EPISODE135 悪徳
カレンの待つミアレホテルに訪れたヨハネは早速、その部屋に招かれていた。
目を凝らすと本当に姉にそっくりなのだ。
身振り手振りなどもほとんど、自分の記憶するカレン……カレン・シュラウドそのものである。
「その、僕は聞きたい事があって」
「まぁ、今はお茶でもどう? さほど急く用事でもないでしょう?」
だが、アドバンスドは力をつけている。ディルファンスを取り込み、今も街の支配を手に入れようとしているのだ。
それをどうやったら止められる?
どうすれば、自分はマチエールやコルニに頼らない戦いが出来る?
その自問の渦にカレンはそっとその手を握り締めた。
「強張った手……そこまで思い詰める事はないのよ」
ああ、この声も、だ。
考え過ぎな自分をいさめるこの声も、記憶通りなのである。
どうしたって疑えない。
カレンは自分の姉なのか。ならばどうして、今さら現れたのだ。今すぐに問い質したいが、ヨハネは口をつぐんだ。
もし、姉ではないと言われてしまえば。
その時、自分は何を信じればいいのだろう。
何もかも分からない混迷の中に身をやつし、どこで立っていればいいのだろう。
「僕は……」
「マチエールさんやコルニさん、だったかしら。彼女らはとても強いのね。アドバンスドの情報をすぐに自分達で再考して、打って出ようとしている」
「僕はあの二人を止めるべきなんでしょうか」
アドバンスドはそう容易い相手ではないはずだ。そう言って抑止力になるべきなのだろうか。
カレンは目を伏せて、どうかしら、と言葉を彷徨わせる。
「止める事だけがあなたの存在理由でもないでしょう? もしかしたら寄り添って、一緒に戦う事だって」
「出来るんですかね……。だって僕はいつだって、彼女らの背中を見つめ続けるばかりで」
自嘲気味に発した声にカレンが顔を窺って言いやる。
「きっと、出来るわよ。あなた、誠実だもの」
誠実。
本当にそうなのだろうか。
自分は、マチエールやコルニを裏切らないで済んでいるのだろうか。
どこかで答えを保留しているようで、自分でも分からない。何が正答で、何が間違いなのか。
フレアエルダースーツを破壊したエスプリの力。あれは制御の難しい代物だ。
誰かがストッパーを買って出なければならないだろ。だが、それは自分なのだろうか。
「僕は……本当に……」
そこでカレンのホロキャスターが鳴り響いた。彼女がそれを手に取ると、すぐに驚愕に顔を塗り固める。
「何ですって? アドバンスドのアジトが割れた?」
ヨハネは覚えず立ち上がっていた。
「そんな……」
「ちょっと待って。シュラウド君、事態は思ったよりも深刻よ。彼女らが単身、そこに向かった」
ヨハネは今すぐにでも飛び出しかけてカレンに腕を掴まれた。
「今から行っても、間に合わない」
「でも! エスプリとイグニスが戦っても勝てるかどうか……!」
「それは貴方も同じよ、シュラウド君。今はそちらで待機しているのならば、待機させておいてくれと、ユリーカ局長が」
「ユリーカさんが?」
どうして。自分は戦えるのに。
ユリーカの考えが分からない。
「とりあえず、今は静観すべきでしょうね。私は向かうわ。貴方はここで待っている事。いいわね?」
そう確認してカレンは部屋を出て行った。
ヨハネはしばらくソファに身を預けていたが、やがて立ち上がった。
「放っておくなんて、出来ない」
拳を握り締め、ヨハネは飛び出していた。
「廃工場、か。好きだねぇ」
そうこぼすコルニを引き連れて、マチエールは周囲を見渡していた。
既にコルニはルチャブルを繰り出しており戦闘形態だ。自分も、と感じていたが、相手の出方を慎重に見る必要があると感じていた。
「ここは出来るだけ、万全を期したほうがいい」
「そいつは賛成。でもさ、どうせ戦う事になるでしょ」
「だからって、あまりに不用意だと」
その時、足音が連鎖する。
廃工場に展開したのはEスーツ部隊であった。恐らくはディルファンスの人々の纏っているものだろう。
「反逆者か」
その声音にマチエールが眉を跳ねさせた。
「どっちが……」
「それには同感。どの口がって言う感じだし」
