EPISODE99 宿命
「ヨハネ・シュラウド君は、ちょっと焦っておるのう」
そう口火を切ったオーキドにマチエールは困惑した。Eスーツの整備はルイに任せ、自分は仮眠していたのだが、喉が渇いて降りてくるなり、コーヒーをすすっていたオーキドと出くわしたのだ。
「焦っている? ヨハネ君が?」
「結果を求めるあまり、彼には周りが見えなくなっておるようじゃ。ワシの扱ったトレーナー達もああいう眼をした子はいた」
マチエールは今ならばオーキドは何か話してくれるのではないかと期待した。自分だけならば口を滑らせるのではないかと。
「どうして、ヨハネ君がそんな必要……。ひょっとして、博士の知っている事に関係があるとか?」
「さぁのう。ワシには若い者の気持ちまでは分からんよ」
煙に巻かれた気分だったが、マチエールは言葉を次ぐ。
「それは、博士のせいじゃないのかな。だってせっかくフレア団から保護したのに、何も言ってくれないんだもん」
マチエールの言葉にオーキドは柔らかく微笑む。
「ワシに出来ることなど少ないよ。お主らに言える事ものう」
「でも、何か知っているから、フレア団に誘拐されたワケでしょ? 何か教えてくれたっていいんじゃないの?」
「お主は彼と違い、随分と直接的だ。いや、それしか知らんかのように」
自分の経歴を逆に暴かれたような気がした。この老人はもうろくしているようで、他人を見る眼は鋭い。
「あたしの事はいいじゃん」
「いや、トレーナーを見る眼は曇っておらんと思うぞ? ヨハネ・シュラウド君もトレーナー。お主も、ちょっとばかしタイプは違うがトレーナーじゃ。ならば考える事は自ずと読めてくる」
「何だって言うのさ」
オーキドはコーヒーを飲み干し、一呼吸つく。マチエールからしてみればその間さえも惜しい。
「力への探究心」
そうこぼされてわけが分からなかった。
「何だって?」
「どのようなトレーナーにも少なからずある。力への探求、負けたくないという意志。その強さはポケモンに作用し、進化、あるいはそれ以上の変化を促す。トレーナーの闘争心は、ポケモンにとってしてみればある時には妙薬、ある時には劇薬と化す。ポケモンは闘争心を吸って強くなり、戦えるようになる。進化論のナナカマド博士の引用じゃが、あの人はポケモンの九割が進化すると唱えた。何故じゃと思う?」
突然に問われてマチエールは戸惑う。自分の中で適当な答えを探した。
「それは……数が多いから、進化するっていう、そういう事なんじゃ」
「ポケモンは人間と関わってこそ、意味がある。古い学説じゃが、ポケモンは人間が関知して初めて、その生息域を広げているという話もある。つまり、人間の感情にポケモンは思ったよりも敏感じゃ。何よりも、怒りや悲しみと言った極論の感情には」
何が言いたいのか。マチエールは結論を急がせた。
「だから何だって……」
「彼は焦り、強さを求めようとする。それはポケモン達とにとって必ずしも、プラスに働くとは限らんという事じゃよ」
「クロバットやクリムガンがどうにかなるって言うの?」
「いや、それよりもワシが心配なのは、お主らの関係性じゃな」
ポケモンとの不和ならばまだ理解出来た頭に浴びせかけられた言葉は意外でしかなかった。
「関係性……」
「力を持つのはお主のほう。それに引き換え自分は、と彼は恐らく自責の念に駆られる。その負の感情はポケモンとっては一種のプレッシャーとなり、普段の能力が発揮出来ないかもしれん」
「ヨハネ君は、あたしなんかよりもポケモンを操るのには長けている。そりゃ、強さは足りないかもだけれど……」
「そうではない。ワシが言いたいのは、お主の手持ちのほうじゃよ」
ハッとしてマチエールはホルスターに留めた三体のポケモンを意識した。
「あたしの、ほう……?」
「ヒトカゲ、ニョロゾ、アギルダーじゃったか。アギルダーはともかく、ヒトカゲとニョロゾはまだ影響を受けやすい。充分に気をつけて戦うんじゃな」
「気をつけて戦っている。きちっと休ませているし、次の戦いへの備えは……」
「分かっておらんのか。お主、いつの間にかポケモンと、戦う事しか考えとらん事に」
マチエールは口を噤んだ。戦う事しか、考えていない。
それはマチエールの思考にはない部分であった。
「だって、戦って、勝たなくっちゃ。そうしないとおやっさんも、ユリーカも、何のために……」
「間違うな、と言ったのはそれじゃよ。まだまだ、お主も人間としてもトレーナーとしても未熟。だというのに、戦う事のみを強いた生き方はポケモンにとっても不幸をもたらす。それを分かっておらんな」
「不幸だって? あたしは、ヒトカゲ達の事を思っている!」
意地になって言い返してしまう。このような老人の戯れ言など聞き流せばいいものを。
自分とポケモンの関係性は自分が一番よく分かっているつもりであった。だが、この老練の研究者はどこか見透かしている。
自分の中に生じた迷いと、ポケモン達の間に降り立った何かを。
「正義の味方。大いに結構じゃ。強者が弱者を守るのも、自然の摂理じゃろう。だが、そのポケモンが犠牲になってはならんのだ。大義のため、と言って道を違えた弟子を、ワシは大勢見ている。一つの大儀にどれだけのポケモンが犠牲になるのか、分かっておらん。いや、分かっていても耳を貸さんのじゃよ」
「だって……! あたしは、戦わなくっちゃいけないんだ! そのためにEスーツを纏っている。それの何がいけないのさ!」
自分を否定されているようでマチエールは意固地になる。オーキドはゆるりとその力押しのような声音に返す。
「何も否定はしておらん。ただ、生き方としては辛いぞ、と忠告しておるだけの事。ワシはお主らよりも四十年の先輩じゃ。だからこそ言える。戦うだけでは得られないものがある。それはどこか理想論めいているが、真実じゃ。それを見極めなければ覇道に堕ちるぞ。ワシが言えるのはそれだけ。ただのアドバイスだと思ってもらって構わん。もっと言えば、ただの老人の繰り言だとでも」
オーキドには攻撃してくるような意思や論調は感じられない。ただ、今の自分に問いかけているだけだ。
――このままでいいのか?
