第百十四話「魔物」
傅いていた。
まさか自分が頭を垂れるなど、予想もしていなかった。
だが、これしか方法がない。
ヴィーツーは嘆願の声を発していた。ハムエッグに連れられ、訪れたのは波導使いアーロンの根城だ。全て理解しているかのようにハムエッグは振る舞い、自分はと言えば、今まで煮え湯を飲まされてきたアーロンに頭を下げている。
屈辱、云々以前よりも止めなければ、という意思が勝った。どうせ、今の自分とて、いつアクロマが殺せるとも限らないのだ。
「……頼む、波導使い。筋違いなのは分かっている。だが、お前しかいないのだ。お前だけが、あの化け物を、ゲーチス様を止められる」
自分の意に沿わない進化を遂げたゲーチスはもう魔物であった。それを止めるのには同じ波導使いである彼しかない。彼以外に止められるとは思えなかった。
最強の暗殺者、スノウドロップでさえも現状では時間稼ぎだ。伝説と波導を得たゲーチスの前には四天王さえも敵わなかった。
「お願いだ! 私達の不始末を、お前がつけてくれ!」
「……俺は、お前らの不始末をつけるつもりはない」
やはりと言うべきか、アーロンの返事は淡白であった。ヴィーツーは歯噛みしてその場に頭をつく。
「この通りだ! 私の命などくれてやろう! だが、悪魔の研究なのだと気づけたのだ。アクロマの思う通りにやれば、Mi3は意に沿わぬ終わりを告げられる。あの男の、狂った研究のためだけの個体だったのだ」
「どういう、意味……」
この街で一二を争う暗殺者、炎魔。その彼女が不安げに表情を翳らせている。この場に三人もの手だれが揃っている事にまずは驚愕したが、今はそのような場合でもなかった。
「言葉通りだ。Mi3は、アクロマの唯一愛した女性、Mi0をベースに造られた、人造人間だ。もっとも、アクロマの研究だけでは、彼女の中身のないコピーを量産するだけだったが。我々が傘下に入れてからの三番目の個体が、Mi3という名前を持つ」
「……あんた達、何をやっているのか分かっていて、そんな事を続けていたの」
瞬撃のアンズの声に棘が篭る。殺されても仕方がなかった。
しかしアーロンがそれをいさめる。
「全てを聞く。その上で、俺が決めるだけだ」
「でも! お兄ちゃん、こんな奴、殺しちゃおうよ! メイお姉ちゃんに、酷い運命を抱えさせた、張本人じゃない!」
アンズの声にアーロンは首を横に振る。ここまで冷静な波導使いも、見た事がなかった。
「駄目だ。殺す事は許さない。おい、ヴィーツー。全て話せ。あの馬鹿は、何のために出て行った? そのアクロマという科学者は何を最終目的にしている?」
ヴィーツーは重々しく口を開く。
「女神の再現……、そう、アクロマは呼称していた。彼にとってしてみれば、唯一愛した人の再生計画。我々は、彼の持つクローニング技術がゲーチス様の復活に使えると判断して懐柔した。だが、彼は最初からゲーチス様の復活など、途中経過でしかないと考えていたのだろう。Miシリーズには、目的として英雄の因子を埋め込んである」
「英雄の、因子……」
「イッシュを救った英雄の、遺伝子のようなものだと思ってくれればいい。こちらにはその遺伝子サンプルがあった。Mi3の中には彼の英雄の記憶も混ざっているはずだ。我らの王、Nの」
「N……、ここで繋がるわけか」
アーロンはどこかで聞いたのだろうか。その名前を容易く飲み込んだ。
「Nは、元々プラズマ団の王であった。だが、ゲーチス様が頭目として支配を掲げ、張りぼての王であったNは追放された。どこへ行ったのか、我々も与り知らない。Nの遺伝子の一部を、我々は英雄の因子と呼んでいた。それを使い、造り上げたのがMi3だ。元々、Miシリーズには同じ出自がある。イッシュで育ち、小さな田舎町から旅立った記憶が。だから、見た目上は普通のトレーナーと大差ない。問題なのは、Mi3に入れておいた中身だ」
「中身、って……」
シャクエンが口元を押さえる。確かにこれはおぞましい計画であった。
