ANNIHILATOR - 蝸角篇
EPISODE35 記憶

 暗闇の中で、自分は歩み続けている。

 不意に光が見えた。そちらへと手を伸ばした瞬間、空間を震わせる高周波が脳髄を揺すった。膝をつき、それに耐える。

 しかし、身体の内側から音波に呼応し、微細に砕け散っていく。指先が、神経が、身体の全てが粉塵に成り果てる。

 そのビジョンに頭を振った瞬間、光が一際強くなった。あまりの眩しさに視界がぐらつく。

 その眩しい光の中を、何かが駆け抜けていった。

 目を凝らす。それはアギルダーであった。

 紫色のローブ姿を棚引かせて、アギルダーが疾走する。それを追っているのは幼い自分である。

 マチエールは、かつてアギルダーを追いかけていた時間に巻き戻っていた。

 つんのめって転んでしまう。それに手を差し伸べたのはトレンチコートの似合う男性であった。

 いつも着ていた、よれよれのコート。しかし、それが世界で一番様になっているのは、自分が分かっていた。

「おやっさん……」

 呟いてマチエールはその幻影を追おうとする。いつか消えてしまった過去。しかし片時も忘れなかった思い出。

 伸ばした手の先が炎に遮られる。真紅の光景が眼前を満たし、それ以上を進ませなかった。

 赤に染まった景色の中、銃声が木霊する。

 トレンチコートを射抜いた凶弾に、男性が倒れ伏した。

 マチエールは必死に声をかける。

 その言葉が空間を震わせた。

 ――嫌だ! おやっさん! 死んじゃ嫌だよ! 独りにしないで!

 男性は口元を綻ばせて、言葉を紡いだ。

 ――独りじゃないさ。お前は……。

 炎の中、マチエールは立ち上がる。〈もこお〉が這い進み、つぶらな瞳を向けた。

 その向こう側にはアタッシュケースがある。何が入っているのか、マチエールには分かっていた。

 アタッシュケースに手を伸ばしかけると、不意に現れた腕が遮った。

 その主が、覚悟を確かめる眼差しを注ぐ。

「悪魔になれる?」

 その言葉が、全ての始まりであった。

 マチエールは首肯し、悪魔との指切りを果たす。

「行こう」

 アタッシュケースが開き、黒い鎧が飛び出した。












 ハッとして目を開くと、人工呼吸器が当てられていた。

 視界の範囲には心拍数と呼吸数を計る機械がある。こっくりこっくりと頭を揺らしていたのは、夢の中の悪魔であった。

 ユリーカが、頭にデデンネを乗せたまま、半分眠りこけている。どうして、と記憶を反芻してから、ああ、と思い至った。

「あたし……負けたんだ……」

 アギルダーとのユニゾンは成されなかった。そのせいで、脳が過負荷に晒されて気絶したのだ。

 そういえば、とマチエールは視線を巡らせる。

「ヨハネ君は……?」

 その声にユリーカが目を開いた。ハッとして、マチエールに掴みかかる。

「お前! 無事なのか?」

「……無事じゃないよ。この有り様」

「……皮肉が吐けるくらいにはなったか」

 お互いに安堵して力が抜ける。ユリーカがずっと見てくれていたのだろうか。もう一つ、対面に椅子がある。

「……ヨハネ君は?」

「お前共々、重態で運ばれてきた。今は安定している。お前のほうこそ、大丈夫か? 頭」

 酷い言い草であったが、脳に過負荷のかかった状態を思い出し、マチエールは頭を振った。

「分からない。大丈夫なのか、手遅れなのか」

「考えられるだけマシだ。何とか、一命は取り留めたか」

 それほどまでに重篤だったのであろうか。長い夢を見ていた気がする。

「あたし……バグユニゾンに食い破られたかと思った」

 そうなっていてもおかしくなかったのに、何故助かった? その疑問にユリーカが応じる。

「ヨハネ君が、バックルで回転しているボールを手で無理やり止めたらしい。何て無茶を、って言いたいが、今回、私の配慮も足りなかった。ヨハネ君が無茶をしたのは仕方がないとして、お前だ」

 やはり来るか、とマチエールは諦観する。

「……いいよ、何?」

「何もあるか。アギルダーとのユニゾンは使うな、とあれほど言ったな?」

「守れる保証なんてないよ。だって、これは戦いなんだし」

「……分かっている。こっちの都合で始めた戦いだ。降りるなんて許されない。だがな、降りる以上にお前はバカな事をしたんだ。自滅だぞ、自滅! これは、勝負を棄権する以上にバカだって言っているんだ!」

「……馬鹿馬鹿うるさいな」

「バカだから、バカだって言っている! アギルダーとのユニゾンを、簡単な事だと思うな。……もう、勝手な事はしないと誓え」

 後半はユリーカの本音が滲み出ていた。それが分かっていても、マチエールは頷けなかった。

「ゴメン。約束出来ないや」

「……そんな事だろうな。お前はいつだってそうだ」

 夢の中の出来事を思い出し、マチエールは口にしていた。

「ねぇ、あの日、悪魔と約束したのを、思い出した」

「懐かしい話をするな、急に」

 この小さな悪魔からしてみれば、もう懐かしいのだろうか。マチエールはそのまま言葉を次ぐ。

「悪魔になれる? って聞いてきたそいつは、今も、その問いを繰り返してくるのかな? 今も、悪魔になれるかどうかって」

 逡巡の間が空いた。ユリーカはぽつり、とこぼす。

「……分からないよ。当の悪魔だって、分からないのかもしれない。ただ、目の前で何かを失うのは、お互いにもう御免だっていうのは、それは本当だ」

 目の前で、何も出来ずに散っていく命を放ってはおけない。それがお互いに降り立った、今の時点での約束だろう。

「……ちょっと寝る。Eスーツは」

「ルイが問題のないように調整している。出来るだけ休んでおけ。次は、いつ休めるのかも分からない」

 その答えを聞いて、マチエールは眠りに没した。



オンドゥル大使 ( 2016/11/14(月) 21:11 )