EPISODE52 死人
ミアレの街風に棚引くのは紅白の横断幕であった。
「ウィンターシーズン到来!」と街は浮かれ調子である。ブティックには冬服を求めに来た富裕層で溢れかえり、この街での孤独な日々を約束させてはくれない。
イイヅカは嫌気が差したわけではないが、この街のどこか他人の事情など知った事かという厚顔無恥には呆れ返っていた。
「今にフレア団がこの街を、いや、カロスを占領しようという時にねぇ……」
水を差したいわけではない。そもそも、浮かれ調子になって何が悪いのだという論調はわかるし、人は誰だって勝手気ままに生きているものなのだ。
しかし、この街で人知れず戦っている少女達がいる。彼女らは己の利益などまるで度外視した場所で戦い抜き、決して栄誉を受ける事もなく、人知れず闇から闇へと渡り歩いていく。
自分はどうだ、とイイヅカはついこの間までのフリーライター業を振り返った。ライフワークのつもりであった天職はフレア団と、友の死によって塗り替えられた。
今はただただ、この街のため、ひいては彼女らのために戦う戦士となるしかない。
「イイヅカ氏ぃ、酒を持ってきなさい」
視界に入ったのは年中サンタクロース姿の奇怪な人物。サンタ、という名前の情報屋であり、彼女らを支えている人間の一人なのだが、どこか信用ならない。
「サンタさん……、金ならあるでしょう? 自分で買ってくればいいじゃないですか」
「この季節になるとやんややんやと騒ぐからいけない。人間、もっと静かに過ごすべきなんだよ」
「冬到来ですからね。みんな、浮かれたいんですよ」
「それはあれかね? 夏に蓄えた熱を発散しないと人間死んでしまう病にでもかかっているのかね?」
「知りませんよ……。自分でお酒は買ってきてください」
冷たく言い置くとサンタは立ち上がってサンタ服を叩いた。
「これが、どういう意味なのか、分かるかね、イイヅカ氏」
「サンタ服でしょう?」
「わたしのアイデンティティなんだ。だから、これを脱ぐのはもはやサンタという情報屋稼業を辞めるときに他ならない」
「はぁ」
曖昧に返すとサンタは涙目になった。
「つまり! こんな格好でコンビニなんか入れないだろ、という話なんだ!」
「ああ、ようやく話が見えてきました。だから俺に買ってこい、って? 酒なんて飲まなくってもやっていけるでしょう? 情報屋ってのは、情報が酒みたいなもんなんですから。あれでいくらでも酔えるじゃないですか」
「確かに君の言う通りだ。情報屋は情報という極上の一滴を飲み干す時、他の何よりも替え難い魅力に包まれる。しかし、それがないと死んでいるも同義」
「死んでいるのは、言い過ぎじゃないですか?」
「いや! わたしは断固として言いたい! こんなに浮かれ調子の街で、酒の一滴も飲めないのはやっていけないよ!」
もう酔っているのではあるまいか、と錯覚する。とはいえ情報屋の先輩だ。指示に従わないわけにもいかないだろう。
「……分かりましたよ。ビールでいいですか?」
「ミアレビールを頼むよ。この街でしか売っていない奴ね」
注文の多い先輩である。イイヅカはメモして雑踏に紛れた。浮かれ調子な人々を見ていると街の裏側でしか生きられない自分が酷く惨めに思えるのは納得だ。
「さっさと仕入れて終わらせるか……」
呟いて入った酒屋で一人の男が佇んでいた。灰色のコートを纏い、帽子を目深に被っている。避けて入ろうとすると道を遮られた。もう一度避けようとすると、今度も、である。
「何ですか?」
さすがに苛立ちを募らせていると男は呟いた。
「死んだ人と、会いたくないですか?」
街が浮かれると妙な人間も出てくる。これもそういう手合いに違いなかった。
「あのね、おれは酒を買いに来たの」
手で強引に避けようとすると相手は指を立てた。
「一人、会いたい人間がいるんじゃないですか?」
