第百九話「さよならの言葉は」
映し出された光景にアーロンは唖然としていた。
あの素人組織が? という思いと、ゲーチスなる存在の登場。深まる疑念の中、反射的にメイに目をやっていた。
当人は固まっていた。
何が起こったのか分からない、というように。
「おい、大丈夫か?」
ハッとしたメイがよろりと立ち上がる。心ここにあらず、と言った様子の彼女は危うい足取りで外へと向かっていった。
「あたしは……」
「おい! こんな状況でどこに行く!」
アーロンは思わず声を荒らげて肩に手をかける。メイは無感情な瞳を向けていた。
今までの感情が全て抜け落ちたような表情であった。
「あたしの名前は、Mi3。帰らなくっちゃ」
明らかに今までのメイの様子ではない。シャクエンとアンズも困惑していた。
「メイ? 何を言っているの?」
「お姉ちゃん? どうしたって……」
「ゴメンね。シャクエンちゃん、アンズちゃん。あたし、ここにいちゃいけないの。あの人の下に行かなくっちゃ」
扉を開けようとするメイにアーロンは手首を掴んだ。
メイが機械めいた動きでアーロンを視界に入れる。
「行くな。今行けば、お前は……違う。そういう道を辿るんじゃない」
その言葉に滲み出ていたものを悟られたのだろう。メイはふっと声にした。
「アーロンさん、知っていたんですね」
息を呑んだ。Miシリーズの事、メイが英雄の因子を埋め込んだ人造人間である事。それらを一発で看破されてしまった。
「……俺は」
「いいんです、アーロンさん。あなたがどこで知ったのだとか、そういう事はもう、どうでも。あたし、あの人が呼んでいるから。行かないといけないんです」
指差した方向にはテレビがあった。ゲーチスという男の演説が垂れ流されている。
「あんな、紛い物のために、お前が行く事はない」
アーロンの説得にメイは頭を振る。
「違います。ゲーチスじゃない。あたしを求めている、たった一人の人がいる」
メイの手がするりと離れていく。階段を幽霊のように足音もなく降りていく彼女を止める術がなかった。
「行くな! 馬鹿!」
二階から迸らせた声に下階の店主が怪訝そうにこちらを窺った。
「あ、アーロン? 何だって言うんだ? それにメイちゃんも。今日はシフトじゃないよ」
店主の声に、メイは微笑んでそっと扉を押す。
「さよなら」
「待て! お前は、まだ何も得ていない! まだ、何も成していないんだ! だというのに、呼んでいる、だと? そんな事で、俺が行かせると思っているのか?」
駆け降りようとしたが、アーロンはどうしてだか憚られた。
二階から呼びかけるだけのアーロンに、メイは振り返って首を横に振る。
「アーロンさん。今まで、ありがとうございました」
やけにかしこまった声にアーロンは波導の眼を使う。やはり、というべきか、メイの波導は感知出来なかった。
あの夜と同じだ。
あの仕留め損なった夜。自分の初めての暗殺の失敗と同じ。
メイの波導は人間のそれではない。異物が混じっていた。
共鳴するかのように体内で三つの波導が脈打っている。それら三つがそれぞれに別の代物であるのが分かった。
「これが、英雄の因子だって言うのか」
「メイ! どこへ行くの!」
シャクエンの叫びにようやく我に帰ったアーロンはメイの背中を目で追っていた。
誰もが喫茶店を出て行くメイを止める有効手段を持ち合わせていなかった。
「何で……。どうして、誰も止められないの……」
それは自分とて同じなのだろう。アンズは呆然としている。シャクエンは行ってしまったメイに追いつけるにも関わらず、その足を止めていた。
何かが、自分達では窺い知れない何か大きなうねりが、メイを止めるなと告げていたのだ。そのうねりの正体は誰にも分からなかった。
ただ、メイをこの瞬間、止められなかったのは失敗だった。取り返しのつかない事だったと、全員が分かっていた。
「俺達は、何のためにいたんだ……。あいつに、いつの間にか引き寄せられて、この場所にいたんじゃなかったのか……」
だというのに、いざという時に何も出来ず、立ち止まるばかりで。
アーロンは拳をぎゅっと握り締める。
シャクエンは声を殺して涙していた。彼女からしてみれば光を見せてくれた友人との別れだった。
アンズも声をなくしたまま、一筋の涙が伝っていた。
無条件に信じられる人間を立て続けに二人もなくせば、喪失感ははかり知れないだろう。
