EPISODE97 最善
「毒、か。アシッドボムの能力を拡大して、その側面を切り取ったようなものだな」
呟いたユリーカはどうしてこのような事をしているのだろうと自問する。
通常ならば、相棒としてその能力の是非を問うているところなのに、今自分は敵対する組織に身を置いて、エスプリの能力をはかっている。
これではまるで、と感じかけてユリーカは頭を振った。
『……マスター?』
「何でもない。エスプリは確実に進化している。このまま行けば、Eアームズなどすぐに追い抜くだろう」
しかし、フレア団には切り札があるのだ。自分はその管理を任せられている。
――ミュウツー。まだ肉腫から成長していないが、いずれフレア団が完成させるであろう稀代の発明。
自分の脳内では、ミュウツーの構築イメージは出来ている。それまでのプロセスも然り、だ。
だがこれを実行すれば一度、もう戻れない立場に立たされるであろう。それは容易に想像出来た。
「ミュウツーを完成させない事だけが、私に出来る事だからな」
『マスターにはもっと出来る事がありますよ』
ルイの慰めも一時の気休めにしか聞こえない。
ラボに幽閉された身では、外の世界を窺い知る事など出来ない。
あの場所と同じだ、とユリーカは項垂れる。
あの、ホロンという忌々しい研究棟と。
外の世界を知らず、ただ闇雲に研究開発だけをやらされていた、あのでくの坊であった頃と同じなのだ。
もう自分の意志で立てているつもりだった。しかし、一度でも足場がぐらつけば簡単に元の立ち位置に戻ってしまう。
自分の立場など所詮はその程度でしかなかった。
兄であるシトロンの掌の上で踊る事しか……。
「私にも意地がある。何があっても、ミュウツー完成だけはしてはならない」
この意地を張り通す覚悟であったが、直後に鳴ったブザーによってその覚悟は霧散する。
「何だ?」
何かがこのフレア団の地下階層で起こったのだ。それを示す赤いランプが点いている。ルイを走らせてフレア団基地をある意味では掌握していたので、すぐに位置特定は出来た。
だが、そこで言葉を呑み込む。
「ここは……玉座じゃないか」
フレア団の王。フラダリと名乗る男のみが座る事を許された玉座での異変。
それはともすればフレア団という盤面を覆しかねないものであった。
ユリーカは習い性でコンソールに取り付く。
「ルイ。何があったのかデータを集めろ。……あの男には勘付かれないように、だ」
『分かりました。ですが、この、玉座の出来事は……』
監視カメラに潜り込んだルイが戦慄する。次の瞬間に投射されたその光景に、ユリーカは絶句する。
「イグニス……。コルニ、なのか……?」
監視カメラに映っていたのは、獅子の威容を誇るEスーツが、コルニの纏うイグニスを屈服させた様子であった。
ユリーカは巻き戻して何が起こったのかを理解しようとする。
引き起こされたのはイグニス対フラダリという、不可思議な戦闘であった。
「……どうして、イグニスがフラダリと戦う? 意味が分からない」
確かにコルニはフレア団を敵視していた。しかし、それは自分の祖父の仇という一面だけだ。
それ以外は冷静に、ともすれば自分以上の平静を保っていた彼女が、猪突猛進の如く王に楯突くとは思えない。
ユリーカは今一度、コルニの情報を洗い出す。
組織のブラックリストに載っている人間だ。すぐにその情報が呼び出せた。
「シャラシティのコルニ。纏うEスーツはプロトエクシードスーツ。元々、プロトEスーツの発明者はクセロシキという副主任の研究者であった。しかし、何者かの手で強奪され、コルニの手に渡る。ここまでは、私の知っている情報と符合する。矛盾もない」
しかし、問題なのはそこからである。
自分が提案したオーキド奪還作戦の後、イグニスの脅威判定はAからCへと格下げされていた。
「何が起こったんだ……?」
そこから先を探ろうにもプロテクトがかかっている。下手に動けばシトロンに突かれかねない。