今までわき目も振らず走り続けてきた自分の生き方は果たして正しいのか。他人の意思の介入を無視して自分だけの道を歩いてきた。
それはだって、勝つために――。
ハンサムの魂に贖うために。
そのためだけを考えて生きて、戦ってきた事は間違いなのか。マチエールは何も言えなくなる。
何のために戦う? 何のために力を振るう。
使いどころを誤れば終わる力。決して悪に転んではならない力を振るう自分は、その両天秤にある力を如何によく使うかだけを問われてきた。
よりよく使え、と。それだけを、自分に言い聞かせてきたが、それは間違っていたのか。
ヒトカゲやニョロゾ、それに〈もこお〉の事を考える。
元々、戦いの日々のために手にしていたポケモンではないはずだ。だというのに、今はもう戦う事しか考えられていない。
「あたし……何も間違っていないと思う。だって、そうしなきゃ、戦わなきゃ何も望めない。何も、得られないんだから」
「そう思うのは勝手じゃし、ワシも強制出来る立場でもない。ただ、戦ってその先に待っているのは虚無ではないと、言い切れんのも事実」
虚無のために、自分は戦いの日々を送っているというのか。
ただただ、虚無への供物のために。
馬鹿な、とマチエールは拳を握り締める。
自分は信じるもののために戦ってきた。信じたものに裏切られても、信じたものがたとえ虚像でも、戦い抜くと誓った。
その魂は揺るぎようのない。
マチエールはその拳で柱を叩いた。ハンサムハウスの柱は容易く拳の型を刻む。
「……あたしは、間違っていない。もう、これしか見えない」
力への探求が間違いだというのならば、それが罪だというのならば。
背負って生き抜く。
背負って戦い抜くしかない。
最後の日まで。審判が訪れるまで。
オーキドはその覚悟を感じ取ったのか、頬杖をついた。
「見極め……、それも他人によって異なるものよ」
「あたしはこの力をこう使う。誰にも、邪魔なんてさせない」
身を翻したマチエールにオーキドは言葉を投げる。
「しかし、その力が過ぎたるものであった時、誰が裁くのじゃろうな」
ハッとして立ち止まった。過ぎたる力。まさかオーキドは、自分にスーツの影響がある事を勘付いているのか。
あり得るが、こちらから切り出せばぼろが出る。
「裁く? そんなの知らない」
「純粋悪も、純粋なる善も表裏一体。それもまた同じ。善悪は、観測する側で、容易に立ち位置を変える。フレア団を倒す、その志は結構。じゃがそれを、一概に善と呼んでいいものか。あるいは悪と断じていいのか、と、ワシは思っておるだけじゃよ」
「考えるだけで、何の行動もしないよりかはマシだ」
オーキドのスタンスも含めて糾弾した声に老練の研究者は微笑んだ。
「若い者には分からん。分からんほうがいい」
そうやって煙に巻くのばかり上等になって。マチエールは言いかけた罵倒の言葉を呑み込み、Eスーツを管理しているヨハネの部屋をノックしようとして、ふと気づいた。
ヨハネは、何を思って自分についてきてくれているのだろう。こちらに正義があるからだろうか。
しかし、オーキドの言葉が思い出される。
善悪は所詮、表裏一体。
喚き唱えた側が善悪を決めるのだ。
客観的な視点など時代で変わる。
今はフレア団が悪であろうが結局は未来の人々が決める事なのだ。
ならば、自分の行動は無意味か。やはり、虚無なのか。
その逡巡にマチエールはヨハネの部屋をノック出来なかった。そのまま外に出て、思い切り叫びたい衝動に駆られる。
この身体は、もう自分だけのものではない。
分かっている。だが、戦い、抗う事だけが自分の出来る事だと断じていたのは簡単なようで実は何も考えていないも同然であった。
今まで、全てをユリーカの決定に投げてきた、そのツケが回ってきたとも言える。
「どうすればいい……。教えてよ、ユリーカ……」
力を振るえばいい。お前はただ自分の言う通りにしておけばいい。そう言ってくれ。
――あたしは自分で考えられないよ。
