EPISODE61 半分
ホロンの研究棟、と呼ばれた人工島があった。
最早、人々の記憶にはそれだけで、それ以上の文句を聞き出そうとしても不可能であろう。情報として失われたものだ。
波が白く砕けて岩壁に打ち付ける。研究棟があった場所は焼け野原であった。
あの日、ナパーム弾が投げ込まれ、ホロンの研究棟は壊滅した。情報としてはそれだけの価値しかない。
しかし、あの日生まれたのだ。
エスプリという存在。そして、二人の探偵が。
だが、死した命もある。
花束を、マチエールは携えていた。そっと献花すると背後に気配を感じ取る。
「風に当たりにしたにしては、随分と遠くまで来たんだな」
相棒の繰り文句にマチエールはぶっきらぼうに応じる。
「ちょっと、懐かしくなってしまった」
懐かしくなるほどの時が流れた。一年半経つかどうかだが、時間が解決してくれるのは本当だ。
時間はどうしようもなかった事を洗い流してくれる。
その時は、本当に一寸先さえも見えなかった。だが今は、進むべき道が見える。
「おやっさん。ゴメン……あたし、教えを守れなかった」
ハンサムの姿をしただけの輩に操られた。どれほど恥じても拭えない。
「教えを守れなかったのは、私も同じだ」
ユリーカが自分の隣に歩み出る。未だに彼女から最期のハンサムの言葉を聞いていない。
聞くと脆く崩れてしまいそうで、今でも怖い。
「ヨハネ君は心配性だな。私達が空中分解すると思っているらしい。ホロキャスターに不在着信が二十件だ。笑うだろ? 二十件だぞ」
いつもならば笑えるのだが、ハンサムの死んだ場所を前にして素直に笑う事さえも出来ない。
「そっか……」
「マチエール。後悔しているのか。私と来た事を。あの日、出会わなければよかったのだと」
出会わなければ悲劇は起きなかったかもしれない。出会わなければ、何も知らずに、ハンサムも傍にいたまま、平穏な日々を送れたかもしれない。
しかし、それは虚像だ。
見ない振りをしていただけで、ミアレの街は泣いていた。一人で直視するようになってようやく分かった。ハンサムの理念を。
街を泣かせる奴を許さないその確固たる信念を。
「マチエール。私はな、あの日出会った事に、後悔なんてしていない。何よりも、私は地獄から助かられた側だ。だからこそ、もう一度聞く。マチエール。悪魔になれるか? その覚悟はあるのか?」
全てを振り切って悪魔として、鉄槌を下す事が出来るのか。
懐にあるバックルが、全てを物語っていた。
「あたしは、戦う」
「それが聞けただけでもよかった。私達には、もう退路はない」
身を翻す。
もう一度だけ、甘えさせて欲しくてこの場所を訪れたつもりだった。
しかし、本当の意味は違ったのだ。
離別のために、自分はここに訪れた。
もう二度と、ハンサムの温情に甘えまい。自分の道を行くのは、自分自身なのだから。
「行こう。ミアレの街へ」
――もう、泣かせない。
ルイから得た情報を頼りに、ヨハネはミアレの街を彷徨っていた。
そうするうちに日が暮れて、街はすっかり夜の帳に落ちる。そんな自分に接近してくる影があった。
霧が深くなっていく。濃霧の中、一人の男の影が屹立した。
「たった一人で来るとは。殊勝な事じゃないか、エスプリの部下は」
「僕は部下じゃない。助手だ」
ルイから得た情報は大きく二つ。
相手はミアレの街に神出鬼没に現れるが、大抵は一人の時の接触。
そしてもう一つが、目の前の光景であった。
すがるように人々が泣き喚き、男の後に続いている。
「助けてぇ。あの日を返して」
「お父さん! もう一度、帰ってきてぇ」
奴は連れ歩くのだ。亡者の影を。
