EPISODE1 少女
ミアレシティの朝は思っていたよりもごった返している。
それは喧騒と言うには少しばかり粗野で、かといってラッシュアワーと形容するのには、少しばかり小ぎれいだ。
ヨハネはこの街には慣れたつもりであったが、何度往来を歩いても思うのは、円形を模しているこの街ではよく迷うという事。
そして、迷いのある街には必ずと言っていいほど、ならず者の溜まり場があるという事。
黒と白の半分に分かれた頭髪を掻いて、ヨハネは急ぎ足でタクシーを呼び止めようとした。
この街で迷わないようにするのにはタクシーを使うのが賢い。
しかし、ヨハネは見てしまっていた。対面の道路に連れて行かれる、年端も行かない少女の姿を。
ヨハネは正義漢だと言うわけではない。体格も弱々しいほうであるし、何よりも、厄介事が嫌いだ。
だから無視してもよかった。
何も知らず、タクシーに飛び乗ってもよかったのだ。
だが、この時ばかりは無用な正義感が邪魔をした。
「ちょっと、待ってもらえますか」
わざわざ呼び止めたタクシーを待たせて、ヨハネは狭い横道に身体をねじ込む。
どうすると言うのだろう。自分の出来る事など、所詮は警察を呼ぶ程度のもの。
ホロキャスターを手にして今にも警察への番号をコールしようとした、その時であった。
鈍い音が、道の奥で響いていた。
骨を砕いたような音である。重々しいその音にヨハネは事態が悪いほうに転がったのでは、と懸念する。
「もし! あなた達!」
だから、平時には出ない大声が出た。自分はこれほど大声を出すのだと、客観的にもおかしかったほどである。
声を出しかけて、呆然とした。
視界に飛び込んできたのは、乱暴される少女の姿ではなく、大男を相手に、立ち回りを決める少女の姿であった。
三人の大男であったはずである。
それが今、二人が地面に突っ伏しており、気絶しているのが分かった。
最後の一人が巨躯を駆使して少女を追い詰めようとするが、少女が跳躍したかと思うと、その肩口に踵落としが叩き込まれた。
呻いて後ずさった巨漢の顔面に一撃。容赦のない拳が見舞われる。よろよろと昏倒しかける大男にも、まだ少女は油断していない。張り手を叩いてその意識をぶれさせない。
「張り合いがないよ、色男」
頬を叩かれてようやく意識を明瞭化させた大男が少女を目にして大きく後ずさり、土下座した。
「勘弁してください!」
何という事だろう。自分の想定していたものと正反対の展開にヨハネは困惑する。
少女はくいっと指を曲げて大男に顔を上げるよう指示した。
「まぁ、顔を上げて」
その声に安心しきった大男へと少女の回し蹴りが飛ぶ。遂には大男は他の二人と同じように、その場に倒れ伏した。
「手ごたえないなぁ。もうちょっとどうにか出来ないのかな」
少女は張り倒した大男三人組の身体を物色し、財布を抜き出している。その姿にヨハネはようやく制止の声を出せた。
「ちょっ! ちょっと待って!」
今の今までヨハネには気がついていなかったのだろう。少女は驚愕に目を見開く。
「人がいたんだ」
呆然とするヨハネへと少女が歩み寄ってくる。こきり、とその指が鳴った。
「見られたんじゃ、仕方ないよね」
ヨハネは大慌てでその暴力に声を荒らげる。
「ま、待って! 警察を呼ぶぞ!」
「呼べば? 十分、二十分? そのくらいには逃げおおせる」
豪胆な声音であった。同時に、この少女は逃げられるだろうという妙な確信がある。
諦めかけた、その時であった。
「あれ? その腕章」
少女の指差したのは自分の二の腕にある腕章である。白い腕章で、赤い炎の図柄が刻まれていた。
「あっ、その、これは」
「フレアエンタープライズの人間?」
少女はどういう事だか自分の所属を淀みなく言ってのけた。
「そ、そうだけれど。その、傘下って言うか、トレーナーズスクールの……」
「ああ、そうなんだ。あたしも今、さ。そこに行けって言われていたところ。だって言うのに、三万でいい儲け話があるって言われて、付いて行ったらこれ。儲け話どころか商談にもなりゃしない。何だったんだろう?」
少女はその真意も分からず、大男達をのしたと言うのか。その事実に戦慄するヨハネへと少女が指差した。
よくよく目を凝らせば、少しばかり焼けた肌の持ち主で、目は睡蓮のような透き通る青である。長い髪を二つ結びにしており、とても小柄であった。
だからこそ、ヨハネは胸にある正義を抱いて飛び込んだのであるが、自分とでも身長の差がかなりある。
幼ささえも漂わせた少女はヨハネを値踏みするように上から下へと眺めた。
「……君、いいね。あいつ、行けって言う割には、どうやってとか絶対言わないからなぁ。君がいたほうが、何かと物入りかもしれない」
「その、何の話で……」
「あたし、そのフレアエンタープライズのトレーナーズスクールに編入する、転校生、って事になっている」
妙な物言いをする少女だ。ヨハネが怪訝そうにしていると少女は首を傾げた。
「嘘だと思っている? 本当だよ? 確か、ここにパスコードと、あいつが用意してくれた学生証が、っと」
