第百十話「最強の名」
一斉に振り向けられた視線と攻撃には、圧巻と言う他ない。
それが敵愾心であっても、集団というものは個を圧倒する。
暗雲の切っ先で風圧を受け止めるマントをなびかせた彼は手を振り翳した。
「焼き払え!」
暗雲に映っていたであろう群体が分散する。
一体一体が、オンバットであった。オンバットが群れで飛び、雲のように、密集していたのだ。この陣形を組み立てられるのは世界広しといえども、自分しかいない。
「来たか、カントーの守り手。ドラゴン使い、ワタル!」
ゲーチスの忌々しげな声音にワタルはカイリューの背中で鼻を鳴らす。
「はじめまして、のはずだがな。そしてさよならだ、プラズマ団の諸君」
払った手に同期してオンバットが破壊光線を掃射する。プラズマフリゲートの各所へと攻撃が加えられたかに思われたが、それは薄紫色の防御膜に遮られた。
着弾したのは一発か二発ほど。ほとんどがその防御膜に弾かれた。
「人工リフレクター、か。そうだな、それくらいの守りはしていてもおかしくはない」
ワタルは感心すると共に、オンバットで仕留められなかった初撃の失敗に苦々しさを感じ取った。
「失敗は、あまりしたくないものだな、カントーの軍神よ」
ゲーチスの声にワタルは口角を吊り上げる。この支配者の風格の男は分かっている。どの程度、相手を屈服させれば勝利に繋がるのかを。
この男も軍師のタイプだ。ワタルは瞬時に判断し、端末を取り出す。
「ゲーチス・ハルモニア・グロピウス。国際指名手配犯だ。だが、ここまで健在だとは書かれていなかった」
「力が戻ってきたのだよ。ワタクシに相応しい、力がね!」
掌を掲げたゲーチスにはいささかの衰えもない。まさしく全盛期の威風がある。
「……データの齟齬か? 確かゲーチスは最早、使い物にならなくなったと聞いていたが。まぁ、いいさ。オレがやるのに、一切、手加減が要らなくなっただけの話」
ワタルは手を薙ぎ払い、オンバットに指示を飛ばす。
「リフレクターを引き千切ってしまえ」
オンバット二十体相当の攻撃力は一体がドラゴンタイプとしては弱小でも、それ相応の威力になる。オンバットが各々噛み付き、牙で食い千切ろうとする。
「させると思っているのか」
ゲーチスが杖をつくと、電流が人工リフレクターの皮膜を震わせた。電撃を浴びた形となるオンバットが数体、落下する。
「電磁波、か。そのプラズマフリゲートそのものが、攻撃兵器と見た」
「さて、どう出る? カントー四天王、最強の男よ」
ワタルは呼吸を一つつき、肺の中を入れ換える。熟考する暇はなさそうだった。
既にこの街は動き始めている。盟主、ハムエッグとホテル、そうでなくとも大小様々な組織の陰謀が渦巻くこの街の上空で、一戦交えるのは賢くはない。
「最強の名前って言うのは、こういう事を言うんだ。カイリュー、逆鱗」
ワタルはそれを命じた瞬間、雲間から出てきたオンバーンに乗り移っていた。
カイリューが赤い燐光を滾らせてプラズマフリゲートへと特攻する。
人工リフレクターと電磁波が展開されたが、無意味だ。残像すら居残すカイリューの拳が紛い物のリフレクターを容易く引き剥がす。
「底が見えたな! オンバット、破壊光線、放て!」
オンバットがすかさず穴に向かって光条を一射する。甲板に出ていたプラズマ団員が慌てて避難を始めた。その中で、一番目立つ舞台で、ゲーチスは動きもしない。
「慌てないのは、ボスの風格とでも?」
ワタルのカイリューは容赦なく、艦艇の底を叩いた。足場を揺らされた団員達が転げて、姿勢を立て直す前に滑り落ちていく。
燐光を引いたカイリューが躍り上がり、ゲーチスをその眼に据えた。
「射程内だ! 破壊光線!」
カイリューの一射した破壊光線は確実にゲーチスを殲滅せしめたかに思われた。だが、それを防御したのはあまりに意外な姿であった。
「出でよ」
その一声で、破壊光線が弾かれる。
ワタルは瞠目していた。
ドラゴン使いならば分かる。
黒い装甲を思わせる表皮に、青白い血潮を棚引かせるその威容。
尻尾の充電部位が青く輝き、プラズマフリゲートに一瞬で暗雲を使い、護りを固めさせた。天候さえも操る、伝説のポケモン。その名は――。
「ゼクロム」
ゲーチスが呼ぶとゼクロムは両腕を引いて咆哮した。
ワタルは自分の全知識を総動員する。ゼクロム? 何故、あれほどのドラゴンポケモンがプラズマ団の手にある?