人々は生きていながらに死者の幻影に振り回されている。彼らのうち一人でも枝をつけられれば自ずと出会えるだろうと手はずを整えていた。
「わたしは、彼らにとっては愛すべき存在だ。それを奪うというのか?」
「死者の姿を取り、人心を惑わす。それがどれほどまでに罪深いのか、僕が教える。どんなに寂しくたって、絶対に、もうすがらないと決めた人々の心を弄ぶのだけは、あってはならないんだ!」
「そうか。だが、ならばどうするかね。ヨハネ・シュラウド」
どうして自分の名を。うろたえたヨハネに相手は声を投げる。
「お前の事は聞いていたよ。お前も、こちら側のはずだ。どうして、エスプリと一緒になって正義を気取っている? ヨハネ、お前はこっちの人間だ。それは最初に眼を見た時から分かっていた」
「僕は違う。お前らみたいな、人の心を平気で踏みにじるような奴らとは」
「では正義かね? お前の存在が正義だと」
嘲笑う相手にヨハネは声に棘を含ませた。
「口の利き方に気をつけろよ。僕は、お前達を絶対に許さないんだからな」
「それこそ、正義の味方の最たるものだ。だが、ヨハネ・シュラウド。あのお方が見出しただけはある。お前は、悪のともがらだよ」
「違う! 僕はエスプリと共に……」
「そういう物言いじゃない。どっちの側につくとかではなく、お前は純粋悪だ。元々、正義と悪などカードの表裏だが、話していると分かる。お前は、自分の正義のためには相手の主張も、存在も、何もかもを否定してしまいたい、という衝動がある。何もかもを否定し、何もかもを踏みにじり、その上で、自分が正義だと声高に主張したい。エゴだ。そのエゴを隠しもしない。これを悪だと言わずして何と言う?」
「僕は、違う! お前らなんかと一緒にするな!」
呻くが相手は声の調子を少しも変えないで否定する。
「違わないさ。相手を潰し、壊し、何もかもを徹底的になかった事にする。それに快感を覚えているだろう? お前はそうだ。そういう人間なんだ。正しくない事を正しくないと言う。間違っているではない。正しくない、という論調。それこそが、悪の入り口だ。お前は悪の扉を叩こうとしているんだよ」
「僕は! 違う!」
ホルスターからモンスターボールを引き抜く。その瞬間、空間の一点に紫色の刃が生じた。
ヨハネの足元が切り裂かれよろめいた時には拳が大写しになっていた。
「馬鹿力」
発せられた声にヨハネは鳩尾への衝撃を感じる。その時には吹き飛んでいた。肺が潰れたかのような激痛が走る中、何度も咳き込んだ。
「殺しはしない。だってお前は何よりも、悪だからだ。それを理解しないまま死ぬのは不幸だろう?」
「僕は……正義を」
「所詮、お前の言う正義などままごとの産物だよ、ヨハネ・シュラウド。あのお方が、見込んだほどの悪だ。このまま出来るだけ穏便に運びたいところだが」
歩み寄ってきたその靴にヨハネは唾を吐きつけた。
「反吐が出る」
「そう、か」
何かが霧の中から出現し、拳を振るい上げた。
「――させない!」
その存在に蹴りを放ったのはマチエールだった。どうして、と目を見張るヨハネにマチエールは言い放つ。
「一人で先走るなって! イイヅカさんに聞いたら出たって言うから心配しちゃったよ!」
マチエールの言葉にヨハネは虚をつかれた気分だった。自分が心配していた相手に逆に心配されている。
「まったくだ。ヨハネ君、独断専行が過ぎるよ」
ユリーカもこの場へと訪れていた。ヨハネはおどおどしつつ、言葉にする。
「ふ、二人とも……大丈夫だったの?」
「何が?」
「私達のやる事に変わりはない」
歩み出たユリーカとマチエールが並び立つ。それぞれに覚悟の双眸を携えた英雄が、敵を見据えた。
「半分だけ力を貸せよ、相棒」
「半分? 私のほうが随分と労力を割いているが」