EPISODE116 怜悧
「何が起こって……」
その場に辿り着いた時、ヨハネの目にはEアームズの欠片しか見えていなかった。
単眼のパーツは確かにアリアドスアームズのものだ。
ヨハネは炎熱が漂っているにも関わらず、それを素手で握り締めた。
「何だって、こんな事を……先輩、あなたは何のつもりで……」
その時、単眼のパーツから焼け残った部品が転がり落ちた。ヨハネはそれを手に取る。
モンスターボールであった。
これほどの大爆発の中でも無事に、その内部のポケモンを守り通している。
「アリアドス……」
ヒガサのポケモンは、モンスターボールの中で弱々しく鳴いた。
ああ、と涙が伝い落ちる。
助けられなかった。ヒガサを、最後の最後にこちら側に戻せなかった我が身の不実だけが、この身体を震わせる。
「どうして! 僕には何も出来ない?」
争う事も、愚かしく奪い合う事も。自分は何者にもなれない半端者だ。
エスプリのように強くある事も出来なければ、ヒガサのように悪に染まる事も出来ない。
どうすればいい? その迷いの胸中に差し込んできた声があった。
(泣いているのか?)
その声の主へとヨハネは視線を移す。
子供ほどの背丈しかない、Eスーツの持ち主であった。
装甲の継ぎ目から垣間見えるのは人間とは思えないほどの白く透き通った肌。
ヨハネは咄嗟に臨戦体勢を取るが相手は片手を掲げて声を発する。
思念の声を。
(敵ではない)
「誰なんだ……お前は」
(いずれ、お前と敵になるか、それとも味方になるかは分からないが、わたしは、全てだと答えておこう。終点であり、始まりでもある)
戯れ言を、とヨハネは涙に暮れた顔のまま、クロバットに命じる。
「フレア団は、敵だ! エアスラッシュ!」
しかし、その矮躯は何かしたわけでもない。
ただ手を払っただけでエアスラッシュの刃が霧散する。
目を瞠るヨハネにその小さな影は呟いた。
(今はまだ、言っても無駄かもしれないな。だがいずれ、だ。決断の時は来る。その時、お前が何を選ぶのか、興味深いものは感じる)
「……僕はフレア団を倒す」
(それが今のお前の、正義、か)
矮躯は溶けるように景色に消えていった。
全てが一時の幻のように消え去る。ヨハネは灼熱に染まった大空を仰ぎ、慟哭した。
帰還を果たしたミュウツーに成された処置は大きく二つ。
一つは纏っていたEスーツの即時剥離。もう一つは培養液に戻す事。
一時的なEスーツはやはりというべきか、ミュウツーの身体に合わず、腐食していた。
まだ幼生体だというのに、この段階で既に驚くべきパワーを秘めている。
幼生のミュウツーが培養液に浸かり、そのまま身体を丸まらせた。
「素晴らしいね、ユリーカ。ここまでよくミュウツーを育ててくれた」
その皮肉にユリーカは歯噛みする。
自分が想定していたよりも速く、ミュウツーは成長している。それはイグニス――コルニの生存とイコールであったが、今は素直に喜べる気分ではない。
「祝杯と行こうじゃないか」
「……私は、頼まれてもこんな化け物、造る気はなかった」
「だが実際に完成が近い。ここに来て、アリアの裏切りは不明だが、どうせ、長持ちしないEアームズの被験者だ。これから先の時代には不要になる」
「Eスーツ部隊。それが席巻すると?」
シトロンは振り返り、眼鏡の奥の瞳を怜悧に輝かせる。
「ぼくが、それしか見えていないとでも? 既にエクステンドスーツは量産軌道に移り、さらに上位のEスーツも完成しつつある。万事、順調に、ね」
それは自分の抵抗など無意味であった、と言われているようでユリーカは歯噛みする。
「安心するといい。キミの功績は誰もが認めているし、このラボで一生を終わりたくないのならば、それも考慮している」
「……私は、思い通りになんてならない」
精一杯の抵抗の言葉にシトロンは肩を竦める。
「我が妹はまだ分からないのか。ミュウツーの完成こそが世界を最も平和に導けるって事が」
「フラダリの思想は間違っている。だが、お前の思想が正しいわけじゃない」
シトロンは眉を跳ねさせたが、それも一瞬。すぐに笑みの能面に隠す。
「分かっていないね。フラダリは意見に同意しただけで、彼をいつでも、王の身分から人の子に戻す事は出来るんだ。フレアエンペラースーツは確かに帝王のスーツではあるが、帝王はそれだけで立っているに非ず。人民の力添えあっての王だ」
「市民は反旗を翻す。このままで、フレア団の支配なんてなると思うな」
シトロンは眼鏡のブリッジを上げて思案の声を漏らす。
「強情だな。そこまでして、キミが言いたい事が分からない。フレアエクスターミネートスーツは闇を育み、来るべき時に、ミュウツーとぶつかる。その時。どちらが残るのかは、言わずもがなだ」
「人の意思はそう簡単に折れない」
「どうだかね。いつだって人の意思なんて、役立たないものだよ」
ラボから出て行くシトロンの背中を睨みつけながら、ユリーカは声にしていた。
「……ルイ。ミュウツーの完成度は」