ユリーカは表面上の情報だけをなぞり、コルニの動きと今回の戦闘を符合させようとするが、どうにも納得のいかない部分が多い。
「何故、コルニが玉座に? そもそも、フラダリの纏っているこれは何だ?」
拡大させてみると赤い装甲のEスーツであった。銀色の血脈が宿っており、今までのEスーツとは一線を画しているのが分かる。
「これも、カウンターEスーツの招いたもの、だというのか……」
カウンターEスーツの戦闘データは様々なものに反映されている。
新型Eアームズであったり、フレア団の既存装備であったりするのだが、カウンターEスーツの経験値は今まで自分とマチエールがこの街を守ってきた証である。
それを土足で踏みにじられているようでユリーカはいい気分はしなかった。
『マスター……。これ以上はもう』
シトロンに捕捉されかねない。ユリーカは即座に命じる。
「ああ、ルイ。離脱しろ。それにしたって、この後どうなった? 時刻は……」
監視カメラの映像に記された時刻を読み取る。今、つい先ほどの映像であった。
フレア団がイグニスを殺す。その動機も充分にある。この場合、不干渉を貫くのが正答か、と考えていた矢先であった。
『……見ているな』
フラダリが振り向き、カメラに向かって言い放つ。
心臓を鷲掴みにされた感覚に陥ったが、ユリーカは深呼吸する。
落ち着け。相手からはこちらは見えないはずだ。
しかし、フラダリは確信を持ってイグニスを指差す。
『この反逆者を、死なせたくなければ協力するんだな。随分と兄の手を困らせているようじゃないか。ユリーカという娘』
確信する。
フラダリはこちらが見ているのを分かっていて、交渉をしようとしているのだ。
ユリーカはどうするべきか決めあぐねているとフラダリはこめかみを突き周波数を発言する。
その周波数に合わせると無線が開いた。
『シトロン主任の妹、か。血は争えないものだな。覗き見が趣味か』
重々しい口調にユリーカは物怖じしそうになりながらも、いつもの傍若無人な受け答えをする。
「それは光栄だな、まさか組織のトップに存在を関知してもらえるとは。あるいはこう言ったほうがいいか? 今の今まで、尻尾も見せなかった慎重な人間が、ここに来て愚策を犯した、と」
こちらの挑発に乗るか、とユリーカは期待したがやはりと言うべきか、フラダリという男はそう容易くはない。
『愚策、か。そうかもしれないな。わたしとしても乗せられたと思っているのだよ。シトロンという天才に』
「乗せられた……? 本意ではなかったと?」
『わたしは元々、彼女と戦うつもりはなかった。しかし、シトロン主任が持ちかけたのだ。フレアエンペラースーツ。帝王のスーツの試験に、と。常人の神経ではないよ。まさかフレア団の王とおだてられるわたしが、人体実験紛いの事をさせられるなど』
王ならばそう考えてもおかしくはないか。ユリーカは結論付けると同時に考える。何故、その王がシトロンを裏切る真似をする?
「分からないな。あなたは、シトロンについていたほうが賢いはずだ」
『そう、賢明な道ではある。しかし、彼とわたしの志の違いには、最早、うんざりするほど感じさせられたよ。彼は文明の側だ。文明を賛美し、発明を賞賛し、人間の知識と知恵の深さに感嘆する。まさしく、科学者である』
「あなたとて、そうだろう。フラダリ、という名前を調べてぞっとしたよ。あなたはホロキャスターの開発者であり、表向きのフレアエンタープライズの社長も兼任している」
まさか裏でもその人間が王とおだてられているとは思いもしなかったが。言外を汲み取ったのか、フラダリは口角を吊り上げる。
『表でも頭目、裏でも王、だ。人間ならばどこかに逃げ場所を求めたいものだよ。しかし、この世界には果てがない。わたしは、支配する側なのだ。それは自明の理である。……だが、支配者がそのまま、では自然の摂理の破壊者であるとは限らない』
そこでユリーカは疑問を挟んだ。この男は何を見据えている? 何のために、フレア団があるのだと思っている?
