MEMORIA











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純真の灰色、共鳴する世界
第百十五話「涙の唄」

 視界いっぱいに広がるのは、粉塵を舞い上がらせた大地。

 灰色の境界の向こう側に、赤い電磁を滾らせて浮かぶ戦艦があった。プラズマフリゲート。イッシュで壊滅させたはずのプラズマ団の母艦。 

 それが今は、自分を迎えるためにこのセンタータワーに向かっている。

 既に退避の済んだ最上階には人気はなかった。

 メイだけが、その役目を背負って佇んでいた。

 かつてシャクエンと共に上った場所。あの時には、何も自分の使命などあるとは思っていなかった。

 しかし今は――。

 メイは胸の前で拳を握り締める。

 今は、自分の番なのだ。

 自分が置いてきた因縁が目を覚ました。

 プラズマ団の擁する黒いドラゴンがこちらを睥睨する。

 どくん、と脈動した。激しい鼓動に息が切れる。

「あたしの中の……ライトストーンが、共鳴して……」

 脈打つ鼓動にメイは短く悲鳴を上げた。

 激痛さえ伴う鼓動は呼び合っているのだ。

 対応する黒い龍と白い龍。相克する者同士が、今、一つになろうとしている。

 それは自分だけではなかった。

 メイの視界に白い衣を纏った自分自身が幻視される。髪を解き、女神のように微笑んでいた。

 今ならば分かる。

 あれは、自分の基になった少女だ。

「ミオ……。もう一人の、あたし」

 別の人を愛した。

 自分の知らない人を愛し、その果てに死んでしまった、哀れな自分。死んだ後にも、焦がれた人の手で分解され、解析され、再構築された、どうしようもない、自分自身。

 その最初期の自分があのプラズマフリゲートの最奥に収まっている。

 脳裏を言葉が掠めた。

 ――補完の時だ。

 知らない声のはずなのに、メイは立ち上がってプラズマフリゲートと相対した。

 モンスターボールを手にし、手持ちを繰り出す。

「メロエッタ……」

 メロエッタが跳ね上がり、ガラスを砕いた。

 風圧が身体をなぶる。

 接近するプラズマフリゲートの甲板には倒したはずの頭目がこちらを見据えていた。

 プラズマ団の真の支配者、ゲーチス。

 あの時、倒したのは幻影であったのか。それとも、別の個体であったのかは分からない。ただ、今のプラズマ団を率いているのはあのゲーチスに他ならなかった。

 メイは覚悟を決める。

 ライトストーンと自分の内部に宿る因子に呼びかけられ、歌を歌った。

 名前も知らぬ、古の歌。

 紡がれる言葉は自分のものであって自分のものではない。

 最古の記憶から蘇った古の歌に、メロエッタの身体が反応する。

 髪が巻き上がり、オレンジ色の躯体になったメロエッタは自分がプラズマ団に造られた存在である証明であった。

「あたしは、Mi3。この時のために、あたしの記憶と、身体と、そして心臓があった」

 左胸にあるライトストーンこそが、この戦闘の極地を切り拓く唯一の鍵だ。

 メイは古の歌を紡ぎつつ、ゼクロムとゲーチスを睨む。

 あのゲーチスには分かっているのか、攻撃してくる気配はない。

 ゼクロムが対応して体表を震わせた。共振現象だ。ライトストーンの埋め込まれた心臓が震える。

 生命を吸い上げて今、顕現しようとしていた。

 自分本来であったもの。この光の石に内包された、神話のポケモンが。

 古の歌が終わりに近づけば近づくほどに、そのポケモンが激しく自分という殻を破ろうとするのが分かる。もう「メイ」という個体にこだわる必要はないようだった。

 最後の節へと辿り着く。

 これを歌い切ればライトストーンの中に封印されたポケモンが姿を現す。

 その段階に至った、その時であった。

『それ以上の、節に進む必要はない。私は、Mi3に用があるのだから。確かにレシラムの開放も一つの理由ではあった。ですが、私が価値を見出すのは、メイという少女のほうだ』

 知らないはずの声なのに、メイは歌を止めていた。

 プラズマフリゲートの船首に白衣の男が立っている。その隣には培養液に満たされたカプセルがあった。

 内部に揺らめく影に絶句する。それと同時に、やはり、という感慨が這い登ってきた。

 ――あたしは、このために生きていたのか。

 カプセルの中にいたのは、もう一人の自分……始まりの女神であった。

「ミオ。ようやくだ、ようやく、ここまで来れたよ」

 感じ入ったような声を出す男は十メートルほどの距離を挟んでメイと対峙した。

 メロエッタが攻撃姿勢に入るがそれが意味を成さないのはゼクロムの戦力からして明らかである。

「メロエッタも、この時のためのトリガーとして用意した個体。私の前では、攻撃しない。よく分かっている」

 眼鏡のブリッジを上げて男はメイを見据える。その眼差しには愛情でさえも感じられた。

 狂った愛情だ。

「メイ、今こそミオと同期し、真の女神を誕生させるんだ。レシラムの入ったライトストーンは、この後、ヤマブキの全域支配のために使う。こちら側の躯体に、君のデータを入力する。そうすれば蘇るはずなんだ。ミオは。私の愛したたった一人の女性は」

