EPISODE26 絶華
ヨハネは自分で言っておきながら、流水の心の半分程度しか分かっていない。〈もこお〉のイメージの補助があったから、そう言えただけだ。実際に理解していたかどうかと問われれば、それも怪しい。
しかし目の前の光景は。
水を得たエスプリの能力は。
「まるで……決して形の定まらない、水そのもの……」
サワムラーの強靭な蹴りの攻撃を受け流し、全てを自分の胸の力とする事で、相手との力量差さえも自在にする。
これが、ニョロゾと共に奏でる水のユニゾン――。
「ウォーターユニゾンの、力……」
「当たれっ!」
サワムラーの回し蹴りがエスプリの頭部を捉える。確実に潰されたかに思われたエスプリの頭はぐにゃりと曲がってキックの威力を受け流す。
「何故! 当たらん!」
「当たっているよ。ただ、このユニゾンは相手を受け入れるところから始まっているユニゾンだ。水は決して、砕けはしない」
決まった形がないのならば、水を崩壊させる事は不可能だ。
サワムラーとその主人は踊り上がった。前回と同じく、高所に位置取る。
「しかし、高いところを取ったほうが有利なのには違いない。水に定まった形がない。大いに結構だ。しかし、威力を格段に増した踵落としを叩き込まれれば、いくら自在の水とは言え、容器から溢れ出す!」
サワムラーがさらに高所を目指そうとした。エスプリは身体を開き、両腕を伸ばす。
「だったら、あたしも跳ぶまで」
跳ね上がったエスプリが一瞬にしてサワムラーの高度を超えた。
脚力? と感じたが違う。水の勢いを一点に絞り、噴出させたのだ。
火の時とはまた違う、水の利点を活かした使い方であった。
「サワムラーより上に……!」
「あたしは、水。流水の心は、自在」
呟くエスプリへとサワムラーが足裏に点火した。瞬く間に高熱が宿り、サワムラーの脚部から炎が迸った。
「ならば、蒸発しつくしてくれるわ! ブレイズキック!」
サワムラーの放った炎熱の蹴りにヨハネは息を呑んだ。確かに水は自在だ。だが、沸点というものが存在する。
水とて、熱し過ぎれば空気中に溶け出す。
それはつまり、水という存在の消滅を意味している。
「逃げるんだ、エスプリ!」
「――いいや、ヨハネ君。火の相手にこそ、水だ」
エスプリが両腕を胸の前で交差させる。すっと離されていく手と手の間に、磁力のように水が集まっていった。
「手に、水が……」
「鎧……? いいや、水の砲弾」
エスプリの腕に絡みついた水が掌の上で固まり、一挙に弾き出された。
「水圧砲!」
エスプリの手に集まった水の砲弾が形状を成し、サワムラーへと発射された。サワムラーがおっとり刀で蹴り返す。
しかし、その一撃で炎が失せていた。
「炎に水は効果抜群! これ、キホンでしょ」
否、それだけの、相性上の問題だけではない。エスプリは今まさに、水と一心同体だ。
ニョロゾの心の動きに任せ、下手に自分の気持ちを出さない。その心、静謐に包まれた水のように、深く静かである。
ヨハネは驚愕していた。
方法は教えた。自分で導いたつもりであった。しかし、これほどまでに体得が早いとなると恐怖さえ抱いてしまう。
マチエールは、自分の出来る範囲で、最大限にニョロゾを理解した。
言葉の表面で語るよりももっと深遠で、背中を任せる覚悟をしている。
そう、これは――信頼であった。
語るには易い言葉であったが、その関係は磐石に近い。
ニョロゾとマチエールが積み重ねてきた時間が今、花開いた。
能力の開花がこれほどまでに煌びやかだとは、ヨハネでさえも予想し得なかった。
「サワムラー、叩き落せ!」
自尊心を傷つけられたサワムラーが最大まで足を伸長し、キックを叩き込む。エスプリの胸部目がけて放たれたキックを彼女は受け止めた。
