MEMORIA











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純真の灰色、共鳴する世界
第百十七話「藍より青し」

 漂っている感覚があった。

 潮騒の音が近い。瞳を開けると、どこまでも続く青空が広がっている。

 浅瀬であったので立ち上がった。陸に上がろうとすると、陽炎のように白い衣を纏った少女が佇んでいた。

 潮風に髪をなびかせる少女は、見間違えようもない、自分自身であった。

「あなた……」

 その声に少女が振り返る。女神のように優しく微笑んでいる。

「あなたは、メイ、ね」

 そう告げられてようやく自分が「メイ」なのだと実感出来た。メイはそのまま引き寄せられるように少女へと歩み寄る。

 確信があった。彼女の名前は――。

「あなたは、ミオ、ね」

 自分の基になった少女。古の歌は彼女を蘇らせるためにあった。

 と、言う事はもうこの場所はあの世なのだろうか。メイがきょろきょろしていると、ミオはフッと笑った。

「やっぱり、あなた全然、私と似ていない」

 その言葉の意外さに面食らっているとミオは足元の砂を軽く蹴る。

「当たり前よね。同じ人間は、この世に二人もいないんだもの」

 それは自分が彼女を素体にして造られた、と分かっていて言っているのだろうか。メイが困惑しているとミオは波打ち際に立った。

「こうして見ると、波というのは単純な反復運動に思える。だけれど、そこに意味を見出す人間がいるから、物語は生まれるし、何よりも、それが人間たらしめている」

「あたし、死んだの?」

 直截的な問いにミオは頭を振った。

「彷徨っているだけ。でも、あなたは選べる。この波打ち際のように、あちら側に行くのは容易い。でも、戻る事も出来る、曖昧な位置。そこに意味を見出すのかは、あなた次第」

「ミオ……あなたは、戻りたくないの?」

「私を求めた人は、もうとっくの昔に死んでしまった。今のあの人は妄執に取り憑かれた、あの日のまま、時間が止まってしまっている。その時を進ませてあげたいけれど、私じゃ無理なの。私は、過去にしか生きられないから。でもあなたは、未来に生きられる」