「神話級のポケモンだぞ……」
「ワタクシの前に、跪きなさい! 最強の男よ!」
ゲーチスが手を振り翳すと、ゼクロムがカイリューに向かって跳躍した。今のカイリューで反応出来ないほどの素早さではない。問題なのは、速さよりも……。
「その、何もかもを無力化してしまいそうなほどの、気迫」
ゼクロムの特性だ。全ての特性を無効化し、相手へと攻撃を叩き込む。
「そう! テラボルテージを!」
ゼクロムの背筋から光背のような電流の輝きが延びる。高威力の攻撃を関知したカイリューが直前で飛行進路を変えてゼクロムへと突っ込んだ。
その射程内を、ゼクロムの放った青白い雷の刃が突っ切る。
電気の十字架だ。
それが空間内を押し包み、全方位の千の刃と化している。
「クロス、サンダー!」
ゲーチスが吼えた。それに呼応してゼクロムが拳を握り締める。「クロスサンダー」に内包された電磁の威力が発揮され、天空を亜光速の稲光が駆け抜ける。
カイリューはその中であってもなお、健在であった。当然だ。自分が育て上げたカイリューはこの程度では沈まない。
ゼクロムがすっと手を掲げる。その掌から電磁の十字架が構築されて真っ直ぐにカイリューへと撃ち込まれた。しかしカイリューは薄い皮膜を展開して弾く。
「バリヤーか。なるほど、ドラゴン使いを名乗るのは伊達ではないようですね」
「押し切れ! カイリュー! 相手もドラゴンだ! こっちの攻撃が命取りになる!」
ワタルの声を受け止めたカイリューが赤く熱した拳を振り上げる。ゼクロムは動きもしない。受け止める算段なのか。だが、とワタルは感じ取る。
「こっちのラッシュを、全てさばけるとでも?」
カイリューがゼクロムへと目にも留まらぬ速度の拳を見舞う。ゼクロムがその一撃を受け止めるも、カイリューだけではない。
ワタルの操る全ドラゴンタイプがゼクロム一体を包囲していた。
「自然と、カイリュー以外に目が行かないものだろう? そうするように仕向けたんだからな。当然、気づけなかっただろうよ。オンバット二十体、包囲完了」
オンバットが口腔を開き破壊光線を充填させる。
「続いてオンバーン、オレの乗っている個体以外、全四体、配置完了」
オンバーンが両翼を開き、内耳を震わせる。「ばくおんぱ」が放たれ、音波の檻にゼクロムが捕らえられた。
「いくら堅牢さが売りでも、破壊光線二十体の威力、食らい知れ!」
二十体の破壊光線が同時に発射され、ゼクロムの周囲を暫時、オレンジ色の光の瀑布が包み込んだ。
勝った、とワタルは感じ取っていた。空気中に混ざる生き物の焼けるにおい。加えて、唇に引っかかる生物の油。電気を発生させるポケモン独特の臭気に、勝利宣言を向ける。
「これが、プラズマ団の切り札だったのだろう? 残念だったな。ドラゴンで挑んだのは相性が悪かったようだ」
封じ込めた。そう思い込んだワタルへと、ゲーチスは不敵に――嗤った。
「そうですね。そうであったのなら、何とよかった事か」
ゲーチスが勝ちを確信する理由がない。ワタルは勝利者の声音を振り向ける。
「諦めろ。ゼクロムは敗れた」
「普通に考えれば、でしょう? ワタクシは、どうやら普通ではないようなのでね」
ハッとしてワタルが目線を振り向ける。
黒煙の棚引く空間から、ぬっと黒い手が伸びてきた。悪魔の手のように、防御も儘ならぬカイリューを締め上げる。
「馬鹿な……。確かに攻撃は命中したはず……」
「ゼクロムは、確かにドラゴン。その程度であったのかもしれない。ですが、今はワタクシがいる。ワタクシが、ゼクロムを従えている」
強く杖をついたゲーチスの声に従って、ゼクロムが咆哮する。それだけで黒煙が霧散した。
「生きている……」
ワタルはあり得ないものを目にしていた。ゼクロムの身体には傷一つないのだ。
破壊光線二十発。それに、ハイパーボイスを四発。加えてダメ押しに、逆鱗の拳を数え切れぬほど撃った。
だというのに、生きている。
その体表には艶めきさえもある。磨き上げられた陶器のように、傷が見当たらなかった。
「何をしたんだ……。攻撃を、全部受け流すなんてポケモンのやれる域ではない」
それこそ、神の領域だ、と言いかけて、ワタルは口を噤んだ。まだ戦闘の途中であるのに、自分が弱音を吐くわけにはいかない。
だが、ゲーチスからしてみればその一瞬だけでもよかったのだろう。
頬を綻ばせたゲーチスはワタルへと決定的な言葉を突きつける。
「あなたは、ワタクシよりも――弱い」