ANNIHILATOR - 幻想篇
EPISODE54 殺意

「まぁ、いいけれど」

 ヨハネは快く了承する。喜び合う彼らを他所にユリーカへの言い訳を考えていた。ハンサムハウスまでの帰路の途中、リーゼントはいくつか質問した。

「マチエールの姉御は、その、やっぱり外国語の教師とか、やってんのかな?」

「へっ? 何で?」

「だって姉御はすげぇんですぜ? 何ヶ国語出来るのかな、オヤジに見出される前からミアレの雑多な会話を聞き分けるいい耳を持っていた。だから、今頃センコーにでもなっているんじゃないかって、オレは思ったんだよ」

 教師どころかこの間生徒として紛れ込んできた、とは言えずヨハネは曖昧に微笑む。

「そうなんだ。マチエールさん、そんなに頭がよかったのか」

 文字も書けない様子であったし、ユリーカがいつも馬鹿にしているので自然と頭はよくないのだと思い込んでいた。

「当たり前だぜ。マチエールの姉御はミアレギャングのリーダーに上り詰めたんだからな。腕っ節だけじゃねぇ、教養もあるんでさぁ」

 リーゼントから聞くマチエールの姿はまさしく栄光そのもののようであった。彼らの誇りが形になったのがマチエールという少女のような言い草だ。ヨハネは半分、困惑していた。

 マチエールは確かにすごい。自分の予想の遥か上を飛ぶ存在だ。しかし、彼らの語るマチエールの像は、どこか現実離れしている。否、自分が現実離れした彼女を知っているから、余計にその差が浮き立って思える。

「アニキ、ここですかい?」

「ああ、うん。ユリーカさんには……」

 言わないでおこうと決めた。ヨハネが招くとリーゼントを含めた三人がハンサムハウスに駆け出していった。

「そんな慌てなくっても」

「いや、ハンサムのオヤジがいるのかな、と思うとつい……」

 リーゼントの声音にヨハネが嘆息をつくと一人が声にした。

「これ、ハンサムのオヤジが着ていたコートじゃないのか?」

 掛けられているコートを目にして一人が目を見開き後ずさりする。それほどまでにハンサムという人間は驚異的だったのだろうか。

「コートは、ずっと大切にしてあるみたいで」

 ヨハネが手にして懐をひらりと持ち上げる。その時、何かが懐より滑り出た。拾うとそれは写真である。

「これは……」

「あっ、ハンサムのオヤジと、姉御の写真じゃないですか」

 ――これが、ハンサムという男。ヨハネはじっと見つめていた。精悍な顔つきの紳士で、僅かに微笑んでいる。隣にいるマチエールは今よりもずっと感情に乏しい瞳を向けていた。