ここにいないユリーカやハンサムにすがるしか出来ない。自分の考えなど、今の今まで持ってこなかった。
自分は歯車のように戦い、消耗すれば休めばいい。その程度の考えであったのだ。
兵士としては正答かもしれないが、人間としては失敗であろう。
自分はとうの昔から、人間としては不出来だったのだ。
だが、その欠落をヨハネに求めるのは憚られる。
甘えたいだけなのに、ヨハネだって自分を頼っているはずだ。それを無視して自分だけ安きに逃げるのは出来ない。
「どうすればいいんだ。誰かあたしを叱ってよ。あたしの事を、駄目なヤツだって言ってくれれば、まだ……」
まだ望みはあった。
まだ、それほど絶望せずに済んだ。
だが、今はもう自分で決断していくしかない。
エスプリとして戦い抜くには、最早、自分の判断しかないのだ。
フレア団と戦い、最後の最後までその是非を問うか。それともここで投げて、何もかもを忘れて他の街に行くか。
今までになかった選択肢であった。
ハンサムの遺志を継ぎ、この街の悪を根絶やしにしようとしていた考えなしの少女は、一度死んで冷静になったのかもしれない。
相手が悪で、自分は正義だと自惚れるのならば、それとて悪だ。
分からなくなってしまった。
ヨハネにそう打ち明けるべきかとも思ったが、マチエールには決められなかった。
「あたしを、独りにしないで……」
その時、ぽんと温かな空気が足元に触れた。
〈もこお〉がいつの間にか歩み寄ってきており、自分を慰めるかのように手をやっている。
物心ついた時から、ずっと傍にいる相棒。
〈もこお〉には分かるのだろうか。これから先、自分がどこに進むべきなのかが。
教えて欲しい、とマチエールは〈もこお〉を抱き上げた。そのまま額同士をくっつける。
〈もこお〉の意思を伝えて欲しい。そう願ったマチエールの思考には、何も伝わってこなかった。
真っ白だ。
〈もこお〉の考えはないに等しかった。
「何で……。何で〈もこお〉もあたしに教えてくれないの?」
〈もこお〉は今まで、いつだって指針を示してくれた側ではないか。
その悲痛な叫びに対して、〈もこお〉のパワーが伝わってきた。
マチエールは膝を折る。〈もこお〉の答えはオーキドと同じであった。
――自分で決めろ。
もうそれしかないのか。
自分で決めるしか、方法がないというのか。
「無理だよ、〈もこお〉……。あたし、難しい事は何にも分からないんだもん」
帰ってきて欲しい。ユリーカに何か言って欲しかった。激励でも、罵声でもいい。今の自分を正すだけの言葉が。
しかし、ユリーカは敵の手に落ち、ヨハネはずっと、ルイと話しっ放しだ。自分の事くらいは自分で決めろと、誰もが言っている。
「でも、あたし、自分で決めたって何にも分からない。何にも、納得出来ないんだ」
心情の吐露に〈もこお〉は無反応であった。やめて欲しい。自分が惨めなだけだ。
「どうすればいい? 戦うだけならいくらでもやる。あたしに、戦う以外の道なんて……」
その時、脳髄を揺さぶるかのような耳鳴りがした。覚えずその場に蹲る。
これは、バグユニゾンの時と同じものだ。
感覚器が研ぎ澄まされ、通常聞こえないもの、見えないものまで関知される。
耳朶を打ったのは水中を這い進む音であった。推進音か、と感じたが違う。
これはポケモンの移動音だ。水中を進むポケモンの視野と同期し、マチエールはそれを目にしていた。
片側に傾いた視野で、どこかに向かっているのが窺い知れる。
どこだ、と意識の網を開いた途端、相手は困惑して身体をターンさせた。
――気づかれた、とマチエールは感知野を仕舞う。
汗がじっとりと背筋を伝っていた。極度の集中の過負荷で頭痛が酷いが、そんな事を言っていられなかった。
敵が来る。
しかも通常の敵ではない存在が。
マチエールは立ち上がり、〈もこお〉を抱きかかえた。
「戦いなら、いくらでもやってやる。あたしは、それしかないんだ」
戦い続けるだけが宿命の狂戦士。
それが自分なのだと、マチエールはこの時、割り切った。