水に変じた装甲がキックの鬼の最大戦力を受け流し、なおかつそれをがっしりとくわえ込む。エスプリの両腕がサワムラーの足を掴んだ。
「さ、サワムラー! 離脱を」
「させない。水のもう一つの性質、教えてやる」
自由落下を始めたエスプリはサワムラーのパワーでさえも振り払えないようであった。ヨハネは水の性質を思い描く。
「時にどのような物体より軽く、時に鉄よりも重い……。水の性質が、エスプリに宿っているのか」
ニョロゾの体現させた水のユニゾンがエスプリの性能を経て、最大限に具現化されていた。サワムラーが非常階段から姿勢を崩す。自由落下に揉まれつつ、サワムラーは足掻いた。
「この! やれ!」
本領ではない拳による抵抗は、水に変じたエスプリの前にほぼ無意味だ。エスプリはサワムラーを持ち上げて振るい落とす。
地面に叩きつけられたサワムラーに対し、エスプリは衝撃波さえも起こさせない。まさしく水鳥のように、軽やかに、音もない。
「しなやかな、水の属性……。理解した。だが、サワムラー! お前は格闘王だ! キックの連発で水など弾き飛ばしてしまえ!」
体勢を持ち直したサワムラーが起き上がり様に蹴りを叩き込む。水に変じた装甲は軽く受け流した、かに思われたが、その一発で終わりではない。
サワムラーは蹴りを鞭のようにしならせて、もう片方の足でキックを打ち込んだのだ。
楔のように、激震する蹴り技。物質世界の相手ならば問答無用で破砕する、まさにキックの鬼。
しかし、エスプリは健在であった。
水の真髄は柔にあり。
格闘戦術でさえも、水は兼ね備えている。エスプリが素早く手を払う。
その攻撃がサワムラーの表皮に傷をつけた。
一瞬の事である。ヨハネも分からなかった。
「何が……」
「ダイヤモンドカッターだ……」
イイヅカは理解したのだろう。放たれた攻撃の勢いはあまりに速く、神速と言っても差し支えない。
「ダイヤモンドカッターって……」
「水は、一極に絞れば最高硬度の石でさえも叩き切る事が出来る。今、エスプリは水をまるで刃のように使えるんだ」
瞬時に使い方を二つも体得した。
その技量に唖然とする。
「どうする? 格闘王とやら。あたしのほうが、格闘戦には秀でているみたいだけれど」
パワーだけ特別特化したサワムラーでは消耗戦になるだけだ。この勝負、見えたかに思われた。
しかし、それを操るサカグチとやらは笑みを浮かべる。
「サワムラーより高く跳び、その脚力を完全に受け切る。嘗めていたようだな、自分も。ならば、示そう、サワムラー。覚悟だ」
サワムラーがこれまでにないほど、大きく足を引いた。大股に見えるほど、足を後ろに引いたので逆に姿勢が危うい。
その構えにエスプリも構え直す。
「次に放つ技は、跳び膝蹴り。失敗すれば、もうサワムラーに後はない。自分もしっぺ返しを食らう可能性が高い、危険な技だ」
「何で、宣言する?」
サカグチは口元に浮かべた笑みをそのままに、エスプリへと語って聞かせる。
「嬉しいからだよ。サワムラーと対等に戦える相手と、合間見えた事が。Eアームズに頼らないで正解だった。正気で、この戦いを楽しめる」
どうやら相手も相当な戦闘狂のようであった。これに乗らず、ただしなやかに相手の攻撃を凌げばいい。それが確実な勝利だ。
――だが、ヨハネには分かる。
彼女達は、そんな逃げ口上は使わない。
「そっか。だったら、こっちも最高の技で行こう」
バックルのハンドルへと、エスプリが手を伸ばす。必殺技をわざと撃つつもりであるのは明白であった。
「義理立てする必要はないが」
「義理って言うか、これは、そこのオジサンと、あんたとの決着のためだよ。オジサンは、ポケモン持っていないみたいだしさ。あたしが代理にケリをつける」
