EPISODE30 憤怒
帰ってきたエスプリはヘルメットを脱ぐなり、ヨハネに掴みかかってきた。
あまりの力に締め上げられる。
「ま、マチエールさん……」
「勝てた! だって言うのに、何で逃げる必要があったんだ!」
マチエールの厳しい口調にヨハネは何も言えない。全て、ユリーカの指示通りだったからだ。
「やめろ、マチエール。ヨハネ君に命じたのは私だ」
屋上でのすったもんだを感じ取ったのか、ユリーカが上がってくる。それを目にするなり、マチエールは弾丸のようにユリーカへと突進した。思わず、と言った様子で、ヨハネが制する。噛みつきかねない勢いであった。
「マチエールさん! 落ち着いて!」
「落ち着いていられないよ! こいつは勝てた勝負をふいにした!」
「勝てた? あの状況で本当に、勝てた、と思っているのか、マチエール」
問い質す声にマチエールが口ごもる。ヨハネも先ほどの戦闘が勝てたものだとは思っていなかった。
「マチエールさん。あのまま戦っていても、敵の正体さえも分からなかった」
「……やってみなくっちゃ、分からないじゃん」
「いや、分かる。あのままでは、水のユニゾンの時間切れを待って、相手の接近を許し、攻撃されていただろう。首を狩られていたかもしれない」
キッとマチエールが睨みつける。ユリーカはそれでも動じない。
「相手が強かったのは、間違いないんだから」
仲裁に入るもマチエールはヨハネなど目に入っていない様子であった。まるで獣のようだ。
「勝てた。そのはず」
短く告げられた声にユリーカが反論する。
「いいや、負けていた。しかもこっぴどく」
マチエールの蹴りがユリーカを捉えようとする。咄嗟にヨハネは飛び込んでいた。マチエールの蹴りを受けて転がり落ちる。屋上を滑った形になったヨハネにマチエールは一瞬だけハッとしたようだが、すぐに持ち直した。
「……あたし、謝らないから」
「それは変だ。ヨハネ君には謝るんだ」
「謝らない……! あたしは、間違っていないんだから!」
マチエールは屋上から跳躍して地面に降り立つなり、駆けていってしまった。ヨハネは鼻筋を押さえる。
鼻血が出ていた。
「災難だったね、ヨハネ君」
ユリーカが歩み寄って手を差し伸べてくる。ヨハネは鼻血を押さえつつ頭を振った。
「いえ……。マチエールさん、何であんなに、必死に」
「アイツが勝てた、と思う要因は分かる。もう一つだけ、エスプリには切り札があったから。それを試さずして逃げたのが納得いかないんだろう」
「その、アギルダーとのユニゾン、ですか?」
「話すのにも屋上では何だ。降りてくるといい」
ユリーカにて招かれてヨハネは二階層へと降りた。ルイが情報を高速処理しており、指先から伸びた白い線が幾つもの端末に接続されている。
「常時、処理速度を三割増しにしている。今のルイには話しかけるな。邪魔になるからな」
「はぁ……。あの、どうして、アギルダーとのユニゾンをやめさせたんですか?」
「データに乏しい。では理由にならないかな?」
前回の水のユニゾンの時とてデータには乏しかった。それだけではないのだと、ヨハネは感じ取っていた。
「納得出来ないのも、分からなくはないです」
「そうだろうな。まぁ、これを見たまえ」
ユリーカの差し出した資料には意味不明な数字が羅列されていた。それぞれ「F」、「W」、「B」とある。上述された二つには数字が割り振ってあるものの、最後の行の「B」だけは黒塗りばかりであった。
「これは?」
「ユニゾンにおける能力の上昇と下降を示した値だ。数字だけだから分からないかもしれないが、常にデータは取ってあるんだよ。ファイアユニゾン、ウォーターユニゾンでの能力値の変動は、理解しているかな?」
「その、ファイアは闘争本能に火を点ける関係上、反応速度が高く、接近戦向き。加えて一番安定率が高い、って。それとウォーターは相手の攻撃を受け流し、反撃に転じる。どうしようもないパワーの相手や、こちらの反撃を許さない相手の場合、有効だって、聞きましたが」
「一応基本は頭に入っているな。助手としては及第点だ」
「その……、どうしてこの、Bの項目は黒塗りなんです?」
