EPISODE76 奪還
成長すれば人間以上の存在になっていただろう。だが、四十年前にはそれが出来なかった。
「ミュウツーを、暴いたのか……」
その声音には明らかに他人事ではないものが混じっていた。シトロンは手を開く。
「ミュウツーは元々暴かれていたんですよ。ミュウという存在を基点とした、世界初の、無機物ではないという事を加味すれば人造ポケモンです。それがポリゴンより先に実現されていたなんて誰が思うでしょう? 人造ポケモン、ミュウツーは四十年もの間、秘匿され、誰の手にもなかった。しかし、我々は再現する術を研究し、探求し、遂に手に入れました。ミュウツーはボタン一つで精製出来ますよ」
もっとも、これは然るべき手順を踏んで、の意であったが、オーキドにはその言葉だけでも充分な衝撃となっただろう。
「ミュウツーが、お主らの手にあるのか……」
この老人はミュウツーと特別に密接な関係にあった。マサキの文書からも明らかだが、シトロンはあくまでも、本人の口から聞きたかった。
ミュウツーがどれほどに強いのか。そして、それを四十年もの昔に成立させていた技術も。
「この世には、語られない歴史があります。一面では天才であったのに、マッドサイエンティストであったがゆえに、何一つ栄誉などなかった血族が」
オーキドにはその言葉の帰結する先が見えているのか、多量に汗を掻いていた。
「ワシの事を言っているのか?」
「いいえ、あなたじゃない。あなたの、もっと言えば考え方のオリジナルを作った人物ですよ。語られない天才。いるはずなんです。ミュウツーを造り出した偉人が。しかし、彼の名前は表には一切出てこない。その代わり、ホウエンの、王の血族にはその名前が一瞬だけ出てきます。我々も捜査には難航しましたが、彼が存在する証明はありました」
「彼、とは」
もう分かっているのにこの老人はあえて誤魔化すのだろう。シトロンは手に入れた情報を口にしてやった。
「ドクトルフジ。フジ博士、と呼ばれている人間です。彼の事は、マサキ文書でも残片的に語られるのみですが、そのマサキがこう記しています。稀代の天才であり、なおかつ最初の業を背負った人間であると」
オーキドの顔は蒼白になっていた。フジ博士、という名前だけで既に衝撃を受けているようだ。
「証拠など……」
「証拠はありません。彼がいた証明は、歴史の上に塗り重ねられてしまった。もう、どこにもないんです。ホウエンの王の血筋に、一瞬だけ登場するのみ。その血筋さえ、少しばかり怪しい。ですが、ぼくは確信しています。彼は存在した。フジ博士は確かに、ミュウツーを完成せしめた! ですが、ミュウツーを当時の技術だけで運用するのは不可能なんです。ミュウツー単体で外気に触れようものならば、たちどころに腐敗する。それほどまでに、繊細な遺伝子でした。今の技術でもその問題点はありましたが、クリアする事は可能です。ですが、四十年前、そんな昔に、どうやってミュウツーを運用したのか。ぼくにはそれが、最重要課題に思われました。埋もれたグレンの地に、それを解き明かす術はなく、ぼくはラボにこもり、その答えを見つけ出すために、幾つかの試作品を製造しました。Eアームズ、とぼくらが呼んでいるのがその結晶です。イクスパンションアームズは本来、ミュウツーの安定稼動を実現するための技術だった。いつしかそれが、ポケモンの拡張という二次的な目的に集約されたのは少しばかり皮肉ですが……。ぼくはもう一つ、あるものを造った。それが纏うタイプのEアームズ。イクスパンションスーツと呼んでいるものは、本来、ミュウツーが着る事を前提として設計した、強化外骨格だったのです。ですが、ポケモンでの運用は難しく、ぼくはまず人間での実戦を経てから、ミュウツーへと適応実験を行うべきだと判断した。つまり、エスプリと名乗るあの連中は、ぼくの実験にとても協力的な人物だと思っているんですよ。エスプリが強化され、戦えば戦うほどにデータが出揃う。ぼくの前では敵さえも、ある種では恩恵をもたらしてくれる」
「悪党め」
吐き捨てたオーキドにシトロンは言いやった。
「あなただって、随分と悪だ。何も知らないトレーナーの少年達を利用した」
それ以上の言葉を呑み込んだオーキドにシトロンは提言する。
