MEMORIA











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純真の灰色、共鳴する世界
第百五話「安息の時」

 初めて、世界を見る瞳というのは、どのような輝きを放っているのだろう。

 それは未進化のポケモンが、タマゴから初めて望んだ景色であったり、あるいは人間の赤子が、ようやく瞳を開いた瞬間でもあったりする。

 初めて見る景色というのはそれだけで輝いているのだろうか。それとも、この世界はくすんだ色をしているのだろうか。

 守るに値する世界かどうかは、その人間の印象に依存する。

 最初に見たのが殺人の光景であれば、その人物の命の価値基準は大きく変わるだろう。

 逆に、最初に見たものが救いであったのならば、その人物はもしかすると、救世主になろうとするかもしれない。

 ただ、殺人者を育むのも、救世主を育むのも、同じ世界だ。

 ただ、見ているものが違うだけ。

 この世をどこから眺めているのかだけが、少しだけ位相の違うだけの話。

「ボクはね、最初に見たのがどっちだったのか、思い出せないんだ」

 そう、彼の人は語った。

 エメラルドグリーンの長髪を風になびかせ、黒い帽子を被った少年。

 首から提げたパズルのネックレスを手にもてあそび、彼は口にする。

「王様って言うのは、最初に見るものが何なのだと思う? 煌びやかな宮殿の、この世の綺麗な側面か。あるいは、どぶのように汚らしい、人間の悪の側面か。ボクには分からない。自分がどっち側だったのか、分からないんだ。でも、キミには、分かるんじゃないかな。キミは、そっち側を目指しているんだろう?」

 名前を呼ばれたが、認識出来なかった。それが自分を指しているのか、それとも違う存在を差しているのかの判別がつかない。

「キミはいつだってそうだね。正しくあろうとする。英雄なんて、そんなものなのかもしれない。正しくあろうとする、善人という意味ではなく、その人間にとっての正しき道こそが、英雄を育てるんだ。それが傍目からしてみれば悪の道であっても、正しくあろうとする人間の光は消せない。誰にだって打ち消せない、人間の心の輝き。ボクには彼と会うまで、それがよく分からなかった。会ってからの事しか、ボクには語れない。キミに語る事は、だから後付の、ボクが彼と出会ってから知った、この世の美しさだ。精緻な数式でもなく、科学の進化でもない。感情、と言ったほうがいいのかな。そういう、計算出来ない代物だ。それを、彼は残して行ってくれた。残して、行ってしまった。ボクには彼と出会う資格はもうない。きっと、このまま一生、出会えぬまま過ごすのだろう。生きていくしかないのだろう。彼もボクも、ポケモンも、トモダチも、どれも等しく、生きているのだから。生きていくしかないのだから。だから、キミに託すのは、思いだ。そういう、ボクの、身勝手かもしれないけれど、そういう思いなんだ。記憶だとか記録だとか、言い換えたっていいけれど、ボクが言えるのはただ一つ。生きている事は、とても尊い事なんだ。キミも、ボクも。それに気づけた。気づく事が出来た。だから、託すよ。この思い。消える前に、キミに――」

 そこで不意に景色が途切れて、次に浮かんできたのは泡沫であった。

 濃紺の水の中を自分は目線だけで泡沫を追っている。

『Mi3、順調です』

 凝って聞こえてくる声に耳を澄まそうとすると不意に別方向から声が放たれた。

 ――ねぇ、あなたは、世界が美しいと思う?