「マチエールさん、この時は随分……」

 濁した先をリーゼントが汲んで応じる。

「随分とキレていたでしょう? この時の姉御の切れ味は忘れられませんよ」

 代わりに答えられてヨハネは曖昧に笑む。切れていた、というよりもまるで触れるもの全てを傷つける存在だ。鋭い双眸が射る光を灯している。

「弓矢みたいに一直線に強くって、本当に憧れでしたよ。オレら全員、マチエールの姉御の背中についていくって決めたんだから」

 他の二人も首肯する。ヨハネはそれほどまでのカリスマを擁していた頃のマチエールの写真を裏返した。

「去年の、明後日……」

 日付はそうなっている。去年、何が起こったのか。それを紐解こうとしたが、リーゼント達が騒ぎ立てる。

「おっ、こっちには懐かしのハンサムのオヤジの使っていたものが」

「あっ、君ら、あんまり騒ぐと――」

「騒ぐと、何だ?」

 不意に発せられた声と共に、ヨハネをすり抜けていったのはルイである。青白いルイが両手を垂れ下がらせて眼を虚ろにする。

『うらめしやー』

「でっ、出たー! お化け!」

 リーゼント達が恐怖に顔を引きつらせて部屋の隅に取って返す。ヨハネはルイをいさめた。

「脅かしてあげないでくださいよ」

『えへへ……、ちょっと悪ノリしちゃった』

 ルイと対等に話すヨハネにリーゼントが声を振り向ける。

「お、お化けと話せるんで?」

「悪いがお化けじゃない。ヨハネ君、何だ? この程度の低そうな連中は」

 二階から降りてきたユリーカが威圧的な眼差しを向ける。ヨハネはどこから説明するべきか迷ったが、簡潔に答える事にした。

「マチエールさんの知り合いみたいで」

「マチエールの? アイツめ、いてもいなくても余計な事ばかり持ち込んでくる。お前ら、さっさと帰れ。でなければ……」

 ルイが浮遊して三人へと突っ込もうとする。三人は悲鳴を上げてハンサムハウスから逃げ出してしまった。

「何だか、悪い事をした気分だな……」

「それは、向こうも、だろう。ヨハネ君、気づかないか?」

 ユリーカが振り向けた視線の先には戸棚があった。開いており、中身が物色された痕がある。

「これ……、ユリーカさん」

「泥棒を家に招くな、と言っているんだ」

 にべもない。ヨハネは深く反省した。

「……でも、泥棒なんてしそうに見えなかったけれどな」

「見える泥棒なんていまい。問題なのは、一応はEスーツの管理だってしているんだ。そんな場所に人を招くほうだと思うがね」

 ヨハネは返す言葉もなかった。確かに自分は迂闊であった。しかし、悪いだけの人々だろうか。それには疑問が残る。

「その、本当に悪い事だけをするのなら、もっとスマートなやり口があったんだと思うんです。だから、彼らはそれだけのために、マチエールさんの知り合いを名乗ったわけじゃないのだと思う」

「実際にマチエールの知り合いだとしても、私は受け付けないがね。アイツの古い知り合いなんてろくな人間がいない」

 決め付けてかかるユリーカにヨハネはたった今、手にした写真に視線を落とす。去年の明後日、何が起こったのだ。

 間違いないのはこのハンサムなる御仁は死に、ユリーカがこの場所に来たという事。

 聞くべきか、と感じたが深く踏み入る術を知らない。不用意な言葉で自滅するのは避けたかった。

「そういえばヨハネ君、マチエールがどこに行ったのか知らないか? アイツ、まだ帰ってこないみたいだ」

 何だかんだでユリーカも心配らしい。ヨハネは提案する。

「探してきましょうか?」

「任せる、と言いたいところだが、さっきの連中ともうつるむな。それが条件だ」

 睨まれてヨハネは言葉をなくす。マチエールの古い友人達だ。別にいいではないか。それが顔に出ていたのか、ユリーカは眉根を寄せて再三口にする。

「いいか? あの連中とつるんではいけないし、余計な情報なんて与えるなよ。エスプリに関する事はもちろん、私やキミの事も、だ。何も言うな」

 何も言うなと言うのは無理な話だ。向こうも自分の知らないマチエールを知っている。

「その……ユリーカさん、あの連中の事を知って……」

「いいか? 何も聞かなくっていいし何も言わなくっていい」

 言い含められ、ヨハネは仕方なく首肯する。

 ハンサムハウスを出たところでリーゼント達が待ち構えていた。どこか所在なさげな視線を交わし合う。

「あの……アニキ、あの女の子は……」

「その……色々あって、ハンサムさんの代理人、って言えばいいのかな。今のハンサムハウスの所長なんだ。だから、彼女の言う事は絶対で、その……」

「分かっていますよ。オレらと関わるな、ってんでしょう?」

 察するところが早いリーゼントは寂しそうに呟いた。

「でしょうね。オレ、多分取り返しのつかない事、しちまいましたから」

 踵を返そうとするリーゼントをヨハネは咄嗟に止めていた。驚愕の眼差しを振り向けたリーゼントにヨハネは口にする。

「待ってくれ。何だか、僕の勝手な勘だけれど、君達を、何も言わずにここで行かせてはいけない気がする。分からないけれど」

「分からないのを信用するんですかい?」

 そう尋ねられれば、その通りだ。だが、ここで彼らを逃がしてしまえば、もうマチエールの事を知る機会はないように思われた。

「ユリーカさんの言っているのはハンサムハウスに通すなって話だけだし、僕は聞きたい。マチエールさんが、どういう人柄だったのか」

 どうして、街のためにあそこまで出来るのか。それを知らないままではいつまでも助手など務まらないだろう。

 リーゼントは前置く。

「でも、アニキの知っている姉御の話じゃないかも、ですよ。それでもいいんですか?」

「僕の知っているマチエールさんは、完璧で、どこか抜けてはいるけれど、それでも強くって高潔だ。だけれど、僕の知らないマチエールさんがいるのなら、それを知りたい。知って、進まなければ」