「アギルダーとのユニゾンは試した事がない。否、試せない、と言ったほうが正しいか」
意味が分からなかった。ヨハネは怪訝そうに尋ね返す。
「試した事がないのに、どうして止めたんです? そりゃデータにないのは不安ですけれどマチエールさんなら」
きっとうまく扱えるはずだ。その淡い期待を、ユリーカは打ち砕く。
「アギルダーの単体ユニゾン、つまり虫属性のユニゾンだが、炎や水と違うのは、そもそも虫の感知野に人間がついていけるのか、という点だ」
虫の属性。ヨハネは想像を巡らせるが虫の世界などどう考えても分からない。
「それが不安で、今回、撤退させたんですか?」
「不安というよりも、エスプリがそこまで出来るのか、全くデータ上では試算出来ない」
全く、という言葉にヨハネは違和感を覚える。今までのデータは存在したのか。
「どうしてです? アギルダーのデータを取る時間は、いくらでもあったはずでしょう?」
ユリーカは執務椅子に腰掛け、嘆息を漏らした。
「それが、ね。アギルダーとのユニゾンだけは最初から危険だとしてデータさえも取っていなかった。炎が攻撃力の上昇、水が防御力の上昇だとすれば、ヨハネ君。虫は、何が上昇するんだと思う?」
唐突な質問に面食らいつつもヨハネは考える。虫の属性を思い描き、何が上がるのかを考えた結果――。
「感知網が、人間のそれと変わる……。集中力ですか?」
ユリーカは乾いた拍手を送る。
「そうだ。一応はスクールの出だな。虫ポケモンは集中力が段違いだ。他のタイプとはまるでその見え方が違うと言っても過言ではない」
つまり世界の見え方が違う。だが、ならばなおの事、今回試すべきだったのではないか。今回の敵は、感知出来なかったのだから。
「なら、余計に適任じゃないですか。今回の敵は音もなく迫ってきました。そのような敵を、捕捉するのには」
「最適、かな。だがね、ヨハネ君。考えてもみるといい。人間が、一瞬で虫の集中力に脳を切り替えられると思うか?」
それは、と口ごもってしまう。人間と虫とではそもそも考え方の土台が違う。無理、と言いかけたのをユリーカが引き継ぐ。
「そう、無理なんだ。人間の脳とまるで違う考え方に、一瞬で叩き込むなんて、それこそ異常だよ。つまるところ、アギルダーのユニゾンは危険過ぎる。エスプリが戦闘中に試した場合、失神もあり得る」
ヨハネは閉口していた。あれほどタフなマチエールが失神? そのような事があり得るのか。だがユリーカが嘘を言う意味もない。彼女は本気で、その可能性を視野に入れている。
「危険過ぎるから、止めたんですか」
「そうだ。虫のユニゾンは控えたほうがいい。データを取ろうとしても出来ないのはそのせいだ。多分、脳に過負荷がかかる。その場合、エスプリとして以上に、マチエールとしての人格を破壊しかねない」
それほどまでに凶悪なユニゾンならば最初から封じればいいのではないか。ヨハネの考えが透けたのだろう。ユリーカは腕を組んで応じた。
「最初から、アギルダーを使わせなければいいじゃないか、と言いたげだな、ヨハネ君。しかし、アギルダーを取り上げる事は出来ないよ。私でも、あのポケモンへの干渉は出来ない。あれは、私と組む前にマチエールが譲り受けたものだからな」
ニョロゾとアギルダーは誰かの手持ちであった。聞いた話を思い出しヨハネは、しかしと声を搾っていた。
「使えないんじゃ……」
「アギルダーの単体戦力としてはよく使えるポケモンだ。素早さも高いし、隠密性もある。ただ、あれをユニゾンとして使うのは危険だ、という話さ」
しかしアギルダーの能力の高さには裏づけがある。ユニゾンとして使わない手はないのではないか。
「ユリーカさん。もし、もしもですが、マチエールさんが制止を振り切ってアギルダーを使った場合には……」
「あり得てはならないが、もし、アギルダーを使った場合、エスプリとしての再起不能でさえも視野に入れなければならない」
それほどまでの、とヨハネは息を呑む。だが、データを精査した結果なのだ。ユリーカの情報網を嘗めているわけではない。ただ、戦うのはマチエールだ。
「でも、現場判断ってものがあるんじゃ」
