EPISODE137 運命
ハンサムハウスに無事帰還出来ただけでも僥倖であった。
ルチャブルに掴まって空を飛んだお陰で難を逃れた形でもある。
マチエールが転がり込むなり、ユリーカに現状を伝えた。
「ヨハネ君が……敵になった」
それを即座に読み取ったユリーカは目を伏せる。
「そう、か。ヨハネ君が」
マチエールは顔を上げて問い質す。
「驚かないの?」
「いつかは、こうなるような気がしていた。ヨハネ君は、正義と悪の両天秤の、限りなく中立な場所にいる。いや、いてくれていた。だからこそ、彼はエスプリと共に戦ってくれたのだろう。しかし、天秤は常に均等ではない。どちらかに転がる事はあり得る、という話だ」
「分かっていて……、じゃあ何で! 何でユリーカは止めなかったのさ。あたしなんて、ずっといても気づかなかったのに……!」
「私が言えば止まるのなら、ヨハネ君はここまでついて来てくれていない」
その言葉に全てが集約されている気がした。
マチエールはその場にへたり込む。
ヨハネは天秤であった。天秤だからこそ、ここまで戦い抜いてくれていた。
だがそれはいつ悪に転がるか分からない、その危うさがあったのを、自分は見ようともしなかった。
「じゃあどうすれば……。どうすればヨハネ君を止められたの!」
嘆くマチエールにユリーカは冷たく言いやった。
「知るか。自分で考えろ」
その言葉にマチエールはユリーカに掴みかかっていた。拳を打ち下ろそうとして、僅かに躊躇する。
それを目にしてユリーカが声を張る。
「こんなだから! 私達がこんなだから! ヨハネ君は行ってしまったんだろう!」
マチエールは拳を下ろしていた。自分達がいつまで経っても煮え切らない態度だから、ヨハネは愛想を尽かしてしまったのだ。
マチエールは機能停止したフレアエクスターミネートスーツのバックルを懐から出す。
何度起動しようとしても、うんともすんとも言わなかった。
「あたし達はこんなにも無力だった」
「ヨハネ君はそれでも、私達を信じてくれていた。いつかは以前のように、相棒になれると、信じてくれていたんだ。それなのに、私達は……お互いの身勝手で彼を振り回した。この結果は当然だと言える」
ヨハネはもう戻ってこない。
その後悔の念が胸を締め付けた。
コルニが身を翻す。
「どこに行く?」
「アタシ、まだやれるって信じているから。だから、こんな泣き虫と一緒にいたくない」
冷たくあしらった声音にマチエールは反抗の気力も起きない。
「私も一度、作戦を見直そう。ここは割れているも同然だ。ルイ、お前も来い。別の場所でこれからを考える」
ユリーカも席を外そうとする。さすがのルイでもうろたえたようであった。
『いや、でもよ……。マチエール一人なんて』
「こいつ自身が、もう一度奮起しない限り、私達は手を貸さない」
ユリーカとコルニが出て行く。ルイもシステムの足跡も残さずに去っていった。静寂が降り立っていた。
ハンサムハウスに残されたのは自分一人。
何も出来ない、自分一人だけ。
「こんな時、どうすればいいんだ……。教えてよ、おやっさん」
すがったところで、もう死んだ人間に何を望むというのだ。
その時、テレビが自動的に点灯し、プリズムタワーを映し出した。
『ミアレに住む紳士淑女の諸君。御機嫌よう。俺の名前はアマクサ・テトラ。率いる組織はアドバンスド。死なない兵達だ』
「アマクサ……テトラ。何のつもりで」
テトラは大仰に手を払い、バックルを腰に装着する。
瞬間、変身が成されていた。白の姿に黒いマントをなびかせる。
『この姿の名前はエクリプス。貴様らを守ってきたエスプリとは対照的な存在だ。俺はエスプリを倒し、この街の実効支配を宣言する』
テトラ――エクリプスはそう言いやり、他の仲間にも変身を促した。
全員がロストイクスパンションスーツで変身し、それぞれのユニゾンを開花させる。
『フレア団でさえも、俺達には敵わない。ミアレ市民の諸君、地獄を楽しむんだな。今日より、支配基盤が大きく変わる。もう街の守り手は死んだ。これから先は暗黒時代の始まりだ』
ただし、とエクリプスは付け加えた。
『俺達の仲間になる、というのならば話は別だ。軍門に下れ、弱者共よ。そうすれば炎の中に大切な人を失わずに済む』
無茶苦茶な理論だ。マチエールは覚えず立ち上がり、拳を握り締める。
「……ふざけるな」
『ミアレの人々よ。十三時間くれてやる。その間に、判断を下せ。賢明な判断をした者だけが、明日を生き残れる』
その言葉を最後に通信は途切れた。マチエールはテレビを殴りつけていた。悔恨が滲み、マチエールは物に当り散らす。