 命じる声にメイは最終節へと、歌を進めた。しかしそれは古の歌ではない。

 Mi0、通称ミオに自分という個体を補完させるために必要な音階だった。一種の波導に酷似している。

 音階で、自分の脳内にあった情報と、個体としての存在を明け渡す。それこそが最終目的だ。

 メイの歌声にミオが反応したのか、瞼を上げようとする。

「おお! ミオが、始まりの女神が目を覚まそうとしている!」

 歌を紡ぐ度に、自分が消えていくのが分かった。

 この街に来て、殺し屋や他の人々と過ごした時間が削ぎ落とされていく。

 ――シャクエン。

 初めての友達だった。

 彼女を本気で裏の世界から救い出したかった。そのために命さえも投げ打った。その甲斐があったからか、彼女はようやく人並みになれそうだった。

 ――アンズ。

 敵対していた時もあったが、まだあの子は幼い。これからいくらでもやり直せるだろう。その機会があるのは分かっている。安堵して、時の流れに任せられる。

 ――ラピス。

 ハムエッグが手離さない限り、彼女はずっと、人殺しを当たり前に行っていくのだろう。だが、いつかは気づくはずだ。自分の存在価値に。その時、親であるハムエッグと対決する事になるのかもしれない。そうなった時こそ、彼女は真に巣立ちの時を迎えるであろう。

 最後の歌声を紡ぎ出す。

 思い出が、何もかもが消えていく。

 ミオという自分の素体に、吸い込まれていく。

 自分に意味はないのだ。ただただ、ミオのためにあった。彼女に奉仕するためにあっただけの、人造人間。

 涙は出ない。これは約束された事象だからだ。自分は配置され、人間らしさを学ぶはずであった。

 Mi3として、ただただ、学習するだけのはずであった。

 そんな自分を変えてくれた存在が脳裏にちらつく。

 彼は、自分を助けてはくれないだろう。

 そういう人間だ。

 だが、彼に助けられた人々はきっと、いい思い出を紡ぐに違いない。

 せめて、彼ら彼女らのこれからに幸あらん事を。

 自分の犠牲の分だけ、彼らを救ってくれればいい。

 そう思っている。だというのに、何故……。

「どうして、涙が溢れてくるの……」

 歌の途中なのに、メイは止め処なく溢れる涙に困惑していた。

 白衣の男が眉根を寄せる。

「どうした? まだ補完は成し得ていない。あと一小節だ。あと一小節歌えば、完了する。Mi3、女神よ、歌え」

 あと一小節歌ってしまえば、本当に自分は自分でなくなってしまう。

 それこそ、ライトストーンをただ内包しているだけの、肉の塊だ。

 紡ごうとして、幾度も躊躇った。

 頬を伝う熱いものと、胸を占める喪失感がメイに歌声を躊躇させる。

「何をやっている? 歌うんだ、Mi3。もうすぐだ。もうすぐ、ミオが完全になる」

 自分はその命令に逆らえない。

 メイは最終節を歌い始めた。

 その途中にも、彼の姿が過ぎる。

 彼は、何度も自分を助けてくれた。

 自分を「メイ」という個体たらしめたのは彼だろう。

 もう叶わないと知っていても、願うのならば一つだけ。

 ――アーロンさんに、会いたい。

 その思いが、口を噤ませる。

 最終節の、本当の最後の部分を歌うのに、弊害となった。

 男はそれを悟ったのか、手元にボタンを取り出す。

「使いたくはなかったが、Mi3、人らしく成り過ぎたな。設計ミスだ。ミオのための個体であったはずなのに、ここまで人間らしくなるなど。想定外だが、その分ミオも人間らしくなるだろう。楽しみだ。始まりの女神に捧げるのには、これくらいの生け贄でなくては」

 ボタンに指がかけられた、その瞬間、メイは懇願していた。

「……お願い。アーロンさんに、もう一度会わせて。会いたいの。アーロンさんに」

「青の死神に? ……余分な感情だな。あとで切っておこう」

 これは余分なのか? 自分にとって、要らないものなのか?

 最終節を歌い上げようとする。

 もう何もかもが、自分の中から消え去った感覚があった。

 空っぽの身体から音階として情報がMi0に送信される。

 男が口角を吊り上げた。その時であった。

「――言っただろう。相変わらず、歌がヘタだな、お前は」

 視界の中に青いコートをはためかせた姿が入る。

 まさか、と残りカスの思考がそれを拾い上げた。

 男の手からボタンが引っ手繰られ、力の抜けかけた自分を支える影があった。

 澱んだ視界に、青の死神の顔が映る。

 どうしてだか……アーロンはいつにも増して、悲しげな目をしていた。

 ――そうだ、この人は。いつも悲しそうな顔をして、人を殺すのだ。

 手がそっとその頬を撫でる。アーロンの手がその上から握り締めてきた。

「もう、お前ではないのか。もう、あれに全部、明け渡してしまったのか?」

 尋ねられても、自分は答えられない。呼吸音と大差ない声が、辛うじて漏れた。

「アーロン、さん。……何で、いつも、悲しそうな顔をしているの」

 泣きそうな顔で彼は人を殺す。

 今にも溢れそうな涙を堪えるようにして、彼は戦っていた。

 どうして……。自分のほうが泣きそうになってしまう。

 アーロンの頬を撫でる手に、ふと、雫が滴った。

 死神の横顔に、一筋の涙が流れていた。

 ようやく安堵する。この人は、何度だって涙を堪えてきた。泣けば楽なのに、泣く事はなかった。

 メイの瞳には波導を習得しなければ、この世を生きる事さえも許されなかった少年の姿があった。

 彼はいつも泣いている。泣きながら、人を殺めている。

「ようやく、泣いてくれました、ね……」

 よかった、と声が漏れる。

 それを最後にして、意識は闇に没した。


オンドゥル大使 ( 2016/08/23(火) 21:26 )