EPISODE152 半身
カードキーも、ましてや暗証番号も。
全て示された通りだとは思わなかった。導くように隔壁が開いていき、フレア団地下通路へとヨハネを通した。
生温かい空気の滞留する中を進んでいくと、不意に培養液で満たされたカプセルが両脇を占めるようになっていった。
ミュウツーになれなかった残骸。成り損ない達が肩を寄せ合っている。
多くの犠牲の果てにあったのはミュウツーだけではない。未調整のEアームズポケモン、それに、Eスーツに耐え切れずに自壊した人間もいた。
カプセルに浮かぶ血の油をヨハネは注視していた。
悪魔の研究であった。
何もかも、人の尊厳なるまるで無視した研究の果て。それこそがミュウツーであり、エスプリでもあった。
あらゆる全てを放り出してでも、得たかった一つがある。
その一つのために人間である事を捨てた存在が、扉の向こう側にはいるはずであった。
最終隔壁に手をつく。
「さすがに最後の扉は自力で開けって事か。求めよ、さらば与えられん。……クロバット」
繰り出したクロバットが空気の刃を翼の皮膜に滞留させ、一気に放出する。
「エアスラッシュ!」
放たれた同調の域の攻撃が扉を切り裂いた。
重々しい音を立てて、最終隔壁が切り落とされる。
その先に待っていたのは、悪魔の具現。存在そのものの異端。
青いシステム光を浴びつつ、白衣の青年が背中を向けていた。無防備だ。いつでも殺せる。そう感じつつも、ヨハネは足を進めた。この先では不意打ちは流儀に反する。
「来ると思っていたよ」
清々するような声音であった。これから行われる事が、血で持ってしか贖えない事実などまるで度外視したような。
この場で行われるのは、ただただ、正義と悪の論争である。
それを最初から理解している人間の声である。
「捉えたぞ。プロフェッサーシトロン」
ここまで敵意を持って至ったのは恐らく自分だけ。彼に接触して生きて帰ったのは今のところユリーカのみである。
ただ身内の温情というものがあるに違いない。
そうでなければ――そう考えていたヨハネの思考に切り込んできたのはシトロンの声であった。
「キミは、ぼくが身内の温情から、ユリーカを逃がしたのだと思っているのだろう? 優しいね」
どうして、ここまで穏やかな声が出せる?
理解の範疇を超えた存在。ヨハネはそう断じて改めて標的を見据える。
いつでも首を落とせる。
だが、同時に、どこからも攻め込めないのではないのか。
この人間に隙などないのではないのか、とも思わせられた。
こういう手合いには戦士ほど手を焼く。
王など問題外だ。
シトロンと決着するのには、同じような闇を湛えた人間こそが相応しい。
自分の中に燻る闇。自分こそが、最上位の存在だと信じてやまない、そういう業。
ヨハネは先に口を開こうとしたが、シトロンの語るに任せる事にした。
「僕は、こうしてクロバットを出しておかないと今にもお前を殺してしまいそうだ」
そう吐露する事が出来るのは、世界で一人だけ。
目の前の天才だけに、自分の汚い部分を見せ付けられる。
何故ならば、彼によってヨハネの闇は目覚めた。ルイ・オルタナティブを通しての間接接触。
それすらも計算の内なのだろすれば恐れ入る。
シトロンは軽く笑ったようであった。
肩を揺らして、控えめに。しかし、それでいてしっかりと耳には残る。
「違いないだろう。しかし、意外だな。一人で来たのか」
「一人で来るのが、相応しい流儀なのだと感じた」
こちらの告白に、天才は嘲るでも、ましてや嗤うでもない。ただただ、乾いた拍手だけがラボに残響する。
「キミは、潔いね。ぼくが殺そうとする、そうは思わなかったんだね」
「お前は、やろうと思えばミュウツーのために、エスプリを無力化するくらいわけない。だっていうのに、何もしない。だって、ルイ・オルタナティブはお前が造った。いざという時の手綱が引けないのはおかしい」
そう。疑問なのだ。エスプリマグナの完成のためには、ルイが必要不可欠。その事実を聞いた時から、否、それより前から、シトロンはエスプリを妨害出来た。
だというのに、全てを静観していたのは何故なのか。