バックルを取り出した二人へとEスーツ部隊の攻撃が見舞われた。一人のEスーツが持ってきたのは長大なガトリング砲である。
そこから連射された銃弾が薬きょうを撒き散らし、二人のいた場所を粉塵で染め上げた。
「やったか?」
その声音に塵芥の中から赤い炎が現出する。
『コンプリート。ファイアユニゾン』の音声と共に手首と足首から炎が迸る。
すぐさま肉迫したエスプリがまだヘルメットのバイザーが降りる前に反撃する。ガトリング砲が折れ曲がり、そのパワーで投げ飛ばされた。
変身途中であったコルニが口笛を吹く。
「そりゃそうだ。今まで街を守ってきたのに我が物顔で街の反逆者なんて言われたら誰だってキレる」
変身完了したコルニ――イグニスが右手の腕時計型端末に手を添えた。
Eスーツ部隊がナイフを構えて戦闘形態に移ろうとするのを、次の瞬間、その声音が押し留める。
「待て! 奴は……!」
「遅い。Eフレーム、ネクストイグニッション!」
装甲に銀の血潮。青い装甲板が輝き、内側に燻る炎を点火させる。
胸部装甲が展開し、内部機構を露出させた。
「イグニスコア! 命、暴発!」
その言葉が消えるか消えないかの刹那、イグニスコアが高速機動に入っていた。
Eスーツの背後に回り込んで回し蹴りを叩き込む。
さらに同じく攻撃に転じようとしていたEスーツのナイフを真正面から奪い取り、ナイフの柄でバイザーを叩き割った。
「脆いね。案外」
イグニスコアの全員を射程に入れて必殺攻撃を加えようとする。
その瞬間であった。
「騒がしいな」
エスプリがその声の方向へと目線を向ける。イグニスコアも機動を止めて視線を振り向けた。
「俺達の根城に、随分と珍客が訪れたようだ」
一人の精悍な顔つきの男を中心として、ロストEスーツを纏った者達が歩み寄ってくる。
資料にあった顔と同じだ。エスプリは忌々しげに口にする。
「アマクサ・テトラ……」
「ご存知とは。こちらも窺い知っている。街の守り手、エスプリ。それに復讐者、イグニスだったか」
「知っているなら話が早い。ポケモン、返してよ」
イグニスコアの声にテトラは笑い返す。
「おいおい、せっかく得た力、易々と返すわけがない」
「じゃあ、どうする?」
詰めた声のエスプリにテトラが睨んだ。
「なるほど、その声音と態度から……本気のエスプリと戦えると思っていいのかな?」
テトラが懐から取り出したのはEスーツのバックルである。コルニは覚えず、と言った様子で身構えた。
「ロストEスーツか」
「ロストEスーツ? 否。それは俺の仲間、アドバンスドの持つ力であって俺のものじゃない。俺は――神だ」
腰に装着された途端、待機音声が鳴り響く。
『フレアエターナルスーツ。レディ』
「フレア……」
「エターナル、スーツだと……」
「見ておけ、エスプリ。貴様らの敗北を。あえて言おう。Eフレーム、コネクト」
その言葉が発せられた瞬間、鎧が空を切り、テトラに装着される。組み上がっていくその姿にエスプリが息を呑んだ。
それは紛れもない……。
「白い、エスプリ……」
イグニスコアの感想はそのままだった。そのまま自分の感想だ。
まるで生き写しのように、白いエスプリが佇んでいる。
「これがフレアエターナルスーツのその姿。だがこれだけじゃない。自らを凡才と称したクセロシキ副主任は悪魔のスペックをこのスーツに宿した。見るがいい。これが、神の力だ」
手にされたのはモンスターボール。バックルに埋め込まれたと思うと、全身に黄金の光が駆け巡った。
『コンプリート。アルセウスユニゾン』の音声にエスプリは困惑する。
「アルセウス……」
「知らないか? この世界そのものを創造したとされるポケモンだ。まぁ、俺は眉唾レベルに考えているが。神話クラスのポケモンをEスーツで運用した場合、何が起こるのか」
バイザーに浮かび上がったのは眼球の文様である。黒いマントが出現し、手を払うと旋風が巻き起こった。
「こけおどしだ。行くぞ!」
イグニスコアが高速機動を試みる。その圧倒的な速度に比して、相手は冷静沈着であった。
「イグニスコア……速いだけが取り柄か。ならば、これで行こう」