少女は無造作に提げたホルスターからくしゃくしゃになったパスコードの紙とそれと一緒こたになった学生証を見せ付ける。確かに、トレーナーズスクールの学生証であった。
「でも、だったら余計に変って言うか……。こっちじゃないよ、トレーナーズスクール」
ヨハネの言葉に少女は、あちゃー、と漫画のようなリアクションをする。
「分かんないんだよね。表通り。あんまり歩かないから」
少女は大男を足蹴にして財布から紙幣を奪う。それを目にしてヨハネは思わず手首を掴んだ。
瞬間、天地が逆転していた。
倒れ込んだその時になってようやく、投げ飛ばされたのだと理解する。
「……何すんの?」
「何って……、人の財布からお金を盗るなんて」
言おうとしたが、ねじり上げられて激痛が走る。
「ダメって言われてないじゃん。それに、三万を儲ける商談を聞いてもいない。これは、そう、いやくきん、だよ」
意味をよく分かっていないのか、その部分だけ浮いたような言葉遣いをする。
「違約金、って……。とにかく、お金なんて盗っていると、それこそ泥棒に……」
立ち上がりかけて少女はヨハネの顔を凝視した。見下ろされる形でヨハネは見入ってしまう。
「その……」
「君、ヘン」
苦々しい顔で口にされた言葉は自分が思っていたよりもショックだった。喧嘩の仲裁に入って変だと言われるのは釈然としない。
「おっかしいなぁ。あいつの言う通りなら、そこいらにタクシー≠チていう生き物がいて、手を掲げたらそいつが寄ってくるって話だったのに」
「タクシーが、生き物?」
何を言っているのだろう。ヨハネは表通りに出かけた少女へと駆け寄った。どうにも危なっかしい。
「君、付いて来るんだ?」
「いや、だってほら、行く場所同じだし」
「そうだね。そう考えると君に付いて行ったほうが、あたしとしちゃ正解なのかな」
「……正解かどうかは、分からないけれど」
先ほどの学生証は本物であった。ならば案内くらいは買って出る必要があるだろう。
ヨハネはホロキャスターで救急車を呼んでから、裏路地から出て行った。
少女は表通りに出るなりぼやく。
「分かんないな。どこに往来を走る生き物なんて?」
手でひさしを作る少女をヨハネは手招いてタクシーの場所まで案内した。
実物を目にしてから少女は落胆する。
「何だ、タクシーって車じゃん」
「いや、それくらい分かっているもんだと思ったけれど……」
「分かりやすく言ってよね。それで? これに乗ってどうするの? もう運転手いるじゃん」
あまりに無教養な少女にタクシー運転手も困り果てている。
「乗って。トレーナーズスクールまでお願いします」
後部座席に乗り込み、行き先を告げると少女はまたも落胆の鼻息を漏らした。
「何だ、こういう風に出来ているのか。あいつ、わざと分かりにくく説明したな」
あいつ、というのが誰を指すのかは分からなかったが、ようやく一息つける、とヨハネが弛緩した瞬間だった。
少女が叫んだ。
その声に思わず、と言った様子でブレーキがかかる。
「どうなさいました?」
「何があったんだ?」
「……〈もこお〉、忘れてきた」
「〈もこお〉?」
謎の単語に戸惑っていると、不意打ち気味にタクシーが浮かび上がった。念動力だ、とヨハネが判じた時には、タクシーは上下逆さまに反転する。
少女だけがドアを開けて難を逃れていた。
「〈もこお〉! ゴメンね! ちょっと儲け話があって!」
念動力が解かれ、タクシーが落下する。窓に亀裂が走った。
ドアを開けて少女を窺うとその腕にはポケモンがいた。
紫色の毛色をした小型のポケモンである。耳を小さな手で塞いでおり、少女と同じ、睡蓮のように透き通った瞳をしていた。
「ニャスパーじゃないか」
「そう、ニャスパーの〈もこお〉。相棒だよ」
少女がVサインを作る。ニャスパーもそれに合わせてすっと手を掲げた。
「〈もこお〉、ってニックネームか。おどかさないでくれよ……」
「おどかしちゃないよ。ただ、忘れるとろくな事がないからね。ここまで引きずってくれたみたいだし」
少女の手にはアタッシュケースがあった。木製で画材でも入れるような大きさだ。
「大事な荷物?」
「そう、多分命より大事かも」
そんなものをポケモンに預けるなよ、と言いたかったが少女には無理な話だろう。
ヨハネはタクシーへと駆け寄った。
「すいません! 抗議と請求はその、フレアエンタープライズにしてもらえれば」
一応示談は成立した。こういう時、大きな会社は融通が利く。
その一方で原因の少女と〈もこお〉は無邪気に喋り込んでいる。
「こいつぅ。あたしがいなくって寂しかったろ?」
〈もこお〉は表情に乏しく、少女の頭を手でぽんと叩いた。
あちゃー、と少女がおどける。
「怒られちゃった」
「そんな場合じゃないでしょうに……。タクシー使うのはもう無理だから、歩いて行こう」
「いいね。あたし歩くほうが好きだよ」
呑気なものである。ヨハネは今さらながら少女に尋ねていた。
「名前は? トレーナーズスクールにも本人照会で必要だろうし」
「マチエール、って言うんだ。こっちはニャスパーの〈もこお〉」
「それはさっきも聞いたよ……」
呆れつつ、ヨハネはマチエールの手を引いた。