MEMORIA











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迫撃の鈍色、裏切りの傷
第百三話「ここにしか咲かない花」

 セキチクへ行く事をカヤノからの了承を得て、アンズとアーロンはバスに揺られていた。

 サイクリングロードを抜けて、アンズからしてみれば一ヵ月ぶりの我が家が視界に入る。

 アーロンはピカチュウを繰り出してから中に入った。一月前よりも黴臭い。

「父上。帰って参りました」

 アンズが恭しく頭を垂れると、闇の最奥から凝った人影が僅かに気配を伝えた。

「アンズ、か。それに波導使い。何だ。ワタシを、嗤いに来たのか」

「そうではない。お前の娘が、命を賭して、お前の記憶を呼び覚ます手段を講じていた」

 アーロンの口から自分の愚行が説明される。叱責が来ると思っていた。

 だがキョウの口から出たのは意外なほどの安らかな声であった。

「そう、か。大義であった、アンズ」

 まさか褒められるとは思っていなかった。余計な事を、と言われるのが関の山だと思っていたのだ。

 アンズは思わず駆け出す。

 その視界に入った父親の姿に足を止めた。

 石化が進行しており、最早口元以外のほとんどが石に覆われている。見るに堪えなかった。

 あれほどの憧れと、強さを一身に受けた父親の面影はもうそこにはない。朽ちていくだけの存在であった。

「父上……」

「アンズ、もうワタシにはお前を叱るだけの権利もない」

「そんな……! 父上はいつだって、あたいの立派な父上です! 誇れる父上なのです! だから、そんな……そんな悲しい事、言わないでください……」

 尻すぼみになっていく声には嗚咽が混じった。あれほどの憧れと強さの上に立っていた父親の威厳は既に消え失せ、ただの石と化していくだけの人間しかいなかった。

「キョウ。メモリアを使えば、お前が無意識下に見たという石化の波導使いの情報が分かるかもしれない。だが、俺の眼から見ても分かる。もうお前自身が、限界だ」

 波導使いの口にする限界とは最早死以外の何者でもない。アンズは頭を振った。

「嫌です! メモリアを、渡せません!」

 最後の最後に親子らしい事も話せないまま、石化の波導使いの情報だけを父親の口から発するなど耐えられない。しかし、キョウの声音は安らかであった。

「アンズ、ワタシのために、行動してくれたのだろう。大義であった、と言っている。毒使いの一族の誉れだ。お前は、最後の最後に、ワタシに会いに来てくれた。もうそれだけでいい」

 思い残す事はない、と付け加えたキョウはアーロンに視線を移す。

「波導使い。ワタシはあとどれだけだ?」

「メモリアほどの高刺激の薬物を打てば、石化が早まる可能性がある。半刻も持つまい」

 非情な宣告にもキョウは声を荒らげる事もない。全てを諦観の向こうに受け入れている。

「そう、か。アンズ、メモリアをワタシに」

「出来ません。あたいは、父上を殺すような真似をしたくって、これを無毒化したわけでは……!」

「アンズ。もういい。人はいずれ死ぬ。遅いか早いかだけだ。もう、ワタシは充分にお前を見られた。母さんもきっと、見守ってくれているだろう」

 初めて、母の事がキョウの口から出た。アンズが顔を上げると、キョウは静かな語り口で言葉を継ぐ。

「母さんは、立派な毒使いであった。ワタシを凌駕するほどの才能に、人望もあった。本来、彼女が跡目を継ぐはずだったのだが、流行り病で死んでしまったのだ。その時、命を犠牲にして産んだのが、お前だったのだよ、アンズ」

 知らなかった。アンズはキョウを見つめたまま固まっている。

「そんな……。母上が、そんな、あたいのために……」

「だから、もういい。あいつもきっと、こういう形でしか、この世を去れないワタシを、分かっているはずだから」

 アンズは手甲を握り締め首を横に振る。だからと言って、父親を殺す真似など出来ない。

 悟ったのかキョウがアーロンを呼んだ。

「波導使い。介錯を頼む」

 ピカチュウの放った電気ワイヤーが手甲を開き、そこから小瓶を取り出す。アンズが反応して手を伸ばす時には、既にアーロンが握り締めていた。

「これが、お前の父親の望みなんだ」

 歩み出すアーロンにアンズはすがりついた。今までこのような見苦しい真似を見せた事はなかった。

「嫌! やめて! お兄ちゃん! 父上を、殺さないで」

「違う。キョウは、この日のために、石化の苦しみを背負ってきた。因縁は、こいつの手でつけさせるべきだ」

 アーロンが電気ワイヤーに巻きつけてメモリアをキョウの前に運ぶ。キョウは僅かに動く手でそれを引き寄せて、口の中に放り込んだ。

 ハッと目が見開かれ、キョウは口にしていた。

「そうか……、これが、我が怨敵。石化の波導使い。このような姿をしていたのか……。気をつけろ、波導使いアーロン。それに我が娘、アンズよ。奴は今までの敵の比ではない。強過ぎたのだ。この、紫色の波導は……」

「紫色の波導?」

 アーロンが信じられない事を聞いたような口調で歩み寄る。その時には、キョウがその場に突っ伏していた。石化した身体を痙攣させる。

「おい! どういう事だ! 紫色の波導など、この世にあるはずがない! そいつはどんな顔をしている?」

 身も世もないほどの焦りを見せるアーロンに対してキョウは冷静だった。

「ああ、そうか。ワタシは、もう奴の幻影に怯えなくってもいいのか。波導使い、それにアンズ。先に行く」

 全身を石化が覆い尽くす。アーロンは必死にその肩を揺すった。

「待て! キョウ! お前、何を見て……」

 その言葉は通じていなかった。

 石化した父親の骸が静かに砂となって消えていく。

 あとには何もない、ただの砂ばかりが広がっていた。

 自分の咽び泣きの声だけが無辺の闇の中、静かに響いていた。
















 キョウはセキチクの共同墓地に葬られる事になった。

 とは言っても死体がないので砂を埋めただけである。

 アンズは埋めた砂の上に一粒の種を撒いていた。後ろで見守るアーロンにアンズは口にする。

「この種、春には芽吹く。綺麗な花が咲くの。赤くって凛々しい、綺麗な花が」

 その時まで自分達が生き永らえるかも分からない。ただ、この時ばかりは命が花咲く頃まで存在する事を祈った。

「キョウは、最後の最後に、自分の敵を見つけた。俺は……」

 そこから先を濁す。自分の敵は何よりも師父だ。だがそれはこの世で唯一の、血の繋がりを絶つ事ではないのか。教えを乞うた人間を殺さなければならないのが波導使いの宿命ならば、その宿命の行き着くところは――。

 アンズは砂の一部を固めて手甲の中に入れた。

「御守に、ちょっとだけ。いつでも父上が見てくれているように」

 アンズは悪戯っぽい笑みを浮かべようとして、失敗した。

 堪え切れなかったらしい。涙が頬を伝っていた。

「泣ける時に泣いておけ。涙が枯れ果てて、人は人でなしになる。俺も、いずれはお前も」

 師父の語った事は本当だった。

 血の繋がりだけは容易に断てない。この世で最も尊ぶべきものの一つだ。

 声を殺して泣くアンズをアーロンは静かに抱き寄せた。今は、すがれるぬくもりがあるのならばすがってもいい。

 それはきっと弱さではない。


オンドゥル大使 ( 2016/08/03(水) 21:49 )