 その義務がある、という声音にリーゼントは息をついた。

「……いいでしょう。オレらの、姉御は」

 その時、不意に辺りを霧が覆った。濃い霧の中で一つの影が揺らめく。

「マチエールさん?」

 ヨハネが声を投げるとその隣に不意に影が発生する。

「おやおや、知り合いですか?」

 灰色のコートを身に纏った男であった。帽子を目深に被っており、顔は窺えない。

「何だてめぇ! 姉御に何しやがった!」

 挑発するリーゼント達にヨハネは思わずいさめる。

「ちょ、ちょっと! まだ何者かも分からないのに」

「ねぇ、おやっさん。こいつら、消せばいいの?」

 マチエールの声はぞっとするほど、冷たかった。今まで聞いた事のない声音に呆然としていると男が頷く。

 瞬間、掻き消えたマチエールの姿が大男二人の間に入っていた。

 奔った裏拳が双方の鼻っ面に命中する。鼻血を滴らせながら大男二人がよろめいた。

「何を! 姉御、何してるんですか!」

 リーゼントの声にマチエールは眉根を寄せる。

「……うるさいな。消すよ」

 一分の迷いもない、殺意。それが振り向けられた瞬間、リーゼントが硬直したのが伝わった。

 マチエールが駆け抜けようとする。ヨハネは咄嗟にリーゼントを庇って一緒に倒れ伏した。

 すぐ上をマチエールの蹴りが貫く。

 空間が震えるほどに強力な蹴りであった。何度も目にしている。Eアームズを相手取るのと変わらない力加減だ。

「何を……、マチエールさん、どうしたんだ!」

 ヨハネの呼びかけにもマチエールは舌打ちする。

「邪魔な……。消えなよ」

 蹴り飛ばされてヨハネは転がる。肺を圧迫された感覚に何度も咳き込んだ。

 リーゼントは腰が砕けたまま首を横に振る。マチエールが拳を固めてリーゼントへと迫っていた。

「い、嫌だ……姉御。やっぱり、知っていたのか? オレが、オレの斡旋したあのヤマが、ハンサムのオヤジを……」

「死ね」

 無慈悲な言葉が駆け抜ける貫手に伴ってリーゼントを狩ろうとする。ヨハネは咄嗟にモンスターボールに手をかけていた。

「行け! クリムガン!」

 繰り出されたクリムガンがマチエールの膂力を押し止める。クリムガンの眼差しと、マチエールの攻撃的な眼差しが交錯した。

 クリムガンのパワーならばマチエールを抑えられると判断しての行動だったが、マチエールはすっと後退してホルスターに手をかけた。

「行け、ヒトカゲ」

 繰り出されたのはマチエールの得意とするヒトカゲであった。炎ならば、とヨハネはクリムガンの守りを信じる。効果は今一つのはずだ。

 しかし、瞬間的に放たれた火炎放射の威力は、今までの比ではなかった。クリムガンでも減殺し切れない炎の瀑布にヨハネ共々転がる。

「なんて、威力……」

 スクールで披露した時とは違う。あの時は、本気を出していなかったのだ。ヒトカゲの火炎放射一回で、クリムガンは半分以上の体力を削り取られていた。

 鮫肌の皮膚が赤らんでいる。

 これほどまでの隔絶とは思いもしない。

「ヒトカゲ、接近戦、出来るよね?」

 尋ねられたヒトカゲがクリムガンの懐に入る。しかし、こちらとて接近はお手の物だった。

「ドラゴンクロー!」

「避けて回り込んで、相手の背筋に」

 龍の爪の一閃を、ヒトカゲは難なくかわし、その背面に回って片腕を振るい上げた。

「――逆鱗」

 発せられた声にヨハネは震撼する。ヒトカゲを中心軸に空気が逆巻き、内部骨格が青く輝いた。

 間違いなくドラゴンタイプの物理技「げきりん」の光である。確かに知識としてはヒトカゲも「げきりん」を覚えるのは知っていた。タマゴによる遺伝という特殊な形ではあるが、それは分かっていたのだ。