「いや……お姉ちゃんまで、あたいを置いていくの。父上みたいに……」
「メイ……。私だけが、止められたのに」
皆が同じ気持ちだ。自分ならば止められた。その歯がゆさに叫び出したくなる。
店主は全員の顔を見やってから、そっと呟いた。
「……君らが、カタギでない事は、知っていたよ」
明かしたつもりはなかったのに、店主は独白するように語っていた。
「多分、裏社会の、陰惨な部分を見てきたのだろう事は想像に難くない。でも、君達を救えるのは、メイちゃんだと思っていた。彼女だけが、あちら側に行ってしまった君達を、引き戻せるものだと……。でも実際には、彼の岸に行ったのは、メイちゃんのほうだった」
悲壮な現実に打ちひしがれるしかない。自分達を留めておいた人間は、手の届かぬ彼方へと旅立ってしまった。
「メイ……、どこへ行ったって言うの……。私、メイと一緒の時以外の笑い方、分からないよ。メイが教えてくれたんだよ、まだ、笑顔でいられる場所がこの世界にはあるって。なのに、メイ……」
シャクエンの涙に濡れた声音に店主がコーヒーを差し出す。
「我々では、メイちゃんを引き戻す事は、出来ないのかもしれない」
残酷な宣言であったが、店主は第三者だからこそ、この現状を誰よりも客観的に見ている。
自分達が動けもしなかったのだ。当然、救い出す事など出来はしないのだろう。
「私、私は……!」
シャクエンが外に出ようとする。それを制したのはアンズだった。
「やめて! シャクエンお姉ちゃん……、みんないなくなってしまったら、あたい、どうしたらいいのか分からないよ」
誰もがここから飛び出したいに違いないのに、その方法が分からない。歩き方を教えてくれた人がいなくなってしまえば赤子同然であった。
「アーロン。お前は、どうするんだ?」
店主に声を振り向けられてアーロンは身を持て余す。
「俺は……」
メイを取り戻す、と一息に言えればどれほど楽だろう。
しかし、隠し事をしていた。プラズマ団に聞いていたメイの秘密。それが露見した以上、もうメイとはまともに話せる気がしない。
自分はメイからしてみれば全てを知る得る鍵であったのに知らぬ振りを通してきた人間だ。恨む気持ちもあるのかもしれない。
「俺は、どうすればいいんだ」
正直な気持ちだった。どうすればいいのか分からない。所詮は暗殺者だ。
誰かの命令がなければ、動く事さえも出来ない。
裏稼業の人間は命じられれば何でもする。どのような薄汚れた事にだって手を染める。だがそれは、目的意識があるからだ。
目的のない裏の人間は、どこにも行けない。逃げる事も、ましてや戦うことも出来っこないのだ。
「アーロン。お前が一番に、メイちゃんを止められるのだと思う」
店主のてらいのない言葉にアーロンは面を上げる。
「だが、手を離してしまった」
「もう一度、繋げばいいんだろう? 一度手を離したくらいで、切れる縁でもないだろうに。殊に、メイちゃんとお前は、そう容易く切れるものかね」
店主の言葉にアーロンは部屋にとって返した。
テレビから流れるゲーチスの演説。その波導を読み取る。
「……何だこれは」
ゲーチスの声だけではない。別の波導が流れ込んできていた。
メイはこれを読んだのだ。これを読み取って、自分を呼ぶ声を関知した。メイにしか分からない暗号であった。
「これは、音階か? 波導が音階になって、流れてくる」
「お兄ちゃん? どういう事なの?」
「波導使い……。メイはどこへ……」
「馬鹿は、これを受け取った。今、解読する」
アーロンは全身全霊をかけて波導を判読する。音階の形状になっている波導だ。通常、ゲーチスの演説のほうが目を引くために紛れ込ませやすい。
一方通行の暗号であったが、その音階はメッセージを示していた。
「目覚めよ、Mi3、揺籃の時は過ぎた。プラズマフリゲートにて始まりの女神と共に君を迎えに行く。来るのは……=Bそういう事か……」
「波導使い、メイはどこへ?」
「ヤマブキのセンタータワーだ。そこで馬鹿を迎えるつもりなのだという。プラズマフリゲート、と言っているな。この空中戦艦の事か」
「行かなくちゃ!」
飛び出しかけたシャクエンをアーロンは呼び止める。
「待て! これは、何が映り込んでいる?」
ゲーチスの演説を突如として遮ったのは濃い影であった。暗雲か、と首を巡らせた団員達が一斉にモンスターボールを取り出す。
ゲーチスも演説を取り止め、口角を吊り上げて声にした。
『来たか。カントーの守り手』