ベルトのサイドに位置するのはイグニスと同じ、ユニゾンチップだと思われたが、その形状が違う。
カードなのである。
一枚のカードをテトラはアルセウスの入ったボールとバックルの隙間に入れ込んだ。
『エレメントプレート。エレクトリック』
その瞬間、青い電流がのたうち、テトラの腕から雷撃の剣が出現する。振り翳したテトラがイグニスコアと打ち合った。干渉波が飛び散る。
「何だ、このエネルギー体は」
「雷の剣。分かりやすく言うならば十万ボルトか」
もう片方の手からさらに剣が出現する。イグニスコアの装甲を焼き切った剣の一撃に、覚えずといった様子で後ずさっていた。
「ただの、ユニゾンじゃない?」
「ユニゾン? そのような領域は最早超えている。エレメントプレートシステム。アルセウスはプレートによってその属性を変える。それを最大限にまで縮小し、スーツのために最適化したのが、このカードだ。エレメントプレートカード。全ての属性に対応している」
まさか、カード一枚でユニゾンと同等か、それ以上だとでも言うのか。
エスプリが震撼していると、テトラは挑発を投げた。
「どうした? 怖気づいたか? 街の守り手」
黙っているわけにはいかなかった。エスプリがハンドルに手をかける。
『デルタユニゾン、レディ』の音声と共にエネルギーラインに黄金の光が宿った。
「ファイアユニゾンブースト、だったかな。その仕様でどこまでついてこられるか。試してやるよ」
「……後悔する」
光速の機動に至ったエスプリが中空にラインを引きながら蹴りを見舞った。
それさえも常人では目で追えないほどの領域。
だがテトラはそれを受け止めて見せた。それが第一に驚愕であったが、攻撃の手を緩めるつもりはない。
二つ目の攻撃がすかさずテトラへと突き刺さろうとしたが、テトラは腕とマントでそれをいなし、エスプリの攻撃の直撃を免れる。
「運のいい戦い方を……」
「運、かな? 果たして」
地面に足をつくなり、拳を連続で放つ。手刀も交え、テトラの首を刈ろうとしたが、それら全てが見えているかのようにテトラは回避する。
「このっ! この!」
「……拍子抜け、という奴だ」
テトラの腕がエスプリの手首を掴み上げる。そのまま囁くように言い放った。
「もっと強いと、歯ごたえのある奴だと思っていたんだが。こんなならば、今まで渡り歩いてきた戦争のほうが随分と寝覚めにはちょうどいい」
振り解き、足に力を込める。回し蹴りがテトラの胸部へと叩き込まれたが、テトラは手で払うだけでそのエネルギーを霧散させる。
「案外、エネルギー効率も悪い。そろそろ時間切れかな?」
その言葉の直後、ファイアブーストが急に勢いを衰えさせた。必死に集中を切らすまいとするが、黄金の血潮から沸騰した蒸気が溢れ出す。
「何で……、まだ……」
「限界、という奴だ。エスプリ。フレアエクスターミネートスーツ。期待していたが蓋を開けてみれば……つまらない代物だったな」
テトラがプレートカードを入れ込む。『エレメントプレート。ロック』の音声と共に岩の巨大な刃が構築されていき、エスプリに向けて放たれた。
吹き飛ばされた形のエスプリにテトラが手を掲げる。
その掌から浮かび上がったのは小さな質量物体であった。細やかな球体が練り上がり、瞬時にエネルギーの磁場を形成する。
手が振るわれるとそのエネルギーの集積がエスプリのスーツへと襲いかかった。
灼熱と、それに伴う爆風が巻き起こる。
身を預けていたコンテナに引火し、巨大な破壊の瀑布を巻き起こした。
「裁きのつぶて。アルセウスの固有技だ。スーツにしたせいで単純威力は落ちているが、神の領域の技には違いない」
バックルからモンスターボールが転がり落ちる。ヒトカゲのモンスターボールへとエスプリは必死に手を伸ばした。
ここで終わるわけにはいかない。
だが、その手をテトラが足蹴にする。
「本当に……拍子抜けだ。エスプリ。もっと強く、俺達の道を阻むと思っていたが」
テトラがヒトカゲのモンスターボールを掴み上げる。
「レイ。お前、まだユニゾンを得ていなかったな」
レイと呼ばれたのはアドバンスドの中での唯一の女性であった。ロストEスーツを身に纏っているがまだユニゾンがない。