『四十パーセントですが、これでも相当です。そこいらのポケモンじゃ、敵わないでしょうね』
客観的な意見にユリーカは椅子にへたり込む。
シトロンと言い争いをするのにも疲れる。この環境がそろそろ限界であった。
「クセロシキへと送った文言は?」
『確認中ですが、デデンネが帰ってこない事には……』
その時、小さく鳴き声が聞こえた。パイプラインを通ってデデンネが歩み出てくる。
その口元には手紙がくわえられていた。
すぐさまそれを読み解く。
「そうか……アリアが死んだか」
やはり、というべきか、ここで行動を起こすのは彼女だと思っていた。体面上は組織を裏切っての行動。だがその実、自分の意見に賛同してくれたからに他ならない。
「破壊の遺伝子がマチエールを伝って向こうのルイに渡ったはずだ。問題なのは、向こうのルイが主人を見限るかどうか……」
それだけがまだ賭けのレートとして正しくない。ユリーカの思案にルイが声を差し挟む。
『ボクならば、裏切りません。だってボクらは造られたシステムですから』
「そう、システムのはずだ。だが、ルイ。いいや、ルイ・アストラル。私はお前をただのシステム以上に、人間として造った。それをシトロンも行っているのだとすれば、ルイ・オルタナティブの判断には迷いがあるはず」
『それを突ければ……』
「あるいは、という話だな。どちらにせよ、こいつの前で秘密話は意味がないだろう」
眼前にはミュウツーの入ったカプセルがある。
今すぐにカプセルに毒素を滲み込ませてミュウツー破壊を企てたいところだが、ミュウツーはその程度では死なない。
不死の細胞がそれを約束している。
四十年もの間、全く変化しなかった基の細胞。
不死身の遺伝子。全てのポケモンの祖、ミュウの力。
「結局のところ、ミュウツーを倒す術はヤマ勘に近い。私とシトロン、どちらの賭けが勝つか、の話になる」
確率を変動させる事は出来る。事実、今の今までやってのけていた。問題なのは、それすら意味のないほどにミュウツーが完成した場合だ。
コルニの生存は安心材料であるのと同時に不安もある。
コルニが戦えば戦うほどにミュウツーは成長する。
かといって彼女に復讐をやめて田舎に篭れとは言えない。コルニの運命の決着を自分は見届ける義務がある。
「組織のナンバーツー。割り出しは?」
『やはり無理です。コードネーム、ファウスト以外は何も』
少しでもコルニに役立てれば、と思っていたが、自分は無力らしい。項垂れて、ユリーカは反乱の時を見据えていた。
その時は決して遠い未来ではない。
ミュウツーを破壊し、マチエールとヨハネの下に帰る。
そのためならば悪にでもなろう。
ユリーカはぎゅっと拳を握り締めた。ここまで来たのだ。もう後戻りなど出来ない。
カプセルの中でミュウツーが気泡を上げた。この生命体を破壊する唯一の術は今、外に放たれた。
今はその種が芽を出すか、それとも種のまま費えるかどうかはかけるしかない。
「コルニからの連絡は?」
『依然として……。コルニさんは、やはり情報通りに』
ファウストを叩く腹積もりであろう。だが、その時、全てがコルニの敵にならないとも限らない。
「あいつに与えるべきものは全て与えた。私は、待つ事しか出来ないよ」
コルニが動くか、それともマチエールが導くか。
どちらにせよ、大きな組織の動きがあるのには間違いはないだろう。
「見ていろ、シトロン。人間は、お前の思っているほど安易ではない事を」
オーキドがスタッフに支えられてハンサムハウスへと帰ろうとする。
その帰路にミアレの市民が賞賛を送った。
鳴り止まない拍手は本来、自分ではなく戦ったエスプリに投げられるべきものだ。そう言いたかったが、今は分かりやすい形での収束が求められていたのだろう。
適度に手を振り返し、オーキドは車に乗り込んだ。
リムジンタイプの車両の後部座席に既に座り込んでいる影がある。
何者か、問うまでもなかった。
「フレア団だな」
「正解。ただね、私、王とは決定的に違うのよ。あの人みたいに理想主義じゃ何も得られないって分かっている」
視線を振り向けようとすると、女は拳銃を突き出した。いつでも頭に撃ち込む事が出来るという牽制。
「振り向かないで。と言っても、私の声で誰かは分かっちゃうかもしれないわね」
「老体にとっては声で誰か分かるなど、そうでもない。して、何用でここに?」
「オーキド博士。あなたにはフレア団に舞い戻っていただく」
その言葉にオーキドは鼻を鳴らした。
「何のために、かな? ワシはもう老いた。ミュウツー育成ならば他を当たれ」
「ミュウツーも、フレア団の一面に過ぎない。私は、それではないものを目指している」
胡乱そうにオーキドは声を投げた。この女は何を目的としている。
「……不思議じゃなぁ。ワシの知っているフレア団は、目的のために手段を選ばぬイメージじゃったが、ここでは交渉をしようと言うのか」
「ミュウツーのために要る、と言えば分かりやすいけれど、それは外面的な話。プロフェッサーシトロンの思想が全てではない」