 ミオの言葉にメイは逡巡する。自分は、まだ生きていていいのだろうか。元々ミオの復活のために造られただけの人間である。

「あたし、生きていていいのかな」

「当たり前じゃない。だって、生きている事は素晴らしいのだから。生きているだけで、あなたは変えられる。これから先を。あなたの大切な人を」

 ミオは波打ち際で踊るように身を翻す。メイには分からない事だらけだった。彼女が言う事はまるでもう生きる事を諦めているかのようだ。

「でも、あなただって戻れるんじゃないの?」

「私は、過去の人間。でも、あなたはそうじゃないでしょう?」

「過去だとか、未来だとか、勝手に敷居を作るのは、何ていうか、あたし、好きじゃないよ」

 出来得る事ならば、ミオも元に戻してあげたかった。それが叶うのならば。

 その意図を察したのか、ミオは首を横に振る。

「私は、戻っちゃいけないの。戻ったら、あの人は死に切れない。でも、優しいのね、メイは。その優しさで、支えてあげて。あなたを想っている、不器用なあの人を」

 不器用な人。そう言われて真っ先に思い浮かんだ姿にメイは目頭が熱くなった。

 もう、会えないのだろうか。そう思うと途端に怖くなる。この場所で、この瀬戸際で、喋っている場合ではないのだと思える。

「あたし、帰りたい……。でも、迎えてくれるかな」

「迎えてくれる。きっと、あの人は。あなただけなのよ、メイ。あの人に、希望を持たせられるのは」

 戻るのにはたった数歩の距離でいい。だが、その代わりもうミオとは話せないだろう。それも、とてつもない喪失感が伴った。

 もう一人の自分。半身とも言える存在。それを手離してまで、自分の身勝手に生きていいのだろうか。

「行ってあげて」

 ミオの言葉にメイはその手を引いた。ミオには消えて欲しくなかった。

「一緒に行こう! あなただって、立派に生きてこられる。生きていける。過去の人なんかじゃないよ。あなただって、人間なんだから……!」

 自分が人間であるのならば、ミオだって人間に違いないのだ。

 ミオは呆気にとられたような顔をしていたが、やがてぷっと吹き出した。

 女神の笑みではない。たった一人の少女の笑い方になって、彼女はメイの手に自分の手を重ねる。

「いいよ。行こう。でも、私が行くと、彼を混乱させちゃうかも」

「一人より二人のほうがいいよ。だって、まだ戻れるんでしょう? だったら、さ」

 ミオは、ああ、とこぼす。どこか感じ入ったような声だった。

「そっか。だからあなたは、あれだけの人を救ってこられたのね」

「あたし、そんな大層な事はしてないよ。救うなんて。あたしがやってきたのは、ただ、目の前の愛しい人を、守ってきただけ」

 これからもきっと変わりはしないだろう。ミオは自分に肩を引き寄せて、いいよ、と声にした。

「行こう。メイ」
















 雫がぽとりと頬に落ちてきて、メイはその温かさにそっと手を触れる。

 声を殺して泣いているこの人はきっと、今までも泣きたかったのだ。だというのに泣けなかった。

 ようやく、涙の流し方を思い出したのだろう。メイはそっと、彼の涙を拭った。

「ようやく、泣けたんだね。アーロンさん」

 これまで悲しい事に揉まれて来たのに、泣く事を自分に許さなかった強い人。

 辛い事や苦しい事に直面しても、涙を流す事を自分から拒絶してきた弱い人。

 アーロンは涙を拭って、メイの手を取った。ああ、と喉の奥から声が漏れる。

「生きて、いるのか……?」

「当たり前じゃないですか。あたし、生きていますよ」

 微笑んだメイにアーロンは何か、皮肉でも返そうとしたのだろう。小憎たらしい声でも、いつものように放とうとしたのだろう。

 だが、その唇が紡いだのは、あまりにも弱々しい声だった。

「メイ。俺を、独りにしないでくれ」

 ようやく聞けた、とメイは感じていた。

 アーロンは今まで誰とも関わらないで生きてきた。生きてこられた。その彼がようやく発する事の出来た、弱音。

 きっと、ここからが始点なのだろう。彼からしてみればやり直せる機会が始まったのだ。

 メイはアーロンをぎゅっと抱き寄せた。

「独りになんて、しませんよ。ずっと、一緒にいましょう」


















 
 この日、一つの抗争にピリオドが打たれた。

 ハムエッグのはからいでプラズマ団壊滅は軍部の働きとされ、大衆には蜂起したプラズマ団はカントーという国家によって阻まれたのだと知らされた。

 だが、自分は知っている。自分達は知っている。

 たった一人の、死神と呼ばれた男が、プラズマ団を壊滅させたのだと。

 青の死神はカントーに何かを求めるかに思われたが、彼の求めたものは少なかった。

「今回のプラズマ団蜂起を自分とは無関係にしてくれ」

 それだけであった。カントーは交渉の準備を進めていただけに拍子抜けであったが、その分の埋め合わせはハムエッグが行ったらしい。きっちり儲けた、と後ほど報告があったそうだ。

 爛れた街は、変わらない。

 プラズマ団という大きな流れがあっても、今日も変わらず、同じように流れていく。

 人間も、裏社会も、何もかも。

 変わるとすれば、それはいつの日か、この世界が終わってしまう時だろう。

 時の最果てに至るまで、この世は同じ業を繰り返し、煉獄の只中にある――。

 ハムエッグはそう告げてから、瓶を一本開けた。

「頼んでいない」

「サービスだよ、アーロン。功労者への、ね」

 功労者、とアーロンは胸中に繰り返す。

 真の功労者であるリオの存在は、自分と限られた人間しか知らない。彼は命を賭して、この街を守ったのだ。その意思がたった一人の少女を守りたいだけの、些細なものであった事は胸の内に留めておこう。