「英雄のポケモン、ゼクロムと対を成すその存在、名をレシラム。そのポケモンを封印し、ライトストーンという石に還元した。その石を、心臓部に埋め込んである。英雄の因子に、その英雄の使っていたポケモン。これにより、擬似記憶を持つトレーナー、メイはただのトレーナーでありながら、いずれ世界の命運を握る存在になる、はずであった」
「はず、という事は、計画に支障が出たんだな」
アーロンの振り向けた声に、ヴィーツーは自嘲する。
「お前だよ、波導使い、アーロン。お前が、気づきさえしなければ、カントーで着実にその成果は挙げられるはずだったんだ。だがあの日、お前はMiシリーズに何かをしたな? そうでなければメイとしての人格が表に出たままのはずがない。恐らく、バグが発生した。そのために、Mi3は本来の用途から外れてしまった。私も、二度も殺されてしまった」
全ての原因は、アーロンなのだ。アーロンが、メイにバグを発生させなければ、彼女は英雄の因子と心臓のライトストーンの告げる使命に衝き動かされ、もっと早くに行動を起こしていただろう。
ゲーチスと共に、プラズマ団の傘下に下るはずであった。
それがこうも急造品のゲーチスと、ゼクロム、アクロマの支配というイレギュラーに晒されたのは全て、メイの異常事態のせいだ。メイさえ、何もなければ全てうまくいっていたのに。
「なるほどな。あれにメロエッタを持たせたのは、お前らの判断か?」
「英雄の因子は古代の記憶を併せ持つ。古の歌も本来、我らが使う時のためのトリガーであった」
もう全てを話し終えた。しかしアーロンは動き出そうとしない。
「これで全部か?」
「ああ、全て、だ。お願いだ、アーロン。ゲーチス様を破壊してくれ。お前の波導でしか、波導使いにされてしまったゲーチス様は救えないんだ」
「誰が、見も知らぬ人間を救うか。俺は、そのゲーチスとやらを救いはしない」
アーロンがコートを翻す。
その行方に誰しも声を投げた。
「波導使い、どこへ」
「今、ゲーチスとプラズマフリゲートがセンタータワーに向かっている。恐らく馬鹿もそこにいるのだろう」
「止めて、くれるのか……」
「馬鹿を言え。俺は何もしない。この状況に引っ掻き回されるのは御免だ」
「でも、お兄ちゃん! お兄ちゃんなら、メイお姉ちゃんを救えるかもしれない。それこそ、今まで通りに――」
「アンズ。何を期待している? 今まで通りなんてないんだ。今までが歪だった。もう、あのような光景には戻れない」
その声音に全員が圧倒されていた。では、波導使いアーロンは何を寄る辺にして動くというのだ。何を信じて戦うと言うのだ。
ハムエッグの傍を通り過ぎる際、ハムエッグが目配せする。
「近くまで送ろう」
「いい。俺の足で行く」
「アーロン。言ったはずだ。君は、最も残酷な運命を選ぶ事になる、と。それが、今だ。お嬢ちゃんに追いついてどうなる? お前は、どうしたい? 所詮は暗殺者、どれほど言い繕おうと、殺し屋である事に違いはない。お前は、何に成れる?」
ハムエッグの問いかけにアーロンは沈黙を挟んだ。まさか、この期に及んでハムエッグがアーロンを躊躇わせるような事を言うとは思えなかった。ヴィーツーは逡巡する。
「は、ハムエッグ。お前、話が違う……」
「話? わたしは一度も約束はしていない。確かに、君を引き合わせるとは言ったが、一度も口裏など合わせてはいないよ。この街の事はこの街の人間がオトシマエをつける。それが流儀だ。アーロン、波導の暗殺者として、メイちゃんを殺すかい? それとも、アーロンという一個人として、メイちゃんを助けるのかな? それこそ白馬の王子様のように」
どうして、ハムエッグはそのような口ぶりを使う。このままではアーロンは自分の行動そのものをかなぐり捨てかねない。
ヴィーツーは声を荒らげた。
「ハムエッグ! アーロンが、せっかく、戦う気になってくれているのに、お前、何を!」
「だから、そういうのが、我々の流儀ではないと言っているんだ。世界の危機? この世の破滅? それとも、カントーの実質支配の頭が挿げ変わる? そんなもの、一言で言ってのけよう。どうでもいい」
ヴィーツーは息を呑んだ。このポケモンは何を言っている。この街を支配しておきながら、何をのたまっている?