フレア団も一枚岩ではないという事か。得心すると共に、この女がここで接触してきた意味を問い質す。
「何の用じゃ? ワシに用があるにしては、随分とまどろっこしいぞ」
「あなたを牽制しに来たのよ。エスプリの下には帰らせない。プロパガンダの役に立つという意味では、フレア団に戻ってもらうのが正しい」
「ワシはフレア団に属した覚えはない」
「ではここで頭蓋を撃ち抜かれるをよしとしますか? それでも私は一向に構わないのだけれど、でも死体が横に並ぶのはどうにも、ね」
その言葉遣いと超然とした佇まいから、オーキドはある一人の存在を察知した。
「……お主、よもやファウスト、なる存在か」
「……驚いた。知っていたのね」
「となれば、全てが紐解かれる。このカロス、全てがなるほど、お主の掌の上というわけか」
「フレア団が実質支配している。王であるフラダリがこのカロスを選民思想で染め上げようとしている。それ止めるのは正義の味方、エスプリ――このシナリオが私としては好ましいのだけれど?」
エスプリも所詮はこの女にしてみれば道具でしかない。だが、イレギュラーを抱いているのならばもう一つ。
「イグニス……いや、シャラシティのコルニ、か。どうしてあのような小賢しい真似をした?」
「必要悪だと、思っていただいて結構。必要であった、だから演出した」
「もしもの時、フラダリを殺せる人間を育てるためか?」
その言葉に女は沈黙を返す。どうにも読めないが、その目的が邪悪である事だけは確かのようだ。
「王は暴走の域にある。前回のエスプリとの戦闘で分かった通り、フラダリの思惑だけでは、このフレア団という組織は滅びの一途を辿るわ」
「では、王を変えればいい」
「そう容易く頭が挿げ替えられるのならば、フレア団はここまで大きくなっていない。フラダリだからこそ出来た。でも、それはある種、腫瘍を抱えているようなもの。悪性腫瘍を抱えつつ、生き永らえなければならない。それは運命とも言い換えられるけれど、でもあまりに不合理じゃない?」
「悪性ならば、切り取ってしまえばいい、と。そのためのイグニスか」
もしもの時に調整者となり得る存在を育てるために、コルニは全てを奪われた。
そのシナリオに女はほくそ笑む。
「なかなか出来たシナリオでしょう? イグニスが王に負けたのは、拍子抜けだったけれど、また生き返ってやってきた。私を殺すために」
「イグニスに殺されるとは、思っておらんのか」
オーキドの言葉に女は笑い声を上げる。
「何を言っているの? イグニスじゃ、私を殺せないわ。殺せるのならばとっくに辿り着いている頃合だもの。あの子は遠回りしている。その遠回りを私は利用出来るだけ利用して、この位置についた。今の私を殺そうと思えば、少しばかり面倒が生じる」
「どうかな。ワシの命を踏み台にして、連絡すればあるいは、でもある」
「無理よ。既に手は打ってあるもの」
この女の言う事だ。それは事実なのだろう。
「で? ワシはいつまで銃口を向けられたままなのかな?」
「車を出して。行き先はフレア団本部」
「ワシがもし、イグニスに追尾されるように端末を持っていたとすれば? そんな考えはなかったのか?」
「そうね……もしそうだとすれば、面白いものが観られるわ」
「面白いもの?」
オーキドは懐に忍ばせた逆探知機を既に起動させている。
コルニからもしもの時に付けておけと言われていたものだ。そのもしもがまさかこんなに速く訪れるとは思っていなかったが。
「私の仲間はそう容易く折れはしない。展開しておいた。二人を超えられない限り、イグニスも、もっと言えばエスプリだって無理よ。私を殺せない」
「そうかな。あの二人は手強いぞ」
「その台詞、そのまま返すわ。私の手の二人も相当な武道派よ。一人は、ハンサムハウスに。もう一人は、私の警護に当たってもらっている」
つまり、この車の護衛か。なるほど、手を回す速度だけは食えない女だ。
「じゃが、イグニスは強い」
「そうね。それもよく知っている。でも、私が育てた闇が、私を食い破るなんてそんな事、あり得ない」
この女は心の底からあり得ないと思っているのだろう。自分の育てた闇に食い潰されるなど絶対にないと。
オーキドは肩を揺らした。それを怪訝そうに女は睨む。
「何が可笑しい?」
「いや、お主、やはり手ぬるいの。言っておくがワシの知っておるイグニスは、巻き込まれる命など頓着はせんよ」
その言葉が発せられた瞬間、車を激震が襲った。
女が後部座席でよろめく。
その瞬間、オーキドは素早く女の手をひねり上げていた。
交錯した視線がお互いの正体を看破する。
「何という事じゃ……お主が、ファウストか」
眼前にいるのはピンクの髪を整えた、鋭い眼差しの女性であった。
サングラス越しに怜悧な視線が射る光を灯している。
このカロスでこの女を知らないものはいない。
「ニュースキャスター、パキラ。それがまさかファウストであるなど」