問い質さなければならない。でなければ、前に進めない。
一息つくように、天才は吐息を漏らした。
「なかなかに、核心をついてくるじゃないか。時間がないのかい?」
「それもある」
「いや、それ以上に、時間をかけるとお互いに感情のたがが外れそうなのもあるね。キミはぼくを殺したい。でもぼくはキミと、出来るだけ長く語らいたい。正義について、の議論だ」
「それはもう行った。僕の正義は揺るがない」
そう、揺るがないはずである。しかし、シトロンは看破する。
「アマクサ・テトラ。悪の側面を覗いただけでは、それは片側の理論というんだ。それだけじゃ、どうしようもない。ヨハネ・シュラウド。キミは天秤なのだと感じている」
「天秤?」
「善悪をはかる天秤だ。この世の中で唯一、均衡というものが存在するのだとすれば、それはキミの中にある。キミは、その善悪のはかりを手に入れた、稀有なる存在だ」
「茶番は、その程度にしてもらいたい」
ヨハネは声を詰める。天才のペースに乗せられてはならない。しかも、相手は悪の側。自分は正義を執行するためにここに来たはずだ。
だというのに、このざわつく肌は、耳は、視聴覚は、全て、その善悪の議論を欲している。
心の奥底で、シトロンの正義を語らいたい。どうしてなのか。自分でも理解不能であった。
「自分で自分が分からないのだろう? ヨハネ、キミは思っているよりもずっと、エゴに塗れている。自尊心と、プライド。キミはエスプリの補助をしたいんじゃない。ずっと分かっているさ。ぼくだけだ、理解出来るのは。キミは――ずっと、エスプリそのものに成りたかった」
それこそが自分の原罪。
恐れるべき、己の罪科。
しかしこれ以上は。誰かが許してくれたとしても己が許せない。
「シトロン。決着をつけにきた」
「そう急くなよ。キミは、大事にするべきだ。ぼくだけが、キミの闇を直視しても、嫌悪感を抱かない。ルイは駄目だっただろう?」
それさえも見透かされているのか。
ルイは、あれは自分を拒絶した。己の正義のみに固執したヨハネを嫌悪で跳ね除けた。
だが、自分は心の奥底で渇望しているのだ。
自分の理解者を。
誰かが、いや、誰でもいい。分かってくれる存在を。
それが悪でも構わないのだと。
だから正直、マチエールがフラダリの娘だと聞いた時、誰よりもまず、安堵した自分を見つけた。
ああ、正義の徒。そのために存在する少女でも、原罪はある。拭えない血の決着は存在するのだと。
だから、自分は安心出来た。
しかし、フラダリとマチエールの決着がついた今、もう逃げられない。
自分は自分の手でのみ、決着をつけるべきだ。
シトロン。
己を写し出す鏡に。
「僕はともすれば、お前になっていたかもしれない」
「理解しているよ。技量、知識の面ではなく、そういう存在になっていたかもしれない、という危惧。キミは、分かっている。自分が、フレア団側になっていたかもしれない、紙一重であった事を。だからこそ、分を弁えている人間の声には思えないんだよ。ここで、ぼくを殺そう、というのはね。何がそうさせる?」
「エスプリの、マチエールさんのために」
「他人の理由を求めるなよ、ヨハネ。そうじゃない。ぼくらは、そうじゃないだろう?」
そうなのだ。そうではないのだ。自分は、きっとそうではない。他人の理由なんて詭弁だ。
全ては、自分さえよければいいと言う、エゴ。
その一つのエゴを直視するのに、マチエール達の側では眩し過ぎる。
自分は深遠に咲く花の前で、己の罪を吐露する他ない。
「……僕の本当の理由は」
「答えるんだ、ヨハネ。ぼくの前で、偽る事はない」
「僕の、本当にしたい事は……」
これ以上はいつもならば、邪魔が入る。だが今は絶対に邪魔など入らない。絶対に、告白しなければならない時だ。
刻限が訪れたのだ。
ヨハネはそっと声にする。
「僕は、正義の味方になりたかった」
「正義、ね」
シトロンは馬鹿にもしない。ヨハネはそのまま話の穂を継ぐ。
「でも、僕は力不足だ。ヒガサ先輩を死なせてしまった。アマクサ・テトラを倒したのもエスプリだ。それだけじゃない。今までの行動は全て、エスプリの善意から発生したものであって、僕のものじゃない。僕の、僕だけの正義じゃない」