 問いかけに振り返った瞬間、またしても景色が変わっていた。

 桜の舞い散る中、髪を解いた少女が佇んでいる。

 その姿が自分だ、と認識した瞬間、空間にもう一人の自分が生まれた。

 写し身の自分が声を発しようとする。

 髪を解いた姿の自分自身が、愛おしく目を細めた。

「消えないで……」

 名前が紡がれたが、その名前だけが聞き取れない。

「あたし、なの?」

 尋ねると自分にしか見えない少女は微笑んだ。

「いつかきっと分かるから。あなたにも、この世界が美しいかどうか、それだけを覚えておいて――」

 景色が切り替わり、灰と濃淡の炎が舞う光景が眼前に広がった。

 焼かれている。

 地表そのものが。景色そのものが。

 目に映る全てが、焼き尽くされている。

 人もいた。ポケモンもいた。何もかもが、焼かれていた。

 焦土だ。一面に広がる焦土だけが、世界であった。

 鼻をつく異臭。生き物の焼けるにおい。

 目を開いている事さえも難しいほどに、煙く漂う視界。

 何もかもが終わったのだ、という確信だけが胸を占めていった。

 同時にこれからが再生の時であった。

 誰かが歌っている。

 懐かしい歌を。

 子供をあやすように優しく、同時に世界を宥めるように、慈悲深く。

 とても古い歌。意味さえも分からない、古の歌。

 歌が聴こえる。同じように歌っていた。

 平和を祈る歌を。その喉が、人間のそれでない事に、自分は気づく。

 ハッとした瞬間、世界が暗転した。
















「おい、起きろ」

 ソファを蹴られて、メイは飛び起きた。

 アーロンがフライパンを持っており、既に朝食の準備が整えられていた。

「あれ? あたし、寝ちゃってたんだ……」

「寝ちゃってたんだ、じゃない。起こそうとしても起きないから勝手に朝飯の準備を始めていた」

「メイ、具合でも悪いの?」

 そう問いかけてきたシャクエンにメイは首を横に振る。

「ううん、そんな事はないんだけれど……」

「だけれど?」

 煮え切らない言葉にシャクエンは問い返す。

「あたしにも、よく分かんないや」

「分からないならさっさと退け。ソファを占有している」

「あーっ! そういう言い方ってないんじゃないんですか! アーロンさん!」

「でも、メイがなかなか起きないから」

「メイお姉ちゃん、ずっと寝息立ててたよ。みんな起きているのに」

 シャクエンとアンズの言葉にメイはうろたえる。

「あ、あたし、そんなに図太く眠っていたの?」

「図太いのはいつも通りだが、今日はなおさらだったぞ。叩いてもひねっても起きない」

 ぼやくアーロンがスクランブルエッグを作って盛り付けている。

「叩いてもひねっても、って……。叩いたんですか?」

「何をやっても起きんからな。そのうち、起こすのは面倒だと思い始めた」

「ひっどい! アーロンさん、そんな言い草ないでしょ!」

「でも、起きなかったメイにも非があるよ」

「昨日からずっとこの調子だからね」

 アンズとシャクエンは今朝ばかりはアーロンの味方らしい。そんなに眠っていたのか、とメイは訝しげになる。

「あたし、変な事言いませんでした?」

「寝言か? 言っていれば話の種にもなるんだが、何にも言わずずっと眠っていただけだ」

 ぐうの音も出なかったが、ある種安堵した。何か言っていれば、もしかしたら三人に危うい眼差しで見られているところだったのかもしれない。

 額に手をやって熱がない事を確認する。

 今までに見た事のない夢であった。

 その割には妙に生々しく、かつての思い出であったかのように鮮明だ。

「夢……、あたし、夢なんて」

 見ない、と言おうとしてアーロンが皿を運んできた。

「何だ? 夢見が悪かったのか?」

「あっ、まぁ、そんな感じですかね」

 曖昧に返すとアーロンは眉をひそめる。

「馬鹿でも夢は見るんだな」

「失礼な! 馬鹿って!」

「確かに今のは失言だった。夢を見る全ての人間に対して、な」

 より一層酷い罵倒にメイは言い返そうとしたが、その瞬間、頬を熱いものが伝った。

「メイ……泣いているの?」

 えっ、と困惑する。目元を拭うと涙が溢れていた。

「お兄ちゃん、泣かせちゃ駄目だよ」

 アンズの言葉にアーロンが僅かに当惑したのが伝わった。

「何故、泣く」

「わ、分かんないですよ、あたしにも。何で? 悲しくもないのに、涙が出るんでしょう?」

 おろおろとするメイに、一同は困り果てていた。

「いや、聞きたいのはこっちで」

「何か、嫌な事でも思い出したの?」

 嫌な事、と胸中に語りかける。

 あれは何だったのだろう。

 誰かと話している夢だった。かと思えば、世界が焼かれている夢でもあり、どうしてか髪を解いた自分と対面している夢でもあった。

 夢なのだから支離滅裂は当たり前なのだが、あまりに現実離れしている。

「よく、分かんないです、あたし……。何が、どうなったんでしょう?」

「こっちが聞きたいところだ。飯を食え。そうすれば涙も止まるだろう」

「あ、アーロンさん、あたしが、お腹空いて涙を流しているとでも……」

 言いかけて腹の虫が鳴った。これにはさすがに赤面せざるを得ない。

「い、今のナシ!」

「ナシもあるか、馬鹿。飯を食え。そうすれば涙も収まる」

 テーブルを囲って四人で食事をする。

 どうしてだろう、とメイは涙の痕をさすった。

 この平和な時間が、いつまでも続いて欲しい、と切に願っていた。


オンドゥル大使 ( 2016/08/08(月) 20:31 )