「火をもらえるの? それは光栄」
テトラが放り投げ、レイがキャッチする。そのバックルへとヒトカゲのモンスターボールが埋め込まれた。
『コンプリート。ファイアユニゾン』の音声と共に色のなかったロストEスーツに赤色が宿っていく。
満たされたようにレイは感嘆の声を漏らした。
「これで全員、アドバンスドは力を手に入れた」
テトラがマントを払い、エスプリを見据える。エスプリは、何とか立ち上がろうともがくが、足が言う事を聞いてくれない。
「その程度、か。つまらない存在だったな、エスプリ」
テトラが掌で再び「さばきのつぶて」を構築しようとする。その時、声が弾けた。
「クロバット、エアスラッシュ!」
空気の刃がテトラに襲い掛かる。それを払い落とした瞬間、テトラは反撃を放っていた。
クロバットに掴まったヨハネが必死に「さばきのつぶて」を回避しようとするが、避け切れずに落下する。
「ヨハネ……君……」
呻くエスプリにヨハネが手を振り翳す。
「お前ら……ヒトカゲまでも、奪ったのか……」
「それがどうした? 無力な少年よ」
「許さない……! 僕は、エスプリの助手だ!」
クロバットが信じられない速度で機動し、テトラの背後を取る。テトラはそれをいなしつつ、ほうと感嘆の息を漏らした。
「同調、か。それなりのトレーナーだという事だな。ならば、分かるはずだ。俺の使った攻撃の意味が。アルセウスの名の示すものが」
「分かったところで。僕は屈しない」
「そうかな」
テトラが両手を交差させた。その掌から「さばきのつぶて」が精製される。
「アルセウス自体が使うのではなかなかにチャージもいるのだが、スーツがそれを補正してくれていてね。連続で撃てる」
「クロバット!」
クロバットの空気の刃がその首を刈り取ろうとしたが、その前に発生した「さばきのつぶて」のエネルギーによる盾が弾いた。
「神の力を前に、通常ポケモンが役に立つとでも?」
歯噛みしたヨハネがクロバットを走らせる。だが、あまりに無策なのは見るも明らかだった。
「やめるんだ、ヨハネ君……。やられるだけだよ」
「でも! エスプリをここまでにした奴を、僕は!」
「許せない、か。だが、無力なのを知れ。少年」
ウォーターのEスーツが片腕をライフルに変えて水の銃弾を放つ。クロバットがよろめき、その隙を突いて、ファイアのEスーツが肉迫した。
その炎の足がクロバットを叩き落す。
当然、ダメージフィードバックがヨハネを襲った。
かっ血し、ヨハネはその場に膝を折る。
「アドバンスドの名は伊達じゃなくってね。どうする? このまま、死ぬまでやるか?」
テトラが歩み寄りヨハネの顎をくいっと上げる。ヨハネはその手を振り払い、クロバットに再び思惟を飛ばしたようだ。
「……残念だよ。少年」
その言葉と共に「さばきのつぶて」が全てを押し潰そうとした。
瞬間、火線が開き、テトラを打ち据える。
カレンであった。
その銃撃がテトラを襲ったものの、一過性のものだ。無力化には至らない。
「イグニス! 全員を逃がして!」
叫んだ声音にイグニスがコアモードに移行しようとするが、その前に動いたのはテトラであった。
「そうはさせない。フレアエターナルスーツ。エレメントトラッシュだ」
ハンドルを引くと重々しい音声が響いた。
『エターナルエレメントトラッシュ』
その直後、エスプリのEスーツが突然に解除された。
イグニスも同様である。突然の変身解除にうろたえた。
「何で……。変身出来ない……」
「フレアエターナルスーツの特権でね。俺の許可したEスーツ以外は全て、効力を失う。エターナルの名の通り、永遠に、だ」
つまりこの場で力を持っているのは、ディルファンスのエクステンドスーツと、ロストイクスパンションスーツ。それにテトラのフレアエターナルスーツだけだ。
後ずさったコルニにテトラは言いやる。
「恐怖だ。恐怖が貴様らを覆いつくし、地獄が始まる。この街を染め上げるのに相応しい、生き地獄がな」
マチエールは必死に立ち上がろうとする。だが今はテトラのプレッシャーが上であった。