 ただし、発生した攻撃網の鋭さは、知識以上であった。

 渦巻いた空気をその拳が吸収し、鋭い一撃をクリムガンの背筋に叩き込む。

 クリムガンが思わず呻いたほどだ。あの重量装甲のクリムガンが身体の芯を震わせる激痛に喚く。

 まさか、とヨハネは感じていた。

 ヒトカゲなど、所詮はさほど大した脅威ではないと高を括っていた部分もある。だが、マチエールの育ては尋常なものではない。一撃を与えてその余波でヒトカゲが踊り上がり、クリムガンの真正面に入る。

 攻撃のチャンス、とヨハネが判じたその瞬間にヒトカゲのアッパーがクリムガンの顎に叩き込まれていた。

 矮躯でありながら、その速度はクリムガンに勝る。否、小さいからこそクリムガンより速く動けるのだ。

 不意打ち気味の攻撃にクリムガンの脳髄が揺さぶられ、ふらりと足取りが怪しくなる。さらに追い討ちをかけるように、ヒトカゲの尻尾の一撃が振るわれた。

 しなる炎の鞭はクリムガンの顔面を捉え、意識が混濁している様子が見受けられた。

 通常ならばここで戻すだろう。しかし、ヨハネはどうしても退けない。マチエールが敵意を剥き出しにしてくる理由が分からない。

「マチエールさん! 何で……! 昔の仲間なんでしょう?」

 自分にならいざ知らず、何故、昔の仲間を手にかけようとするのか。その質問にマチエールは僅かに視線を向けた。

「関係ない。だって、おやっさんが、命じるんだ。あたしに、やれって」

「おやっさん……。ハンサムさんが? どこに?」

 その段になってヨハネは気づく。顔を伏せたその男がもしや、と。

 ボールを手にして男に放り投げた。

「行け! ゴルバット!」

 割られたボールから飛び出したゴルバットが空気の散弾を叩きつける。それを防御したのは紫色の思念の壁であった。

 どこかにポケモンがいる。それがマチエールを操っているのだ。

「お前、何者なんだ……」

「何者、か」

 フッと口元を綻ばせた男がこちらに向き直る。

 その瞬間、ヨハネは硬直した。

 その顔には目鼻どころか、何もない。のっぺらぼうだ。

「何なんだ、お前は……」

 その言葉に相手は、おや、と不審げな声を出す。

「効かないのか。お前の執心している相手がいない、という事だな。なりきりは万能ではない、か」

「なりきり……。お前、マチエールさんを騙しているんだな。騙して、操っているんだな?」

 ヨハネの口調に男は失笑する。

「だったら、どうする?」

「ここで倒す! ゴルバット! エアスラッシュ!」

 空気の刃を纏ったゴルバットの振るい上げた一撃をいなしたのは、霧の中に紛れるポケモンであった。

 受け止めたのは皮膜のように薄い腕。筋肉の繊維が見え隠れしている。

「打ち返せ。馬鹿力」

 次の瞬間、下段から迫った拳にゴルバットは反応出来なかった。よろめいたゴルバットであるがヨハネの声を受ける前に持ち直す。

「今のは、格闘攻撃……? 一体、何なんだ?」

 霧のせいで相手の全体像が捉えられない。困惑するヨハネへとそのポケモンが腕を振るい上げる。

「サイコカッター」

 紫色の思念の刃が空間を奔った。それを受け止めたのはクリムガンである。

 咄嗟にまずい、と判断したのだろう。習い性の頑強な身体が「サイコカッター」を霧散させた。

「相性が悪いな。ゴルバットならば落とせたが」

 しかしクリムガンとて満身創痍。ヨハネはヒトカゲを見やる。軽業めいた攻撃に火炎放射の一撃の重さ。

 明らかに重要視すべきはマチエールのヒトカゲのほうだ。だが相手のポケモンも全貌が見えない。このままでは不利な戦いを続けるばかりである。

「どうすれば……」

「トレーナーに隙が出た。マチエール、出来るな?」

「任せて、おやっさん」

 マチエールが駆け出し、ヨハネへと肉迫しようとする。クリムガンが爪を振るい、その進行を妨げようとしたがEスーツで戦ったためか、クリムガンの隙を完全に狙い澄ました動きであった。