「それで、マチエールにアギルダーのユニゾンを使わせるかい? 私は全力をもって止めにかかる。アギルダーとのユニゾンはほぼ破滅をもたらすと思っていい」
ユリーカのスタンスとしてはユニゾンを看過出来ない、というわけだ。しかし今回の相手はヨハネからしてみても異常である。
「全く、気配がないんでしたね……。今回の敵」
「ああ、音波探知機でも使って炙り出そうかとも考えたが、マチエールが頑として許さなかったせいでそれも叶わず……。とかく、不明な点が多い相手だ」
データとして算出されたものをヨハネも目にする。隠密機動性、素早さ、それに加えて攻撃性能の高い敵。しかしそれ以上は分からないという奇妙な敵である。
「速い、って事だけしか、まともに分かっていませんよね」
「その速さも、もしかしたら出し惜しみをしているのかもな。どれほどのスペックなのか、まだ全貌を理解出来てはいない」
「ルイを使っても、ですか?」
ユリーカは腕を組んで憮然と言い返す。
「ルイは、万能のようで万能ではない。私が指示を出し、カスタマイズする事によって真価を発揮している。足跡がつかないようにしているのも、私の特製だからだ。普通にルイレベルのシステムを使ったところで、解析には時間がかかるだろう」
つまり相手の手の内を解明するのも難しい。ヨハネは息をついて今回の感想を漏らす。
「……正直なところ、エスプリなら、勝てると思っていました。Eアームズなら」
「カウンターEスーツの名前が伊達ではないと、私も言いたいんだが……相手が悪い」
Eアームズを保有しているのはまず間違いないのに、相手の能力値がまるで割れない。このままでは攻め落とされる。その危機感を持っていたのはヨハネだけではないのだろう。ユリーカはコンソールに取り付きキーを打った。
「ファイアユニゾンで単純に反応速度を上げても、恐らく相手はそれ以上で向かってくる。相手は速さをどれだけでも操れると思ったほうがいい。逆に、だ。こっちは素早さは中の上のレベル。エスプリ単騎戦力では心許ない」
「全体戦力ではどうですか? ヒトカゲ、ニョロゾ、アギルダーを出して、全員で攻め込めば」
ヨハネの希望的観測にユリーカは渋い顔で頭を振った。
「難しいだろうね。ヒトカゲとニョロゾはタイプのせいで干渉し合ってしまうからまずもって無駄だし、アギルダーもヒトカゲで攻め込めば逆に出し辛くなる。かといって、ニョロゾ、アギルダーの組み合わせも難がある。この二体ではお互いの長所を潰し合ってしまうから、上策ではない」
エスプリの保有するポケモンはそれぞれの長所を潰してしまう。だから、単体戦力としては優れていても、全員で立ち向かうのには向いていない。何度も考えた結果だが、やはり難しいのか。
「一体ずつなら、強いんですよね……」
「一体ずつなら、な。ただし、今回の相手が一体ずつで戦うほど、騎士道精神があるかどうかと言われればノーだ。まぁ今までの相手だってそうなんだが」
相手も一体ずつなんて生易しい事を許してはくれまい。しかし、そうなってしまうと、やはりユニゾン頼みになってしまう。ヨハネは堂々巡りの考えにため息を漏らす。
「結局……、戦うのに足るのには、ユニゾンとポケモンをうまく扱うしかない」
「しかし、最後のユニゾンであるアギルダーは使わせられない」
そこにぶち当たってしまうと、どうしても先に進めそうになかった。ユリーカがコンソールに向き合う。エスプレッソマシンを使い、コーヒーを淹れた。労いのつもりだったが、ユリーカは一顧だにしない。
「その、ユリーカさん?」
「今は、飲む気にはなれなくってね。どうしたって、この命題を突破しないと、エスプリとしても、こっちとしても戦いようがないんだ」
それまでは休息なし、か。タブンネの形状を模したマグカップをヨハネはそっと退けておいた。
「マチエールさんのところに行ってきます。多分、行き詰っているのはお互い様でしょうから」
「助手として、何かしてやってくれ。何か、と言っても具体的にこうしろとは私だって言えないわけだが」
相棒であるはずのユリーカでさえも手一杯である。ならば、せめて自分はマチエールとユリーカの橋渡しになりたい。