「ねぇ、博士。ぼくとあなたで揃えましょうよ。最強の駒を。あなたはただ、育てればいいだけ。ミュウツーの育成を一任します。一度使ったのだから、簡単でしょう? ぼくはあなたの育てたミュウツーを使いやすくする」
「使いやすくだと」
「Eスーツはそのための技術です。Eアームズも、トレーナーとポケモンの垣根を分かりやすく解くために必要なもの。Eアームズ技術は熟成の域にある。そろそろ適合したいんですよ。最高のサンプルに」
「狂信者じゃな。お主、何を信じている? マサキの文書を鵜呑みにし、それだけではなく、何かを信奉していなければ出来ない、根回し。一体、何が、お主を衝き動かす?」
「ぼくは、純粋な研究心だけ。科学が道を切り拓く瞬間を見たいだけなんです。ただ、それだけのために、悪魔になれる、それが研究者じゃないですか?」
シトロンの言葉にオーキドは項垂れた。ようやく折れてくれるか、とシトロンが感じた、その時である。
突然に照明が落ちた。暗がりの中、このラボへの扉を塞いでいた数人のSPが薙ぎ倒される音が連鎖する。
「ルイ! 状況を!」
張り上げた声にルイがシステムを回復させる前に、蒼い炎のような光が迸った。
目の前の人間から滾っているそれはまるで血潮。
全身の間接部から流入している。
「何者だ……?」
シトロンでも分からない。自分の管轄下にこのようなEスーツの保持者はいないはずだ。
「名乗るほどのものじゃないが、あえて言うのなら、イグニス、と。お前達を地獄に落す人間の名前だ」
シトロンは手を払う。それに呼応して頭上展開していた影が浮遊した。木をくりぬいて仮面を作ったかのような形状のポケモンである。
ゴースト・草タイプのポケモン、ボクレー。ボクレーがイグニスに取りつこうとするのを制したのは跳躍した鳥ポケモンであった。筋肉を膨れ上がらせて一射されたキックがボクレーを捉えようとする。
しかし、その蹴りはすり抜けた。
「ボクレーはゴーストだ! その呪いを受けるといい!」
ボクレーが刻印を刻み、跳躍してきた相手ポケモンに呪いを叩き込もうとしたが、その前に後ずさった。
――速いな、とシトロンは判ずる。
この至近距離では、イグニスなるEスーツ使いと鳥ポケモン――ルチャブルを制する術はない。
「言っておくが、アタシ、あんたがどこまで偉いのかとか、そんなの知らないけれどさ。奪還対象の護衛は全員、黙らせるように言われている」
「奪還対象? ぼくから博士を奪うというのか?」
「案外、出来そうだけれど? 今のあんた、丸腰に近い」
舌打ちしたのはまさしくその通りであったからだ。今の装備はボクレーとルイによる連携のみ。ボクレーのEアームズ効果を使用するのにはトレーナーがいない。
「間が悪い、とでも言うのかな。イグニス、だったか。ぼくの知らないEスーツの持ち主……さしずめクセロシキが準備していたか? ぼくの頭脳を止めるのには、純粋にEスーツを造って阻止したほうが早いからね」
「繰り言はそこまでだね」
ローラーシューズに見立てた脚部武装は刃の様相を呈している。シトロンがボクレーに命じた。
「シャドーボールだ!」
今のトレーナーは自分しかいない。だが、自分にはポケモンを操る才覚はないに等しい。
黒の球体を練り上げたボクレーにイグニスが脚部に何かを埋め込んだ。
『コンプリート。スティールユニゾン』の音声に瞠目する。鋼のユニゾンなど今まで観測した事がない。
「……本当に、何なのかな、キミは」
「申し訳程度の名乗りしかしなくって悪いが、オーキド博士、奪わせてもらう!」
鋼の刃がボクレーの頭部を掻っ切った。後ずさったボクレーとシトロンの間に生じた隙を突き、イグニスがオーキド博士を抱きかかえて後退する。
あまりの素早さに反応が追いつかなかった。
ルチャブルが羽音を立てて飛翔する。
それがこちらの攻撃をけん制するためであるのは理解出来るものの、トレーナーとしての熟練度が低い自分にはボクレーに複雑な命令を出せない。
オーキド博士はイグニスに抱えられ、目を丸くしていた。
「お主は……」
「話は後で。貰い受けた」
「ボクレー!」
黒い球体を練り上げてイグニスの背後を狙ったがやはり外れていってしまう。
シトロンは一瞬の出来事に歯噛みした。
「ぼくの知らない、新たなEスーツ……。クセロシキ、何を考えている? いや、そもそもあれは、クセロシキの一手なのか?」