こういう手合いはやけに親しげにやってくる。そうして他人の領分を勝手に土足で踏み歩くのだ。
「あんた……、街が浮かれているからって、警察呼ぶよ」
「会いたいのは、この人じゃないんですか?」
男が面を上げる。
その瞬間、息を呑んだ。あるはずのない顔が、そこにあったからだ。
「サカグチ……」
死んだはずの友の相貌が、息のかかる距離にあった。まさか、と感じる。サカグチは死んだはずだ。もうこの世にはいないのに、どうして、目の前に。
混乱するイイヅカを他所にサカグチの顔をした男が告げる。
「この人に、会いたかったんじゃないですか?」
「あ、あんた、悪趣味にもほどがあるぞ!」
手で払い除けようとするとサカグチの顔の男はこちらへと歩み寄った。いつの間にか周囲は霧に埋没している。
霧の中でやけに明瞭なのはサカグチの顔と、その声であった。
「あなたは、この人に会いたいんじゃないですか?」
何を言っているのだ。自分を奮い立たせるようにイイヅカは叫んだ。
「あいつは死んだ。理想に殉じたんだ!」
サカグチの死を冒涜する目の前の男は許せない。殴りかかろうとしたところで、妨害が入った。
見知った影がイイヅカの拳を止める。その姿に今度こそ仰天した。
「マチエール……」
何故、と呟く前に鳩尾へと鋭い痛みが放たれる。これは、現実だ。激痛に呻き、イイヅカはその場に蹲る。マチエールがどこか焦点の合わない瞳でイイヅカを見据えている。あり得ない、と思いつつも、あり得ない事が連続して起きている。
整理しなければ、と脳内を冷静に保とうとしたところでマチエールの蹴りが突き刺さった。Eアームズやフレア団と渡り合うそのパワーは並大抵ではない。イイヅカは弾き飛ばされて店の棚を盛大に揺らした。
酒瓶がいくつか落ちて音を立てる。マチエールは夢うつつのように口にしていた。
「おやっさん、これでいいの?」
「ああ、上出来だ、マチエール」
不可思議な事に、この時、サカグチの顔を形作っていた男の面相が変わっていた。見た事のない精悍な顔つきの中年男性へと、どうしてだか変貌している。
罠だ、とイイヅカは感知する。
これそのものが自分を、ひいてはこの街に対する毒。知らせなければ、と立ち上がろうとしてマチエールの渾身の回し蹴りが脳髄を揺さぶる。衝撃に視界がぐわんと揺れ動く。
「何で……、君らは、正義のために」
「正義とは、常に流動的である。今、この場においてわたしこそが、その正義に極めて近い」
言い放つ男の顔がまたしてもぐにゃりと歪んだ。この結界内で、男は無敵だ。マチエールという武器も得ている。
イイヅカは、ここは意識を昏倒させるべきだと判断した。どうしてだか分からないが、連中に殺意はない。しかし、このまま抗ったところで痛い目を見るだけだろう。最小限の怪我で伝えなければならない。そのためには意識が落ちたと思わせなければ。
激痛の最中、失神するのは難しくなかった。
「死んだかな?」
ハンサムの声にマチエールは首を横に振る。
「ううん、意識が落ちただけ。おやっさんの命令なら、あたし、殺すよ」
「いや、いいだろう。泳がせておこう。それも探偵の務めだからね」
ハンサムの声はなんと頼り甲斐があるのだ。自分の荒立った心が凪いでいく。
「おやっさん。これから、どうするの?」
尋ねられたハンサムが顎に手を添える。考える時のハンサムの癖であった。
「そうだな。敵を倒さなければならない。この街に巣食う巨悪を。そのために、力を蓄えた。未練ある人々が、わたしに従ってくれているからね」
霧の中から出現したのは同志達であった。皆、ハンサムの考えに賛同し、武力を振り翳す事に何ら躊躇いはない。
「さぁ、この街を取り戻そうじゃないか。憎き、悪の芽から。お前をたばかった、悪魔から」
マチエールの瞳には燃える闘志があった。