第九十二話「点と線」
常習者の住所の示したのは一軒のアパートであった。
アンズは足音を殺して分け入り、扉を軽くノックする。
人の気配に、中にいる人物が身じろぎしたのが感覚で理解出来た。
「スピアー。扉を破って」
主の言葉にスピアーが針を突き出し、扉を叩き破る。木材の扉は容易く破砕された。
狭苦しい部屋の中で一人の男が縮こまっている。
散乱しているのは注射器と白い粉であった。
「だ、誰だ? 何のためにここに来た?」
アンズが視線を向けると男は、まさかと息を呑む。
「殺しに来たのか? オレが、支払いを滞納しているから」
「そんな事で来たんじゃない。お前が、あるクスリの常習者だと知って来た」
「あるクスリ……。色々試しているが、オレはどれの料金を滞納していたんだったか」
「だから、料金の取立てに来たんじゃない。今日は個人的な興味で来た」
アンズはアタッシュケースを差し出し、開けて中身を見せた。
「メモリア……」
見るなり男がそう呟く。やはり、知っていたか。
「メモリアの効果を詳しく知りたい。話せる?」
「何だってこんな、買い手もないクスリを? あまりに売れないからって言って、この街から撤退するって噂も流れたのに」
「その噂の真偽も聞かせてもらう」
男はよろめきながら立ち上がり、コーヒーカップに粉末のコーヒーを注いだ。何か呑みながらでなければやっていられない話なのだろう。
「その、何か飲むか?」
「何でもいい」
男はコーヒーを二人分入れて、部屋の端っこに寄せていた机を自分とアンズの間に置いた。
「その、何が聞きたい?」
湯気を漂わせるコーヒーを男はすする。アンズも一口飲んでみて、中に入っている薬剤の気配を感じ取った。
睡眠薬だ。
恐らく、警戒しての行動なのだろう。
だが自分に薬の類は通用しない。
濃度からして十分後くらいに効果が現れるはず。それまでに聞けるだけ聞いておく。
「メモリアのようなクスリが何故、流通のレートに上がったのか」
「ああ、簡単な事だよ。新しいクスリってのは一応、顧客の間で試すんだ。で、好評ならば売りさばく。もし不評ならば闇から闇へ。使う人間のいるほうへと流れる。だけれど、メモリアなんてオレ以外、てんで使っている奴は見ないな。そもそも効力がマユツバ、って思っている奴が多い」
「記憶が蘇る」
「それも、意図していない、本当の潜在記憶が、な」
男は首肯して一枚の画用紙を取り出した。そこには意味不明な図柄が描かれている。
「メモ代わりに描いておいたんだ。こういう風に潜在記憶が映る。まぁ、オレの場合、これは多分母親の胎内。そこから見た記憶だろう」
一面が赤い画用紙はそれを意味しているのか。だがそうとなるとますます怪しい。
「そこまで遡れるの?」
「分量による。オレが常習しているのは普通の吸引量の倍だから多分通常の濃度では、この半分、十年か、あるいはそれよりちょっと上かな。まぁとにかく、あんたみたいな小さな子には母親の腹の中にいる時の映像だって見えるよ」
「もう一つ、潜在記憶なわけだから、意図的に見たものではなくっても」
「ああ、それか。そうだよ。例えばさ、看板とかを目にする事も多いわけだ。で、いちいちどこに何があったかなんて覚えちゃいない。思い返す意味もなければ。でも、そういう記憶だって蓄積はされているんだ。だから、思い出せる。ただし、それを選択して取り戻すのは難しい。このメモリアはまだ不完全なんだ。夢を見る感じに近い。夢の中の事象をコントロール出来ないように、メモリアの語る記憶もまた、然りだ」
「つまりメモリアを催眠療法のようなやり方に用いるのは不可能、っていう事?」
「不可能じゃないが、ちょっとした無理が生じる。第一、医薬品として使うには使用目的が限られる。これを医療流通させるのは不可能だと思ったほうがいい」
こちらが医療従事者に配るとでも思ったのだろうか。男は首を引っ込める。
「一般流通は諦めなよ。これは、闇取引のためのクスリだ」
「分かっている。でも、本当に……例えば記憶喪失の人間から、失った記憶を取り戻す、みたいな事は」
「やろうと思っても確実性が少ない。このクスリを解析出来るのならばあるいは、って感じかな」
男が目線をちらちらと時計に注ぐ。そろそろ睡眠薬が効き始めなければおかしいのだろう。アンズはわざとらしくよろめいた。
「これは……」
「悪いね。こういう話は門外不出なんだ。だから、このまま眠ってもらって後の処理は組織に回させてもらう。そもそもオレを追ってきた時点で、その可能性に気づかなかった自分を恨むんだな」
男がスピアーへと視線を配り、手で払う。
「おい! このポケモン、さっさと戻せ! 濃度の濃いクスリ漬けにして欲しくなかったらな」
アンズは一応従う振りをしてモンスターボールにスピアーを戻す。男は口元に笑みを浮かべて、よし、と声にした。
「本当なら、少しだけ楽しんでから組織に回したいところだが、その余裕もないな。どうしたってメモリアなんてマイナーな薬物を嗅ぎ回っているのか知らないが、行動が筒抜けなんだよ。電話を寄越してもらっていて助かったぜ」
電話。ここに来るまでに介した人間は二人。どちらかが裏切ったのか。
男は端末を使って何者かに電話をかけていた。
「はい、もしもし……。ええ、釣れました。メモリアを嗅ぎ回っているガキです。ええ、仰っていた通り、なんて事はないガキでしたよ。今眠らせてありますんで、後の処理は……。ええ、車に乗せて連れて行けばいいんですね?」
男は自分を抱えてアパートの下に停めてあるワンボックスカーに放り込んだ。
運転席に乗り込んだ男は息をつく。
「あの人も人遣いが荒いな。まぁ組織の幹部にそんな事言っても野暮かもしれないが」
ワンボックスカーが走り出す。アンズは薄目を開けて外の景色を記憶した。
道順からしてヤマブキの東側に赴こうとしているらしい。
それまではせいぜい眠りこけている間抜けを演じる事としよう。
信号待ちをしている男は不意にぼやいた。
「……もしかしてこのガキ、最近あったメモリアの高額流通に関して、噛んでいるのを分かっていて接触してきたんじゃないだろうな?」
――高額流通?
初めて聞く言葉にアンズは眠っている振りを貫き通す。
「いや、知るはずもない、か。組織だってあのプラズマ団にメモリアを渡しているだなんて一部の人間にしか知らせていないはずだし」
プラズマ団。その単語にアンズは確信する。
――点が線になった。
その組織とやらの中枢に潜り込み、メモリアの流通を押さえる。
そこから先は……出たとこ勝負であった。