ANNIHILATOR - 烈火篇
EPISODE9 蝙蝠

 市街地を舞う黒い影に、ふと酔い潰れたサラリーマンが顔を上げた。

 マメパトでも飛んでいるのか、と仰いだ視界には玉のような形状のポケモンが羽根を伴って飛行しているのが映る。

「ありゃ、コロモリだな」

 酔いが回っておらず、自分の介抱をしてくれている相方がそうこぼす。毎日デスクワークのサラリーマンからしてみればポケモンの存在もどこか遠い。

「降りて来いよぉ、こっちには土産がある」

 寿司折を掲げると相方がいさめた。

「馬鹿、本当に来る事もあるんだぞ」

「来たって、どうせミアレの街を飛ぶポケモンだ。弱いんだろ?」

 高を括っていたサラリーマンへとコロモリが視線を振り向けた。気づいたか、と寿司折を振ってやると、その袋が音もなく断ち切られていた。

 風圧の刃が鋭く棚引き、両断された寿司折が地面に落下している。

 相方が声を荒らげた。

「おいおい! 来るぞ!」

 コロモリが急降下してくるのである。それだけならばまだしも、その羽根に纏う風の刃には殺気があった。

 酔いがすっかり醒めてしまい、サラリーマンは無様に逃げようとする。足取りもおぼつかないせいか、すっ転げてしまった。その眼前の地面に風の刃が突き刺さった。

 冷や汗が背中を滑っていく。

 酔いの世界どころか、一気に命の駆け引きの世界に持ってこられてサラリーマンは慄いた。

「く、来るなぁ!」

 風圧が瞬間的に膨れ上がり、サラリーマンの身体を引き裂こうとする。

 その風の刃を不意に差し込んできた黒い影が受け止めた。

 漆黒の鎧が月明かりを浴びて濡れたように輝く。

 片腕で受け止めたその存在に、サラリーマンが声を投げる前に、勢い余った声音が差し込まれた。

「いたぞ! コロモリだ! Eアームズを付けている!」

 少年であった。髪の毛が白と黒に分かれており、どこかうろたえたような、この場に似つかわしくない相貌である。

「オーケイ、ヨハネ君。ここはヤツから逃げおおせる。あいつを追い立てる事は?」

「やってみる。ゴルバット!」

 もう一体の蝙蝠が出現し、コロモリを追い立てる。翼を広げた紫色のポケモンに比してコロモリはどこか劣勢であった。

 風の刃がゴルバットに纏いつく。その攻撃と同期するように、コロモリも風を切った。

 刃同士が干渉し合い、風圧がビル風に匹敵する。その勢いで両者共に引き離された。

「あいつ、やっぱり、強化されている……!」

 少年の苦々しい声音にサラリーマンはコロモリが通常の状態ではないのを知った。

 黒い羽根には赤い点滅信号が備え付けられており、機械の網が翼を拡張していた。

 コロモリがハート型の豚鼻を突き出し、ゴルバットを牽制する。ゴルバットが引き剥がされたのを見るや、鎧の疾駆が舌打ちした。

「ゴルバットじゃ限界があるか。あたしが!」

 ホルスターからボールを抜き放った影が繰り出したのは一匹の炎の爬虫類ポケモンであった。

「ヒトカゲ! 火炎放射でEアームズを焼けないか?」

 ヒトカゲが鋭くも幼い声音で鳴き、次の瞬間膨れ上がった炎熱をコロモリへと放った。その矮躯からは想像出来ないほどの熱量である。

 コロモリは少しばかり遅れを取った様子であったが、自分が空中という場を制している事に気がついているのだろう。その行動は迅速であった。

 巻き起こした風で炎を吹き払い、コロモリは飛び去っていく。 

 その後姿を追う術はないらしい。

 鎧の何者かは拳を握り締めた。

「してやられたね……。また逃がしたか」

「マチ……、エスプリ。このままじゃ……」

「分かっているよ。あ、オジサン。今見た事は他言無用ね」

 自分に振り向けられた言葉なのだがまるで現実感のない。

 ただ頷く事しか出来なかった。

 少年と鎧の人物はミアレの闇に溶けるように消え行く。刹那の幻に思えた。

「だ、大丈夫か……」

 近くの物陰から窺っていた相方はあの人物を見なかったのか、自分の心配だけをした。

「あ、ああ……、すっかりその……酔いが醒めてしまった」

 覚醒した脳裏に先ほどの人物と少年のやり取りが妙に克明に刻まれている。

「おれだけ逃げて、悪かったよ……」

 憔悴し切った相方に彼は頭を振った。自分の立場でも逃げていただろう。

「それにしたって……。ミアレはどうなっちまったんだ……」

 そうこぼす事しか、自分には出来なかった。















 見失った、というのが総合判断だった。

 裏通りに出てきたヨハネは追跡を断念したエスプリと合流する。

 エスプリがヘルメットの側面のボタンを押すとバイザーが上がった。

 中から覗いたのは少女の相貌である。睡蓮のように透き通った青い瞳が口惜しそうに中空を睨んでいた。

「あいつ、絶対に逃がさないつもりだったのに」

「ゴメン。僕のゴルバットが、もう少し善戦出来れば」

「いんや、よくやってくれていると思う。ただ、相性が悪い」

 相手はエスパー・飛行を持つコロモリ。毒・飛行のゴルバットは相性上で不利だ。

「でも、コロモリみたいな……、あんな小さなポケモンにも付けられているなんて。Eアームズ……」