「お前、自分さえよければいいって言うのか」
「……何か不満でも?」
まさに、何の疑問も挟んでいなかった。ハムエッグに疑う余地などない。本心から、自分さえよければいいのだと思っているのだ。
この街の盟主は身勝手であった。否、身勝手だからこそここまで成り上がれたのか。
この爛れた街の秩序を守るなどというお題目で動いているのではない。
ただただ、支配の象徴として立ちたいだけなのだ。改めて、ヴィーツーはハムエッグという存在の大きさに愕然とする。
ハムエッグは、支配したいだけ。
この街の支配構図が塗り変わるのならば、分かりやすい側につくというだけの話。
なんて事はない、どこにも、思想も、展望もなかった。盟主は始めから、腐り切っていた。
腐敗の只中にあると分かっていて、アーロンが正常な判断を下せるのだろうか。
ここでゲーチスとプラズマ団を壊滅させる事に意義を見出すのだろうか。
不安になってヴィーツーは喉から声を発しようとした。懇願の言葉が必要だと感じたのだ。
しかし、アーロンの返答は素っ気なかった。
「俺に、平和も、この世の破滅も、興味はない。ただ、流れるがままに生きるだけだ。それが波導使いであり、何よりも人として正しい。俺は、超人ではない。何もかもを超越した、義憤の徒でもない。正義など……もってのほかだ。だから、俺の立ち位置は一つだ、ハムエッグ」
アーロンは鋭い一瞥をハムエッグへと投げかける。
「ほう、それは何かな?」
「――気に入らない奴は殺す。それだけの事」
アーロンはコートを翻してアジトを出て行った。今の言葉が答えだと言うのか。
その背中に追いすがろうとしてハムエッグに止められた。
「無駄だよ。もう結論は導き出された」
「……波導使いなら、止められるのに、何で、惑わせるような事を言ったんだ! あれじゃ、意固地にもなる!」
「そちらこそ、何を勘違いしているのかな。我々裏社会に生きる者にとって、表舞台が穢れようと、放逐されようと、どうでもいいのだよ。それが真意だ。裏に生きている人間にとって、誰が支配者になろうとも、あるいは支配者など存在しなくとも、この世が荒廃の一途を辿ろうとも、結局のところはそうだ。どうでもいい。それが答えなんだ。だが、波導使いアーロンは、少しばかり偏屈なのでね。彼は言っただろう。気に入らない奴を殺しに行くだけ、と。なに、彼はやるよ」
その自信が分からなかった。今の返答では不安なだけだ。
「分かっていて、試したのか?」
「いいや、彼がどう判断するのかは、わたしにだって読み切れない。ただ、彼はとても人間らしい。波導使いで、人の道をどれだけ外れようとも、合理性を捨ててまで、人間らしさにこだわる。わたしはポケモンだから、その合理性に従わない生き方のほうが疑問なのだが、彼は違うんだ。わたしなどとは、違う」
それが希望なのか、それとも絶望なのかは分からなかった。
ヴィーツーは扉を開けて外に飛び出す。
既に波導使いの姿はなかった。