壁を割り、破砕するだけの力があっても、アドバンスドには敵わない。
「どうすればいいんだ……、あたしは」
「――見ぃつけた」
その声にマチエールは部屋を跳ねた。ハンサムハウスの扉を蹴破ったのは炎の一撃であった。
「お前は……」
「せっかくもらったファイアのユニゾン。あんたに使うのが一番に相応しいって思ってね」
ファイアのEスーツを保有するレイが押し入ってくる。数人続いたのはディルファンスのエクステンドスーツ部隊だ。
「こいつ……まだポケモンを持っていやがる」
「ニャスパーか。戦力に数えるまでもない。スナッチ、用意」
その命令に一人がスナッチフィールドを形成する。
最悪の事態だ。
〈もこお〉を使えず、なおかつ自分にはEスーツもない。
レイが歩み寄り、炎の回し蹴りを叩き込もうとする。バック宙をしたマチエールはその一撃は避けたが、続く攻撃をさばき切れなかった。
炎の拳が鳩尾へと叩き込まれ、部屋の隅まで吹き飛ばされる。
ユリーカの書斎を突き破り、書類の束が舞い上がった。
霞む景色の中、マチエールの目の前に転がってきたのはモンスターボールである。
だが中身のないブランクであった。
――こんな時に、助けになるポケモンもいない。
背筋を踏みつけられ、マチエールは苦悶の声を上げた。
「このままじりじりと焼き尽くしてやる。もう命があっても意味があるまい! この街の守り手、エスプリは、死んだ!」
足から炎が点火し、マチエールの服飾を焼き焦がそうとする。
どうせ終わるのならば潔いほうがいいか。
そんな考えさえも過ぎってしまう。
ヨハネに捨てられ、コルニとユリーカの助けもない。
誰も、自分など必要としていないのだ。
諦めかけたその時、〈もこお〉の思念がレイを締め上げた。
顔を上げたレイが〈もこお〉を認める。
「ニャスパー風情が、邪魔をするな!」
炎の砲弾が〈もこお〉を巻き込んでハンサムハウスを焼き尽くそうとする。
――堕ちる。
何もかも。思い出さえも焼け落ちていく。
レイの蹴りがマチエールの背筋を打ち据え、床を破砕した。
激痛と朦朧とする意識の中、倒れ伏した〈もこお〉が視界に入る。
〈もこお〉が取り出したのはバックルであった。
ハッとしてマチエールは自分の懐を探る。
フレアEスーツのバックルが手にはある。だというのに、〈もこお〉もバックルを保持していた。
「何で……〈もこお〉……」
その時、切り込んできた意識があった。
〈もこお〉のパワーだ。
思念が自分に訴えかける。
その主はヨハネであった。
――マチエールさん。僕が信じる正義が死んでいないのなら、あなたは……。
意識の奔流が脳髄に切り込み、マチエールが仰け反る。
降り立ったレイが怪訝そうにした。
「もう終わり? それとも、そのニャスパーで戦う? もっとも、スナッチフィールドの中でポケモンを使うなんて自殺行為だけれどね!」
哄笑を上げるレイにマチエールはよろめきながら立ち上がった。
その手にあるのはブランクのモンスターボールと、受け取った意思そのものであった。
〈もこお〉の預かっていた意味。
それを今、心が理解した。
もう片方の手にバックルがある事に気づき、僅かに色めき立ったが、レイは鼻を鳴らす。
「フレアEスーツは起動しない!」
「……違う。ヨハネ君、ありがとう。本当に、それしか。あたしは、まだ戦える。エスプリは死なない! 正義を信じる心がある限り、何度だって蘇る!」
「戯れ言を! だったらこれを受け止めてみろ!」
Eスーツ部隊がナイフを振り翳し、全員がハンドルを引く。
『エレメントトラッシュ』の音声が連鎖する中、マチエールはバックルを腰に装着した。
ベルトが伸長し、待機音声が鳴り響く。
『ロストイクスパンションスーツ。レディ』の音声にレイがたじろいだ。
「何で……ロストイクスパンションスーツは全部、回収したはず……」
「託してくれたんだ。ヨハネ君が。なら、あたしはそれに応じるまで! Eフレーム、コネクト!」
瞬間、黒い鎧がハンサムハウスを引き裂き、暴風を生じさせた。
「どこから……」
圧倒されるレイを前に、マチエールは変身を遂げていた。
黒い鎧に、片目だけの複眼。その手にあるモンスターボールを〈もこお〉へと振り向ける。
〈もこお〉は自らモンスターボールへと入り、突き出された。
「まさか……」
〈もこお〉の入ったモンスターボールをマチエールはバックルに埋め込む。
瞬間、薄紫色の電磁が跳ね、浮かび上がった光が複眼を染め上げる。
全身に走った薄紫のラインと、巻き起こった強力な思念の渦がその属性を物語っていた。
「――あたしの名は、エスプリ。サイコユニゾン」