「あなたの本意ではない、とはそういう事か。つまり、あなた自身が、フレア団に懐疑心を抱いている」
『恥ずかしながら、ね。わたしが育てた組織でありながらあまりにも利己的な人間、つまり、わたしの心底嫌悪する人間の集まりとなってしまった。あるいは、そうなるのが運命であったのかもしれない。どの時代にも、暗躍する組織は存在するが長続きはしなかった。その一例に成り果てる。わたしは、その流れに拍車をかけるのが、シトロンという天才だと感じている』
「シトロンのエゴが、フレア団崩壊を早める、と?」
『そこまでは言わないが、あれはさらなる力を求めるのだろう? わたしの纏っている帝王のスーツなど、まるで意味を成さないような、本物の狂気を。心の奥に凶暴な側面しかない、邪悪を』
まさかミュウツーの事を知っているのか。否、ここは慎重に聞き出すべきだ。ユリーカは画面越しの男にプレッシャーを感じていた。
「……シトロンには確かに、読めないところがある」
『妹でも、か。よかろう。君になら明かしても構わない。実のところ、わたしも乗せられた、と言ったな。クセロシキの手引きによってイグニスはわたしの次席、つまり組織のナンバーツーと対峙する手はずであった。そしてそれは、わたしも望むところでもあったのだ』
「どういう……」
『組織のナンバーツーはシトロンをうまく転がし、わたしを排斥しようとしている』
その言葉にはユリーカも驚愕した。だが、これほどの人材の揃っている組織なのだ。入れ代わりが激しくないわけがない。
「つまり、その野望のために、あなたは利用されたと?」
『フレアエンペラースーツの敗北が本意であったのか、あるいはわたし自身の破滅が目的であったのかまでは判じ得ないがね。どちらにせよ、わたしとイグニスをぶつけて、何かしら探っていたのは確かだ。あるいはこうも言えるか。これさえもまだ、前哨戦。来る自らの野望のために、シトロンとナンバーツーは利用出来る駒を全て利用する』
末恐ろしい事のように思われた。復讐さえも利用するというのか。その矛先には自分達の打ち立てた王でさえも、その対象。
そこでハッと思い至る。
「……待て。ならばクセロシキ一派は」
『ああ、彼らにはわたしの勅命を回してある。シトロンの裏を掻け、と。言うなれば彼らこそが、君の味方だ』
思わぬところであった。クセロシキ一派が味方になるなど。しかし組織の中で自分以外の駒がいるのは大きかった。
「でも、天才の裏が簡単に掻けるとは思えない」
今の通信も傍受されていないとは限らないのだ。その可能性に思い至ったのか、フラダリは応じる。
『そうだな。しかし、これはわたしの作り上げたホロキャスターの秘匿回線。Eスーツを介さない通信だ。シトロンと話させているのはダミープログラムであるし、恐らくは気づかれていないだろう。希望的観測も、混じってはいるがね』
「クセロシキ一派と通話する手段は?」
『今のところは難しいだろう。しかし、君には電子の妖精がついている』
ユリーカはルイを一瞥し嘆息をつく。
「……自慢の電子の妖精も、ここじゃ形無しだ」
『それほどまでに強固、という事なのだろうな。だが、安心するといい。わたしは美しいものに焦がれている。だからこそ、今のエスプリを殺すとは思わないよ。彼女は美しいからね』
ある意味では、この男も歪みの象徴。美しさ、という曖昧な基準点はいずれ自らを追い込むだろう。それを分かっていて、シトロンは担ぎ上げているのか。
「……なるほど。なればこそ、問うが、フレア団の、その最終目的とは? シトロンの目的は依然見えない。しかし、目的次第では、あなた方に協力するのもやぶさかではない」
交渉権はあくまでこちらにあるのだ。ユリーカの詰問にフラダリは断ずる。
『愚問だな。わたしは美しいものだけを残し、それ以外は要らないと考えている。増え過ぎた人口、争いの絶えない現世、全てから解き放つ。それがわたしの、最終目的だ』
ユリーカは息を呑んだ。
――やはりこの男、歪んでいる。歪み過ぎている。
正しい事を言っているように聞こえるが、それは仮面だ。この男の内奥には、野望よりもどす黒い選民思想が見え隠れする。
畢竟、自分の選んだ人間以外は要らないと言っているのだ。この世界に。美しさ、という基準を置いて、この男は何もかもを滅ぼしかねない。
「……分かった。よぉく、分かった」
『賛同してもらえるか?』
「手始めに彼女を秘密裏に護送出来るのか? それが出来ないのならば私は協力しない」
『イグニスを? もう死んでいるぞ?』
「その判断は私がする。あなたに出来るのか、とだけ聞いている」
『……ダストシュートに紛れ込ませて回収は可能だ。シトロンの目を掻い潜るのには一度死ぬ覚悟くらいなくては』
「ならばその線で。私の協力は、彼女が送られ次第、始めよう」
ユリーカの言葉に満足したのか、フラダリの声は穏やかであった。
『よかった。断られたらどうしようかと、思っていたのだよ』