「スノウドロップの調子は?」

「ああ。万全だよ。ゼクロムとの戦闘がいいリハビリになった。これから先、今まで通りの働きが出来そうだ」

 殺し屋には殺し屋の日常がある。

 スノウドロップ、ラピス・ラズリはこのポケモンが間違っているなどとは思うまい。ただ命じられるままに殺すだろう。

 その輪廻でさえも、街の一部なのだ。

「それにしたって、アーロン。ホテルが後ほど交渉したいって言ってきているらしいじゃないか。何人か回せ、との仰せだろう?」

 ホテルは今回、全く介入しなかった。理由は明白、「利益にならない」からだ。

 ゼクロムと渡り合える戦力があるわけでもない。しかしホテルは情報操作を補助し、この街の立ち直りを一日も早くした。そのせいか、アーロンへとせっつくように言ってくる。

「俺の物ではない、と言っても聞く耳持たず、か」

「当然だろうね。君の下に、プラズマ団の成果と、一二を争う暗殺者、炎魔、セキチクの殺し屋、瞬撃と集っているんだ。この状況で、一人でも寄越せ、というのは至極当然の事だろう」

 アーロンは立ち上がり、グラスを置いた。

「そういう商売ではないのでね。俺が直々に赴く。そうすればあの小うるさいホテルの大将も黙るだろう」

「炎魔や瞬撃に、もう殺しはさせたくない、と?」

 嘲るような物言いにアーロンは睨み据える。

「ああ。もう、傷つくのは俺だけでいい」

「殊勝だね。だが、そんな日々がいつまでも続くはずがない。今回は、運がよかったんだ。君も、わたしもね。運だけに身を任せていればいずれ破綻する。アーロン。友人としての忠告だ。ちょっとばかし、身内を売るだけでいいんだぞ」

 ハムエッグへとアーロンは言い捨てる。

「冗談を言え。家族を売るなんて出来るか」

 少し前までの自分ならば出なかった言葉だった。

 ――家族。

 そう口にすると胸の内を安堵が占めていく。暖かな感慨にふけっていると、奥の部屋からよろりと人が出てきた。

「アーロンさーん! お腹空いちゃった」

 その様子にハムエッグも肩を竦める。アーロンは耳を引っ張ってやった。

「い、痛い! 痛いですって!」

「当たり前だろう。腹が減ったなど、仕事先で言うものじゃない」

「でもでも! お腹空いたんだから仕方ないじゃないですかぁ」

 文句を垂れる相手へと、アーロンは呆れ返って声にする。

「全く、ふざけている……。帰るぞ、メイ」

 名を呼ぶと、メイは嬉しそうに声を弾けさせる。

「はい! ごはん、ごっはんー」

「相変わらず、歌がヘタだな、お前は」

 節をつけて歌うメイへとアーロンが首を横に振る。メイはいきり立って言い返した。

「適材適所があるんですよ。あたし、今日もラピスちゃんを笑顔にさせました。これって立派な功労賞でしょう?」

「ふざけるな。お前に出来る事なら、そこら辺を飛び回っている鳥ポケモンにだって出来る」

 言い合う二人の背中を見送るハムエッグがフッと笑みを浮かべた。

「限りある安寧でも、今はそれを享受する、か。変わったな、青の死神」

















『三十六の路地を封鎖しました。今日の仕事は滞りなく行われる予定です。……何で私がこんな事を』

「おい、余計なノイズが混じったぞ」

 口にすると通話先のヴィーツーはマニュアル通りの受け答えをした。

『申し訳ありませんね。こっちも仕事なもので』

 プラズマ団を離反したヴィーツーは路地番の役割が与えられていた。それが適材適所だと判断されたのだ。

 アーロンは青いコートを夜風にはためかせながら、街を俯瞰する。

 宵闇に煌くネオンライト。けばけばしい、夜の化粧を纏った街が今宵も、何かの胎動を予感させる。

『殺しの対象は逃げ込んできたわ。そちらなら、問題なくやれるでしょう? あなたは存分にクズだものね』

 ホテルの仲介にアーロンは応じる。

「ああ。こちらからも見えている」

 波導の眼に映った標的を見据え、アーロンはピカチュウを繰り出した。相棒は肩に乗って青い電流を跳ねさせる。

「――行くぞ」

 跳躍したアーロンは電気ワイヤーを用いてビルの谷間を滑空する。

 月光の下、殺し屋と澱んだ空気が跳梁跋扈する街、ヤマブキシティ――。

 青い闇を掻き分け、流転する世界を、死神は見据えた。









 第九章了


オンドゥル大使 ( 2016/08/23(火) 21:27 )