そうしなければ収まりがつかない、とでも言いたげであった。イイヅカが口を挟もうとするのをヨハネが制する。
「彼女達に、任せてもらえますか?」
「しかし……元はと言えば俺が招いた」
「その決着の、代理を務めるとは言え、彼女達だって逃げられない、負けられない戦いなんです。ここで退くのは、彼女達の精神の敗北に他ならない」
精神の敗北、とイイヅカは繰り返した。彼にも思うところはあるのだろう。一線を走り続けるトップ屋の掲げるものを、ヨハネは理解する事は出来ない。しかし、曲げられぬもの、曲げてはならぬものがあるのは間違いないはずだ。
「サワムラー。渾身の力を注げ。空気中の分子すら破壊するほどの、本気のキックを」
サワムラーが己を鼓舞し、奮い立たせる。引かれた足が込められた力の負荷に赤く染まり、地面が陥没した。
エスプリがハンドルに手をかける。
全ては一瞬で決着がつく。
その時が訪れるのも、ましてや去るのも、ほんの一瞬。
必然的に、――しかしあまりにも不意打ち気味に、その時は訪れた。
サワムラーが跳躍する。今までの跳躍ではない。ばねを利用したジャンプというよりかは、必殺のために捧げられた覚悟の刹那だ。
エスプリがハンドルを引く。『エレメントトラッシュ』の音声が響き、モンスターボールが高速回転した。
エスプリの身体から水が噴き出し、段階的に浮かび上がっていく。その身体が流転し、渦巻いた。
皮肉にも、水の必殺技もまた、相対する存在と同じくキックであった。
刃のように一点集中した水が竜巻を発生させ、エスプリが身体をひねった。
跳び膝蹴りと、それと姿勢がほぼ同じの、空転蹴り。
勝負は一瞬の判断でつく。
水の勢いがミアレの裏路地の一画を切り裂いた。それと同時に土煙が発生し、衝撃波が周囲の建築物を建材から震わせる。
交錯したのはほんの一秒にも満たない。
お互いに降り立っていた。
膝を落としたほうが――。
そう感じた矢先に、エスプリが膝をつく。
バックルからニョロゾのモンスターボールがこぼれ落ちた。
「まさか……!」
サワムラーが振り返る。その眼差しに浮かんだ刹那の戦いに生きる戦闘狂の魂が、次の瞬間、意識の網と共に手離された。
傾いだサワムラーが倒れ伏す。
エスプリはニョロゾのボールを手に、立ち上がった。
「勝ったのは……仮面の怪人」
イイヅカの言葉にサカグチという男は瞑目する。
「よくやった。サワムラー」
赤い粒子となってボールに戻されたサワムラーにこの戦闘がようやく終了した事を、ヨハネは理解する。
交差したその時、勝負は決まったのだ。
水による回転蹴りが、決死の跳び膝蹴りを上回った。
しかし、紙一重であった、とも感じる。
ともすれば負けていたのはこちらであった。
サカグチはそのようなギリギリの駆け引きにあった事を喜ぶかのように、声を弾ませた。
「自分とて責任がある。組織の末端員としての責任。同時に、この任務を預かった責任が」
「サカグチ! 何故だ!」
イイヅカの張り上げた声にサカグチは一言添えただけであった。
「仕方ないんだよ。分かたれたんだ」
いつ、とも言わない。それがしかし、決定的断絶であった。
イイヅカは噛み締めたのか、苦々しく口走った。
「残念だよ」
「自分を追い詰めたお前達に教える。これは、組織の末端員としてではない。戦士としての言葉だ。我が組織の名前は、フレア団。このカロスを、既に牛耳っている組織である」
その名前にヨハネは目を戦慄かせた。フレア、という名。それは自分の通っていたスクールのバックについていた企業。フレアエンタープライズと同じではないのか。
「どういう事だ! フレアって、その名前」