オーキドを奪う意味。そう考えるとクセロシキが自分の意図を分かっていて防いだとは思えない。ミュウツー製造はやがて大プロジェクトへと発展する。クセロシキが恩恵を受けないものではないのだ。
『自分一人のものじゃないから気に食わないとかじゃないのか?』
ルイの意見に、いや、とシトロンは分析する。
「それほど向こう見ずじゃないだろう。クセロシキだって立派な科学者だよ。それに、ぼくにEアームズに尽力しろと言ったのは彼だ。今さら方針を曲げるはずがない」
『でも、あのEスーツの所在は』
「問い質さなければならないのは確かだが、クセロシキのコントロール下にあるかと言えば疑問だね」
起き上がったSPが今さらに状況判断を仰いでくる。
「プロフェッサーC! 奴は……!」
「もう役目は終わったよ。いいさ、泳がせておく。ぼくは、トレーナーとしては弱いが侮るなよ」
ボクレーへと視線を流す。ボクレーの短い指先には紫色の呪印が浮かび上がっていた。
先ほどの戦闘、呪いを刻み込む事しか考えつかなかった。それほどまでにイグニスとルチャブルは洗練された強さを誇る。
「でも、呪いの影響下の中、どこまで逃げ切れるかな?」
シトロンは口角を吊り上げていた。
おかしい。
イグニスはさほど離れていない地点でそう感じる。自分の体力が明らかに削られている。先の戦闘において、ボクレーなど敵ではなかった。格闘タイプには不利な相手であったが、逃げ切るのに何ら不備はない。
そのはずなのに……。
「ちょっと……、休憩……」
息を切らしてイグニスは膝を落とした。
体力の減り方が異常だ。それに加えて疼痛が体内で発生している。どこが、という明確な痛みではないが、蓄積すればまずい方向に転がっていた。
「アタシの、身体の中……」
胸元を押さえてルチャブルに指示を出す。オーキドは縛られていたわけでもない。拘束具もなしに、あの研究者と話していたようだった。
「お主……、攻撃を受けたようじゃな」
オーキドの判断にイグニスは仮面の下で奥歯を噛み締める。
「攻撃……? いつ?」
「あのボクレー、最初から応戦など狙っておらんかった。お主につけられたのは呪いのマーキング。ゴーストタイプの呪いは自らの体力を減らす代わりに断続的に相手へとダメージを与える。このままでは死ぬ」
オーキドの声音には切迫したものがあったが、イグニスはそれを制して立ち上がる。
「せっかくだけれど、保護対象に心配されるほど落ちぶれちゃいない」
「何故、ワシを助け出そうと、否、奪おうとした?」
「とある筋の依頼でね。アタシは悪役として、オーキド博士、あんたを奪取しようとしたんだが、その前に誰かが目的の場所から運び出していた。お陰で二度手間だったよ。博士、何であんな場所にいた?」
「ワシは……多くは語れんが、連中に連れら去れたんじゃよ。まだ連中の名前すら分からんが、このカロスに根付く、組織であるのは間違いない」
オーキドはフレア団を知らないのか。知らずして、彼らに連れ去られていた。
妙だ、とイグニスは思う。フレア団の正体に肉迫したから、この老人はカロスに滞在していたわけではないのか。
「意外……、あんた、何も知らないでカロスに?」
「カロスに滞在したのは、研究筋の学会があったからの。それに顔を出せと言われておった。ただ、その学会そのものがダミーだったようじゃが」
最初からオーキドを誘き出すためにフレア団の張った罠。その罠の中、オーキドは何も知らずに消されるはずであった。
あるいは、消すのではなく最初から連れ去るのが目的であったか。
誰の目論見かは知らないが、オーキドを基点として回っていたのは間違いない。
「ともかくさ……、出来るだけ遠くに行かないと。この、呪いってのは、解けないの?」
「残念ながら、あのボクレーを倒す以外に解く方法はないの」
イグニスは舌打ちする。ボクレーと一緒にいたあの研究者。彼をもう一度見つけ出すしかないのか。
「〈チャコ〉、博士を連れてユリーカ達の下へ。そうしないと、アタシの立つ瀬がない」
「お主はどうする気じゃ?」
「アタシは、こいつらを食い止める」
放った蹴りの先にはこちらを追うために駆り出されたゴローンの群れがあった。Eアームズをつけていないものの、一体ずつを相手取るのは時間がかかる。
「待て。お主、呪いを受けた状態で勝つなど」
「それくらいはしないと、アタシの目的には遠く及ばない。じィちゃんを殺した奴を暴き出すのには、まだ全然駄目なんだ……!」