「さて、ここで問答だが、ここに一つだけ。ブランク状態のEスーツがある。ロストイクスパンションスーツだ。これを」
放り投げた先にはヨハネがいた。ヨハネはアタッシュケースに視線を落とす。
「……どういうつもりだ」
「恐怖を、与える側になるか、それとも見る側になるかは観測する立場次第だ、少年。どうする? 貴様にならば、俺は与えてもいいと思っている。力という奴を」
その声音にヨハネは目を戦慄かせる。何を言っているのだ。マチエールは反抗の声を上げた。
「何のつもりで……、ヨハネ君を、たぶらかす気か」
「たぶらかす? 違うな。分かっていないのか、エスプリ。ヨハネ・シュラウド。その属性は我らと同じく――悪だと言う事を」
「ヨハネが……悪、だって?」
コルニの声にヨハネはじっとEスーツのアタッシュケースを見やったまま、硬直している。
「気づかなかったのか? 早くにはフレア団のシトロンが、いや、もっと前から、そちらの頭脳であるところのユリーカは理解していたはずだが? 彼は悪だ。悪の道に染まるべくして生まれた存在なのだ」
「何だって、そんな勝手な事を……」
「勝手な事、か。随分と取り入るのに成功したみたいだな、少年。貴様は自らを悪だと、今の今まで隠し通した!」
テトラの声にヨハネは反抗するかに思われた。しかし、彼は無言のまま、Eスーツのケースに手を伸ばす。
「駄目だ! ヨハネ君!」
叫んだ声にぴくりとその指を震わせる。ヨハネを惑わすテトラへと、マチエールはようやく立ち上がり、よろめきつつも構えを取った。
「それ以上は、あたしが……」
「許さない、か? 教えてやれよ、少年。貴様の過去に、何があったのかを」
過去。ヨハネの過去は一度だけコルニが見たという。どれほどの過去があったのか、自分は全く知らない。
「ヨハネ……君」
「姉さんがいたんだ」
不意に話し始めたヨハネはじっと、アタッシュケースを見据えていた。
「僕は元々、親も知らない。姉さんだけが、僕の唯一の肉親だった。でも、火事に巻き込まれて。姉さんは命を落とした。その時、僕も火災現場にいたけれど、何も出来なかった。立ち尽くすだけで、何も……。姉さんは正義の持ち主だった。その火事でも、残された子供達を守ろうとしたんだ。でも、僕はそれが今の今まで、どうしても理解出来なかった。他人のために命を張って何になる? 人間は、自らのためだけでも精一杯なのに。……だから、これは罰だ」
ヨハネが白く染め上がった髪をかき上げる。その手は吸い寄せられるようにEスーツのアタッシュケースへと触れられた。
「駄目だ! ヨハネ君!」
「……マチエールさん。僕はあなたに謝らなくっちゃいけない。何度も、僕はルイに進言していた。僕ならばエスプリをもっとうまく使えるって。そんな人間なんだよ。最低なんだ、僕は」
ヨハネがアタッシュケースを手にテトラ達へと歩み寄っていく。
マチエールはそれを止めようとしたが止める言葉が思い浮かばなかった。カレンも身を翻し、テトラ達と同行する。
「歓迎しよう。ヨハネ・シュラウド」
テトラの声にヨハネは一瞥を振り向けた。
マチエールが拳をぎゅっと握り締める。
「本当に、それでいいのか! ヨハネ君!」
その言葉にヨハネは言葉少なだった。
「……僕を見限っていい。だって、僕はもう、戻れない」
〈もこお〉が震えている。ヨハネに今まで懐いていた〈もこお〉がその身を離れた。
それが決定的な断絶に思われた。
こちらへと駆け寄ってくる〈もこお〉に対して、ヨハネは離れていく。
カレンが言葉を残していった。
「もし、これから先の日々が惜しいのなら、貴女達もすぐにミアレを出て行ったほうがいい。もう誰にも止められないし、誰も止まらない。地獄はもう始まったのよ」
その言葉を潮にして、アドバンスド達が立ち去っていく。
マチエールは呻いた。完全なる敗北であった。
コルニが虚脱したようにへたり込んで声にする。
「嘘でしょう。ヨハネ……」
ヨハネはアドバンスドと共に工場地区を去った。残された自分達は、最早無用の長物と化したEスーツを持て余す。
「どうしろって……、ヨハネ君……君は」
マチエールが慟哭する。コルニが咽び泣いて無力さを思い知った。