「イグニスは死んでいない。運んでくれれば、いつでもシトロンを倒す手はずを整えよう」
通信が切られる。不安げに顔を覗き込んでくるルイは、声を詰まらせた。
『……怒って、います?』
「ああ、最悪の気分だ、ルイ。あいつ以上に胸糞の悪い悪党と話したんだからな。しかも、それに全く気づいていない。自分の論理の破綻に気づけない悪は、いずれ滅びる。シトロンを御せない理由が分かったよ」
『じゃあ、断るんですか?』
「いや、ならばこちらも、せいぜい利用させてもらう。まずはコルニだ。彼女を私の一手とする。そのためには心を鬼にするしかない。フラダリも、シトロンも、クセロシキだって信用出来ない。やはり、この場所で戦うのは私一人のようだ」
『イグニスの再生……。可能なんでしょうか。見た限りでは、彼女も相当に』
分かっている。あの状態だ、死んでいてもおかしくはない。しかし、ユリーカは生きている可能性に賭けた。
「シトロンがマチエールを蘇らせた。その方法論が存在しないとは言えない」
『まさか、マスター、シトロンの蘇生技術を?』
「データを探ってみたが、やはりないな、手の届く範囲には」
『個人のデータに隠している、という事ですかね』
「だとすればお手上げだが、少しだけ吉報があるとすれば、フラダリは私をクセロシキ一派と引き合わせようとしているという事。つまり、私はここから動けないが、クセロシキ一派ならば、シトロンの個人データを物理的に奪える可能性があるという事だ」
現実で動けないのは自分のほうだが、クセロシキやフラダリを利用すればシトロンの裏を掻けるかもしれない。だが、そのためには……。
『一度でも、クセロシキ側と手はずを整えなければ』
そうでなければ打ち負ける。否、それ以前に、勝算が見込めないだろう。
ユリーカは思案する。如何にして、クセロシキと連絡を取るのか。恐らくフラダリはそれも加味してこちらの実力を見ている。
ルイを、と考えたがルイでは駄目だ。シトロンに真っ先にマークされる。それよりも、とユリーカが編み出したのは別方面であった。
「ポケモンだ。デデンネならば、通用口を通って行ける」
『でもデデンネに、マスターはほとんど』
「ああ、命令した事はない。難しいかもしれないが、これも一つの手だ。昔、というよりも私が生まれるよりずっと前にこういう文化があった」
言ってユリーカは書類の切れ端をデデンネに持たせる。デデンネはそれを抱えて通用口に立たされた。
「いいか? デデンネ。クセロシキの顔も分からない以上、これは一種の賭けに過ぎない。だが、成功すればクセロシキ側から何らかの接触があるはずだ。それを見逃すわけにはいかない」
デデンネは通用口からその小柄な体躯を活かして出て行く。この部屋から自由に行き来出来るのは自分でも、ましてやルイでもない。
デデンネに賭ける他なかった。
『マスター。ボクが言うのも何ですが……』
「分かっている。分が悪い。しかし、私はあのフラダリを信用し切ってやるほうがもっとまずい気がしてならないんだ。何か、大切なものを取りこぼすような」
『マスターはいつだって適切な判断を下してくれます。ボクだって分かっていますし、マチエールさんやヨハネさんだって……』
「マチエールに、ヨハネ君、か。情報の遮断されたこの部屋では、彼らがどれだけ活躍していても、こちらから応援物資を送る事も出来ない」
ルイ・オルタナティブが何を企んでいるのかも分からない今、下手に動けば逆効果になりかねないのだ。
慎重に手を打つ必要がある。ユリーカはいくつかの準備を踏む手はずを整えようとした。
まず一つ、と配線を抜き取り、端末を差し込んだ。ルイの傍受機能を使い、フレア団内で交わされる暗号通信を読み取る。
しかし、これはほとんど意味を成さないだろう。この部屋そのものが電波遮断のラボだ。広域通信手段を用いるフレア団の暗号通信を読み取るのは不可能に近い。
だからこれは、フラダリがこちらに接触を持ってきた時にその音声を記録する意味合いが強かった。
そうする事で不意の裏切りをお互いに防ぐ事が出来る。もっとも、フラダリとて考えに及ばないほど馬鹿ではあるまい。
自分との会話は録音していないはずがないのだ。
ここから先は一歩読み違えたほうの敗北となる。
「正直なところ、ヨハネ君と連絡を取れるのがベストなんだがな。しかし、依然として、私達がエスプリ側に出来る事はない。たとえフレアエクスターミネートスーツに彼らが脅かされていようとも警告一つも送れないんだ」
『……歯がゆいですね』
「今は耐えるんだ。それしかない。それしか、私達に出来る事なんて所詮、ないんだから」
そう言い含めて、自らを納得させるしかなかった。
ミュウツー細胞を自分は完成させてはならない。しかし、いつまでも持久戦が通用する相手とも思えない。
どこかで妥協点を見出すか、あるいはエクスターミネートスーツに仕込んだ何かを利用して、相手がミュウツー完成を促してくるかだろう。
時間は少ない。
出来る手は最善を打っておくべきであった。