両腕のブレードを展開する。両手首にチップを埋め込んで音声が発せられた。
『コンプリート。スティールユニゾン』に腕を払う。鋼鉄の刃がキィンと空気を震わせた。
ゴローンが一斉に飛びかかってくる。イグニスはルチャブルに命じていた。
「走れ! 立ち止まらずに、ユリーカ達の下へ!」
オーキドを抱えたルチャブルが飛翔する。イグニスは鋼の属性を帯びた剣でゴローンを薙ぎ払った。
それでもゴローンはしつこくこちらを捉えようとして離さない。
「逃げ切るくらいの時間は稼がせてもらう。ユニゾンチップ!」
バックルに二つのユニゾンを混合して装着し、ハンドルを引いた。
『スティールユニゾン、フライングユニゾン、エレメントトラッシュ』
背面の翼が展開し、飛翔したイグニスは中空でバック宙を決めた。渾身の踵落としがゴローン達へと突き刺さる。
衝撃波で路面が捲れ上がった。粉塵の舞う中、その技を口にする。
「必殺、ローリング踵落とし!」
岩をも砕く一撃にゴローンの群れが臆したのが伝わってくる。これで退いてくれるか、と期待したのも束の間、一気に虚脱感が襲いかかってきた。
呪いの影響だろう。全身を焼かれるような痛みにイグニスは苦悶する。
それを好機と見たのかゴローンが転がって肉迫し、その腕でイグニスを突き飛ばした。Eスーツ越しに衝撃が伝わる。
突き飛ばされた先には既にゴローンが待ち構えており、丸くなったゴローンが全身をボールのように跳ね上がらせた。
蹴鞠の如く跳ねたゴローンの一撃が食い込み、Eスーツを貫く痛みが生じる。
「丸くなる」からの「ころがる」コンボ。平時ならば痛くも痒くもない攻撃であったが、今のイグニスには致命的であった。
しかもゴローン集団が意思を持って、それぞれ突き飛ばした位置に攻撃出来るように構えている。
このままでは無間地獄だ。
イグニスは手首のエレメントチップを全開にする。声と共に薙ぎ払った一閃がゴローンを引き裂いた。
しかしそれは薄皮のみ。攻撃によって弾かれたゴローンはまるでパチンコ玉のように位相を変えて別の位置から攻撃を加えてこようとする。
イグニスは腕のブレードで打ち合ったが後退してしまった。
その背後を別のゴローンが打ち据える。
包囲網から逃げ切る隙はない。フライングユニゾンで飛翔し、ただ闇雲に逃げても呪いの効果で場所は勘付かれる。
ここで最もしてはならない愚策は、ユリーカ達の下へと帰る事。
自分は自分の決着をつけて、連中を撒かなければならない。
「……まったく、損な役回りだよ」
ぼやいて、イグニスが両腕を払った。ゴローン達が身構える。
「いつでも来い。アタシは、こんなところでは倒れない。お前らに絶対復讐する」
ゴローンが飛びかかろうとする。イグニスは吼えて立ち向かうための刃を振るい上げた。
その瞬間、業火が噴き上がる。
瞬時に巻き起こった炎熱にイグニスは言葉をなくしていた。ゴローン達が焼け焦げて戦闘不能になる。その攻撃を放った主に、イグニスは振り返った。
「私のサポートが必要かしら?」
仮面を被った女であった。黒い服飾に、白い長髪をなびかせている。
その姿にイグニスは息を呑む。
「何で、あんたがここに……」
「自分の放った狗が危機となれば、飼い主がやってくるのは当然でしょう?」
彼女の言葉にイグニスはその場に膝を折った。バイザーを上げると汗をびっしょりと掻いている。
デュアルアイセンサーのついたマスクを外してようやくイグニス――コルニは一呼吸ついた。
「酷い顔ね。あなた、死ぬ気だったの?」
「……そんなつもりはない」
「それにしては、随分と自爆覚悟だったように見えたけれど」
コルニはEスーツを着たまま相手と対峙する。
「ファウスト……。あんた、アタシが死んでも何とも思わないのだと感じていた」
女の名前を口にする。ファウスト――悪魔の名前を紡がれた女は口元をそっと綻ばせた。
「狗に死なれて困るのは飼い主として当然よ。それとも、こんなところで死ぬのが本懐だとでも? 随分とぬるくなったものね。私が見出したのは、復讐の悪鬼であったあのコルニであったはずなんだけれど」
言い返したいが、コルニには体力の限界が近づいていた。
「呪い、による断続的ダメージ、ね。今は、どうしようもないわ」
歩み寄ったファウストがすっと指を突き出し、コルニの額を突いた。
「眠りなさい」
その一声で、コルニの意識は闇に落ちた。