 ここ数日で自分が関わる事になった因縁の名称を、ヨハネは呟く。

 エスプリはヘルメットを脱ぎ捨て、息をついた。

「小さい大きいは関係ないよ。結局、コロモリ使いの消息も掴めていない。これじゃ骨折り損だ」

 連日、凶暴性の低いコロモリによる傷害事件が起こっている。

 しかも犯行の頻度と傾向からしてみてたった一体のコロモリなのだという。

「辻斬り、みたいなものだね。行き遭った人間を無差別に狙う」

「コロモリ使いは何か、この街に恨みでもあるのか。対象となった人物達に相関図はない。つまり無関係、法則なし」

 頭を抱えているのは全くの無秩序に選ばれる被害者達。コロモリは自律型のポケモンなのか、と議論に上がったが、それはないとエスプリは判断していた。

「Eアームズを付けている以上は、手持ち、なんだよね……」

「その可能性が高い。野性にEアームズを持たせたって、その真価の半分だって引き出せやしないんだから」

 ヘルメットを脱いだ彼女は二つ結びの髪を振った。エスプリ――マチエールはバックルを外す。

 すると、装甲が解除され、螺旋を描いてアタッシュケースへと収まった。

 何度見ても構造が不明である。如何にしてアタッシュケースに収まっているのか、ヨハネはろくに見た事がない。

 それもこれも、ケースを管理している〈もこお〉の目のせいだ。ニャスパーの〈もこお〉自体に敵意はないようなのだが、どうにも頑として自分にケースを預けてはくれなかった。

 どうせ預かっても重たくて引きずれもしないのだが。

 ヨハネの思案に対し、〈もこお〉は表情の読めない眼差しを注いでくる。いつだって能面の〈もこお〉はヨハネにとってしてみれば理解し難い。

「誰かの手持ちだとして、僕らで見つけ出すのは少しばかり難しいんじゃないかな」

 預かりシステムだけでも相当な数の人間が利用しているのだ。しかもコロモリとなれば、カロス全土に生息しており、誰でも捕まえられる。人が行き交うミアレシティでの特定は難しいだろう。

「だねぇ。あたしも考えているんだけれど、後手に回るのがつらい。どうにかして、相手を出し抜けないものかな」

「それも、相手が無差別だから性質が悪い」

 被害者に繋がりはない。そのせいでこの事件そのものが見えにくくなっている。

 マチエールは眉をひそめて首をひねった。

「……こりゃあ、あいつに頼るしかないかな」

 マチエールの言葉の中で何度も繰り返される、あいつ、という単語。彼女の口調から親しい間柄かと感じていた。

「頼れる人間なら、頼ったほうがいいじゃ?」

 ヨハネの提言にマチエールは目に見えて不快感を露にした。

「あたしの口から? あいつに? やだなぁ……。あたしが負けたみたいじゃん」

「負けたって、喧嘩してるの?」

「みたいなもん。あいつの言う通りに動くのがシャクだから、じゃあ自分なしでどれだけやれるか試してみろって……。まぁ、喧嘩別れだよね」

 意外であった。マチエールが喧嘩するほどの相手など存在するのか。嫌味を言ったヒガサでさえも、この少女は歯牙にもかけなかったのだ。

「話をつけようよ。もしかしたら平和的解決になるかも」

 ヨハネが思い描いたのは気難しそうな人間であった。彼女の口調からして、男だろうか。

 恐らくマチエールを野に放つのをよしとしなかったのは彼女が気難しいからだけではないだろう。マチエールには常識がない。それに、警戒心もほとんどないに等しい。そのような人間をそう易々と手放せるわけがない。

「平和的解決ぅ? あのさ、ヨハネ君。あたし、一番嫌いな言葉を言ってあげようか。平和、っての。反吐が出る」

 ここまで露骨に嫌われているとなるとやはり会わせないほうがいいのだろうか。だが今の時点で自分達の詰みは見えている。

 いくらエスプリに変身して追っても相手が飛んで逃げるのでは話にならない。前回のヒガサのようにテロ活動を行うわけではないが街の片隅で行われている殺人や傷害を見過ごすわけにはいかなかった。

「潮時、って奴だと思うよ。僕は、その人に会ってみたいし」

「正気? ヨハネ君、あいつとはそりが合うとは思えない」

「でも、さ。会ってみないと。僕だって分からないよ」

 どのような人物なのかほとんど語られていないのだ。気にもなる。マチエールはしばらく考える仕草をした後、条件を出した。

「じゃあさ。ヨハネ君だけ行きなよ。あたしは後から付いていくから」

 妙な言い草である。その人物と組んでいたのではないのか。

「いや、だって……、マチエールさんが会わないでどうするのさ」

「あたし、あいつの顔を出来れば見たくない。でも、ヨハネ君なら、あたしが直接会わないでも、あいつから情報を引き出せるかもしれない」

 それほどまでに嫌われていれば殊だな、とヨハネは感じてしまった。体よく自分は交渉の道具にされてしまうわけだ。

「……まぁ、いいけれど。その人、Eスーツの事も?」

「もちろん知っている。そうじゃなければ、エスプリは名乗れなかった」

 重要人物のようだがマチエールは頑として会いたくないらしい。これは仕方がない、とヨハネは嘆息を漏らす。

「いいよ。僕が会いにいく」


オンドゥル大使 ( 2016/10/10(月) 20:32 )