己の正義の準ずる範囲などたかが知れている。しかしエスプリはいつだって高く跳んで見せた。
その眩しさが、目に沁みるほどだ。
染み入って、自分にはもう高く跳べるだけの足もない。
助手、という身分が辛うじて己を己たらしめている立場だ。それを排すれば、自分は何者でもない。
何者でもない、悪だ。
悪人なのだ。
天秤だと、シトロンは評したがその本質が悪ならば、最初から天秤は傾いている。
それは公平とは呼ばない。
人はそれを、支配と呼ぶ。
隷属と評する。
あるいは分かりやすく――力、とも。
自分はそれを欲しているだけの、弱くて小さい、ただの人でしかない。
「ヨハネ。だがこれからは、キミの決断だ。ぼくに肉迫出来て、キミに達成出来る選択肢は大きく二つ。この場でぼくを切り落とし、エスプリマグナへの布石を打つ。もう一つあるとすれば、ぼくに下り、ミュウツーの誕生を祝しようじゃないか。だってキミにはその資格がある。ミュウツーだって、キミは理解出来るはずだ。アレの存在価値を、他の凡百がどれだけ理解出来なかろうがキミだけは。分かっているはずだ。ミュウツーは革新なんだ。世界に革命する存在なんだよ。ヨハネ、分かるだろう? 世界を変えられる。世界を暴ける。これがどれほどの愉悦と祝福に包まれた事なのか、キミには分かるはずだ」
――ああ、分かるとも。
世界を我が物とする。
ベクトルこそ違えど、ヨハネの胸の内にあるのはフラダリと同じ。
王者として天に立つ、とは少し違う。
王者など、生易しい。
自分は神として、この世を制覇する。
それこそが、ヨハネ・シュラウドの原初の欲望であった。
己の罪と、その欲望を直視した時、ヨハネは決断に迫られていた。
ここでシトロンを放逐するか、あるいは執行するか。
二つに一つだ。何も難しくない。
ただ、一つだけ問わなければならなかった。
「僕の栄光か、それは」
何をつまらない事を、とでも言うように、シトロンは片手を上げる。
「キミの栄光だ。何も恥じる事はない」
「そう、か」
瞬間、クロバットの空気圧の刃がシトロンを掻っ切ろうとした。シトロンは咄嗟に跳躍する。
その脚力を保障したのはエレザードの瞬発力であった。
シトロンは振り返り、理解出来ないとでもいうような双眸を投げてきた。
「……嘘だろう? ヨハネ」
「嘘じゃない。僕の栄光は、要らない」
「欲しくないのか? キミはずっと、力への探求があった。エスプリになりたいんだろう? くれてやるよ。どれだけでも! 好きなだけ、キミは正義の味方になれる。素晴らしい事だ! それをぼくは祝福するし、何よりもキミのために――」
「それは、エスプリと出会った直後のヨハネ・シュラウドならば、受け取っていたギフトだったのかもしれない。でも、今の僕は、出会った直後じゃない。ユリーカさんを知り、マチエールさんを知り、コルニを知り、オーキド博士を知り、僕は分かった。渇望するのが正義の本質じゃない。正義は、気がついた時にはもう、手の中にあるものなのだと」
その言葉にシトロンが歯噛みする。初めて、天才の顔に苦渋が浮かんだ。
「馬鹿な! それでもキミは正義に成れる。憧れていたんだろ? なのに、手離すなんて!」
「僕の成りたかった正義に、マチエールさんは成ってくれる。きっと、僕よりも相応しく」
クロバットの翼の刃が交錯し、エレザードの電撃とぶつかり合うも、その干渉波はすぐに均衡を崩した。
育ての足りないシトロンのエレザードが突っ伏す。
クロバットが上空を支配し、次いで出現したクリムガンがエレザードの首根っこを完全に押さえつけた。
最後は極めつけにフーディンが念動力でシトロンの動きも制する。
その手にはやはり、というべきか切り札としてボタンが握られていた。
万力のように締め上げられた青い念力がその手からボタンを離し、こちらに渡してくる。
ヨハネは改めて、このシトロンという天才の底知れなさを感じたが、それも今この瞬間まで。
目の前には、自分との技量は明らかにかけ離れている、ただの未熟なトレーナーだけがあった。
