなければ菌に食い破られていた事だろう。それほどまでに生命力の強い粘菌であった。
「引き剥がすのは、得策じゃない……。ユリーカさんに」
しかし何と言うべきなのか。マチエールが瀕死の状態になった。助けてくれとでも?
タマゲタケが寄り集まり、またしても進化形態に変貌する。タマゲタケの進化系、モロバレル。その形状を模してはいるものの、全体としてはタマゲタケの集合体という側面が強い。
通常のモロバレルよりも巨大でなおかつ、その中枢に赤い機械が埋め込まれていた。
あれがEアームズだ。ヨハネはそう判じ、ゴルバットに命令する。
「ゴルバット! エアスラッシュであのEアームズを切り裂くんだ!」
すぐさま翼を翻したゴルバットは赤いコアへと攻撃を叩き込もうとしたが、それは集合したタマゲタケによって防がれた。今や、モロバレルは総体であり、タマゲタケ個体同士のリンクが成立している。
百体相当のタマゲタケを相手取っているのに等しい。
トレーナーは、と視線を走らせるも、ヨハネの視野にはトレーナーが見当たらなかった。
「おかしい……。これだけの事をやってのけているのに、トレーナーが近くにいないなんて……」
Eアームズを使用するポケモンとは言え、百体前後のオペレーションとなれば相手が出てこないはずもないのに。
その時、モロバレルの体表から突き出ている肌色の部位が視界に入った。
まさか、とヨハネは眼を慄かせる。
「トレーナーが、自ら、ポケモンと同化した?」
否、同化というのには生ぬるい。これは取り込まれたのだ。
トレーナーの意思ではあるまい。タマゲタケの群体に、トレーナーという個体意識などほぼ無意味なのだ。
その思考だけを取り込むためにタマゲタケはトレーナーをも食い潰した。
――なんて、恐るべき……。
ヨハネはマチエールを抱えたまま、どうするか思案する。
このままタマゲタケの総体であるモロバレルを逃がすわけにはいかない。しかし、ここで退かなければマチエールの命はないであろう。
既に手も冷たくなっている。
脈も診られない。ヨハネは歯噛みしてゴルバットへと手を払った。
「エアスラッシュでかく乱! ここは退去する!」
それしか方法が残されていない。ゴルバットは空気の刃を乱射し、モロバレルの視界を塞いだ。
その間にヨハネはクリムガンに抱えられる。超人的な脚力でクリムガンが跳躍する。
クリムガンのパワーならば二人程度を抱えるのはわけがないだろう。ただし、速度の面での難はあった。
モロバレルは、と窺ったヨハネの視界には硬直する相手の姿があった。どうやら向こうも速度の面では得意ではないようだ。
ヨハネはホロキャスターを繋ぐ。
「……ユリーカさん! マチエールさんが! このままじゃ……!」
平時の落ち着きを失ったヨハネの声にユリーカは出るなりこう言った。
『落ち着け、ヨハネ君。……今しがた、思い至っていたところだ。今回の相手の動き、もしやとは思ったが、エスプリの排除を第一に掲げているな』
ユリーカも予感はしていたのか。ヨハネはうろたえた声を吹き込む。
「どうしましょう……。マチエールさんをすぐに病院に……」
『手遅れになる。ヨハネ君、そのままハンサムハウスへ。蘇生措置を行う』
しかし医者などどこにいるのだ。ヨハネの疑問にユリーカは捕捉する。
『……頼りになるかは分からないが、ポケモンのエキスパートがいる』
オーキドならばタマゲタケの毒の解除方法を分かっているのかもしれない。ヨハネは一縷の望みにすがる他なかった。
クリムガンが路面を踏み締めてハンサムハウスへと向かう。その際、ヨハネはいくつかの指示を受けた。
Eスーツを着せて生命維持装置を全開にする事。もう一つは、出来るだけマチエールの手を握ってやる事だった。
マチエールへと呼びかけるが、呼吸音ばかりで返答がない。
このままでは、と懸念したところで肩に飛びかかっていた〈もこお〉が思念を放出した。
〈もこお〉のパワーだろうか。粘菌が少しだが剥がれる。
「ありがとう、〈もこお〉」
でも、お前の主人は、とヨハネは息を詰まらせる。
ヨハネの素人目でも分かる。このままでは手遅れになると。
ハンサムハウスに着くなり、オーキドがマチエールの脈をはかった。このままでは、とルイがサポートする。
Eスーツの生命維持装置を補助し、タマゲタケの毒を排除する措置が行われた。
その間、ユリーカも立ち入り禁止であった。
一階で待つ二人はお互いに沈黙を持て余すしかない。
「すいません……、僕が、思い至れば……」
今さらの後悔の言葉にユリーカは責め立てなかった。
「私の読み不足でもあった。こちらにオーキド博士の身柄があるという事は、もう敵の目的が変っていると見るべきだったのに」
二人して後悔しか口をついてでない。ヨハネは尋ねていた。
「Eスーツの生命維持装置は、有効なんですか?」
「通常の怪我ならば、な。重傷を負っても、ある程度は再生出来る。ただし、今回は身体の内部を食い破る敵だ。打ち勝てるかどうかは運任せ、だな……」
ユリーカでも神に祈る事はあるのか、彼女は両手を握り締めていた。
ヨハネも神に祈っていた。ここまで戦ってきた彼女がこんな場所で朽ちるはずがない。きっとエスプリは戻ってくる。
そう信じていたが、二階から降りてきたオーキドの顔には憔悴と、何とも言えぬ無力感が漂っていた。
「……来なさい」
その言葉に従ってヨハネとユリーカは二階に上がる。診察台に上げられたマチエールは胸の前で両腕を組んだ形にされていた。
まさか、とヨハネは目を見開く。
「午後二時、三十四分。死亡が確認された」
オーキドの無慈悲な宣言にヨハネは掴みかかろうとしたが、その前にユリーカがその場に膝を折った。
慟哭が部屋を埋め尽くす。
聞いた事のないほどの声に、ヨハネは怒りさえも湧かなかった。ただただ、無力である事の苦々しさだけがこみ上げる。
「本当に……、本当に、もうどうしようもないんですか」
再三の確認だ。しかし、オーキドは決定を覆さなかった。
「マチエールは、死んだ。ワシにもどうにもならなかった。粘菌は肺を侵し、呼吸器を完全に圧迫していた。神経系統にも根を張った粘菌を取り除くのはさすがに設備が揃っていても不可能で……」
「そんな事を、聞くために僕は言ったんじゃない! 何で助けられなかったんだって言っているんだ!」
オーキドを責めるのはお門違いだ。分かっている。
分かっていても、自分はそのような愚かさしか、今は見せられなかった。
オーキドは面を伏せて頭を振った。
「……申し訳ない」
ユリーカがルイへと目線を振り向ける。
「ルイ……本当に何も出来ないのか。本当に、私達じゃどうしようもないのか?」
『残念です。マスター』
その一言に全てが集約されていた。ああ、とユリーカがさめざめと泣く。このような姿を見せた事のない彼女であったが、今は恥も外聞も関係がないようだった。
強さを保っていられるほど、自分達は強固ではなかった。
マチエールという柱を失った自分達は容易く瓦解した。
今日、街の守り手が死んだのだ。そのような悲劇だというのに、街は涙を流しもしなかった。
憎々しいほどの晴天が広がっているのが、街の裏切り行為に見えてしまう。
こんなになるまで街に尽くしたマチエールは、ミアレに別れを告げる間もなく、彼岸へと旅立ってしまった。