 ヨハネは眼前に降り立ったマチエールの瞳に、全く、光が宿っていないのを目にする。

 無感情のまま、人を傷つける殺人機械。

 当惑するヨハネの肩口にマチエールが蹴りを放った。転がるヨハネへと追撃の手刀が迫る。

 その手刀が、ヨハネの目元を引き裂くかに思われた。

 しかし……。

「――何やっているんだ、お前ら」

 割って入ったの存在にヨハネは覚えず声を上げる。

「ユリーカ、さん……」

「帰ってこないと思ったら喧嘩か? 変わらないな、マチエール」

 鋭い手刀の一撃がユリーカの肩を裂いていた。血が滴り、それがマチエールの手を染める。

 その瞬間、マチエールがハッとしたようだった。

「あたし……」

「目は醒めたか? お姫様」

 浮かび上がったルイが相手のポケモンへと解析の手を伸ばそうとする。

『解析します! ヨハネさん、今のうちにマスターを!』

 ルイの声にヨハネはユリーカに手を伸ばしていた。ユリーカを傷つけたマチエールは目を戦慄かせている。

「あたし、は……」

「緩めるな、マチエール。お前は、やり切るんだろう?」

「おやっさん……」

『解析出ました! 敵ポケモンは……』

 その声が発せられる前に相手のポケモンが地面を叩き割った。

「これ以上は、旨みがないな」

 凄まじい膂力によって捲れ上がった路面から砂煙が発生する。ヨハネは突風に煽られた。

 その間に霧が晴れ、相手がいた場所にはそのパワーだけを示す痕が残された。

「ルイ……相手のポケモンは」

『……ごめんなさい。あれはブラフだったんです。解析途中で、危なくなったから、つい……』

 つまり依然、正体不明か。ヨハネは飛び散った路面の欠片を手にする。相当なパワーの持ち主であるのは窺えたが、問題なのはとのっぺらぼうの顔面を思い出す。

「あれも、ポケモンの能力なんだ。それでマチエールさんを操っていた」

 マチエールはその場に膝をついたまま立ち上がれないようだった。全身の力が抜けたように虚脱している。

「マチエールさん」

 声をかけるとマチエールは振り返った。平常時の眼差しである。

「ヨハネ君……。あたし、何を……」

 覚えていないのか。否、覚えていないほうがいいのかもしれない。自分と敵対したなど。

「立てる?」

 ヨハネが手を差し出すと、マチエールはおずおずとその手を握り返し、立ち上がろうとした。その時、視界の中に彼を見つけたようだ。

「……何だって、ここにいるんだ?」

「あ、姉御。オレ、オレ……」

 共に倒れている二人の大男を目にしてマチエールはようやく自体を飲み込んだらしい。

「……あたし、自分で思っているよりも相当な事をしたみたいだね」

「マチエールさんのせいじゃない」

「いや、あたしのせいだ。弱さにつけ込まれた。何だって、あいつに、おやっさんを見たんだ、あたしは……」

「バカのやりそうな事だ」

 軽口を叩くユリーカだが決して傷は浅くない。

『マスター! すぐにお医者さんを呼びましたからっ』

 ルイが近寄るとユリーカは顔を背けた。

 マチエールは呆然と口にする。

「あたしが、やったんだよね……」

「関係がない。意識してやったのならば咎めるが、そういうわけでもないのだろう?」

「でも、ユリーカ……!」

「バカはバカらしく、眼前の敵を倒す事を考えろ。私は大丈夫だ」

 その背中を呼び止める術を持たず、マチエールは拳を握り締めた。

「あたし……最低だ」

 吐き捨てた声にヨハネは否定する。

「相手のせいだ。何らかの能力を持っている。ルイの解析が間に合えばよかったんだけれど……」

「それでもっ……! あたしは、相棒を傷つけたあたしを、許せない」

 血に染まった手を目にしたマチエールにヨハネはかけるべき言葉を持たなかった。

 相棒。

 その言葉の重みは二人の間でしか分からないのだろう。

「立てる?」

 声をかけたのはリーゼントに、だ。ヨハネは肩を貸してやった。リーゼントはしきりに謝っている。

「すいやせん……、すいやせんでした……姉御」

 彼も何かを抱えているようだ。ヨハネはハンサムハウスに戻る。

 雨が、降り始めていた。



オンドゥル大使 ( 2016/12/09(金) 22:40 )