「何でだ……、こちらに来れば、ヨハネ・シュラウド! キミの望むものは何でも手に入る。何でもだ! 欲しくないのか! キミは万能に成れるんだ! その憧れを! 胸の内に宿したまま、凡百として死んでいくのに比べれば、遥かに! 遥かにマシな選択肢だ! キミは永遠になれるのに……!」
「違うな、シトロン。僕は、永遠なんて欲しくない。きっと、そんなもの、どこにもないんだ。正義にも悪にも、永遠なんてこの世界には存在しない。永遠の善も、永遠の悪もない。それらがお互いに輪廻を繰り返し、互いの尻尾を噛み合う。それがきっと、この世界の」
「真理だと言うのか! 驕りが過ぎるぞ!」
シトロンの張り上げた声にヨハネは手を払った。
「違う、真理じゃない。真実だ。心がある。世界で最も大切なものは、ここに」
胸元を示す。拳を握り締め、その奥で鼓動する心臓を感じ取った。
この鼓動が刻み込んでいる。
脈動が、己の成すべき事を告げている。
成すべき事を成せ。その結果がどれほど残酷であろうとも、世界が応えてくれなくとも。
――世界の声が聞こえてくるのならば。
自分の、たった一つの人でしかない躯体が出来るのはせいぜい、そこまででしかない。
そこまでの、ほんの些細な、小さな決着。
「ヨハネ・シュラウド! キミは完全に成れた! その期を逃せば、もう訪れない。キミは、善と悪の問答に悩みながら生きていく。生き地獄だ。それを是とするか」
「いいんだ。生き地獄でも、その答えが見えなくても。探し続けるのが、人間なんだ」
「答えはこちらに在るのに、キミはそちらを選ぶのだな!」
いつだってそうだ。この世の諍いはただ一つの違いで起こる。
こちらとあちらが違う。
それだけの差で人は争い、奪い合っていくしかない。
その輪廻を、正すような大きな事は自分には出来ない。
ただ、目の前の間違いを正す事は出来る。己の欲深さを感じ取り、その上で進む道を決める事くらいは。
「僕は、もう綺麗事に生きる気はない。汚くっても、底意地が悪くても、生きているんだ。生き続けるんだ」
それがかつて、生きるのを絶望した人間の下す、この瞬間の答えであった。
エレザードが吼えて飛びかかってくる。
フーディンが防御膜を張り、その電撃を跳ね返した。クリムガンがエレザードを叩き落し、クロバットの翼が刃の切っ先のようにシトロンの首を捉える。
王手であった。
「ぼくに、勝ったつもりか……」
「少なくとも、もう負けはしない」
シトロンはフッと笑みを浮かべたかと思うと、その手を振るい上げた。
すかさずフーディンが封じるはずであったが、それを目にした途端、ヨハネは命令を止める。
自決用のナイフであった。
天才に似合わぬ無骨なナイフが全ての決着を物語る。
首筋が掻っ切られたかと思うと、血飛沫が舞った。
「何を!」
殺すつもりはなかった。このまま、己の罪を自覚してミュウツーを止めるために少しでも役立つかに思われたのに。
シトロンは恐らく名誉ある死を選んだのだろう。
白衣が赤に染まっていく。
かっ血する中、彼は最後の最後に呟いた。
「……ああ、何で最後に思い出すのが、妹の、ユリーカの事なんだろうな……ぼくの頭脳は完璧のはずなのに、最後の最後に、合理的じゃない考えをしてしまった」
本来ならば向き合うべき血の宿命。
それを反故にしたシトロンに下された罰は、そのようなものであった。
心を殺し、何もかもを欺いてきた男の末路は、この世で血を分けた妹への思い。
何もかもが傀儡に見えていた彼の眼差しの最後に向かう先が、皮肉にも兄弟への愛情であった。
己と何も変わりはしない。
姉を失った時から自分の時間は止まったままであった。その時間を進めてくれたのはマチエール達だ。
ラボで静かに息を引き取ったシトロンをヨハネは看取る。
彼の最期はともすれば、自分の鏡像であったかもしれない。
立ち位置が違えば、容易に彼の立場に成り得た。
半身を失った気分でヨハネはその遺骸を眺めていたが、やがて身を翻した。
自分の成すべき決着はついた。
あとはもう、信じるしかない。
マチエールの。最後の戦いを。