「これしか、自分は言えない。もう、言うだけの口も残っていないだろうさ」
問い質す前に、サカグチの胸を射抜いたのは一条の白い糸であった。
全員が目を瞠る。
サカグチを貫いた糸の主は、見知った姿のトレーナーと、そのポケモン、アリアドス。
「先輩……?」
「残念だわ、ミスターサワ。わたくしが手を下さなければならないなど」
「先輩! どうして!」
「動かない事ね、特待生。それに、劣等生も。アリアドスのスペックは万全。この状態からなら、あなた達相手なんて児戯にも等しい」
しかしアリアは攻撃してこない。それはサカグチに対する手向けなのか。それとも彼女なりの流儀なのか。
「先輩……。教えて欲しい。僕らの通っていたあの学校は、正しい事を成すための人間を育てていたんですよね……?」
嘘でもいい。そのためにあったのだと、言って欲しかった。しかし、アリアは否定も肯定もしない。
「正しいか正しくないか。それを見極めるのに、あなたの目は、もう濁っている。劣等生に、濁らされてしまった」
ヨハネは拳を握り締める。今はまだ、アリアに届かない。しかし、それでも。いつかは、彼女の目を覚まさせる。
「僕は、逃げませんよ」
「いい覚悟だと、褒めておきましょう」
その言葉と共にアリアの姿も掻き消えた。
友の安否を確認しようとイイヅカが駆け寄った時には、サカグチはもう手遅れであった。心臓を射抜かれたサカグチは友の顔を確かめる。
「よぉ。遅かったじゃないか」
この場に似つかわしくないほど、落ち着き払った声。イイヅカはサカグチの身体を起き上がらせようとして、その手が血に染まったのに慄いたようだ。
「もう、戻れない。妖精を追うな。言っただろう?」
サカグチが拳を掲げる。イイヅカは頭を振った。
「よせよ……。今は、そんな気分じゃ」
「いいや、今以外にいつ、そういう気分だって言うんだよ」
「お前には、家族がいるんだろ! だってのに……」
噛み締められた苦渋がこちらにも伝わってくる。サカグチは乾いた笑いを浮かべるばかりであった。
「そうだな。……そのために頑張ってきたのに、何で空回ってしまうんだろう」
心底不思議そうな声音にイイヅカは声を振り絞る。
「死ぬな。ここで死んだら、俺が許さない。絶対にぶっ殺してやる」
「変な言い草だな。もう、行く」
サカグチの呼吸音が切れ切れになっていく。終わりが近いのだ。イイヅカは何か言おうとして、何度も躊躇い、ようやく口にした。
「何でだ……。今まで散々、言葉を弄してきたのに。親友との別れの言葉が出ないんだ。サカグチ、教えてくれ。こういう時、何て言えばよかったんだ」
何て言えば。そう繰り返すイイヅカの手の中で、一人の男が息絶えた。
咽び泣くイイヅカの背中に、誰も声をかけられなかった。大切な友との別れだ。赤の他人が浴びせていい言葉なんて分からない。
いつか、自分とアリアにも訪れるのだろうか。
彼女は彼岸へと旅立った。もう、自分と同じ目線ではないのかもしれない。それでも、今際の際には分かり合いたい。分かって欲しい。自分がこちらを選んだ事を。
そして、教えて欲しいのだ。
――何故、あなたはそちらを選んだのかを。
しかし、いざとなれば余計な言葉も、ろくな台詞も出ないのかもしれない。目の前の二人がそうであったように、すれ違えばもう二度と、その機会は失われてしまってもおかしくはない。
〈もこお〉が足に擦り寄ってきた。彼からもたらされる思念が、この場を包み込む。暖かい。だが、その暖かさは、今消えそうになっている人の命のぬくもりだ。消える刹那に輝く、命の熱なのだ。
エスプリは言葉少なであった。勝利した、というのに、漂うのは完勝の感慨ではなく、これから先の道筋さえも分からぬ不安であった。