第百話「心の在り処」
もう戻れないのだと、アンズは思っていた。
メモリアの流通。それが死罪にまで関わるものだとは思わなかった。だが思わなかった、で許されるものではないのだろう。
その証拠にビルの谷間に追い詰められ、メガスピアーを盾にしてようやくこの状況を律している自分がいた。
相手の紳士――コクランは焦る事はない。メガシンカポケモン相手に急く事もなく、じわじわと真綿で締め付けるように、少しずつダメージを与えていく。
こちらが隙を見せれば一撃。その隙を補完するために反撃すればさらに隙を見つけて一撃、とちまちましたものであったが、メガシンカポケモンを相手取るのに慣れた戦法であった。
「……性が悪いわね。あたいのメガスピアーに真正面から挑まず、さっきからチマチマと」
「悪いが、メガシンカを侮ってはいないのでね。確実な手で詰ませてもらう」
コクランは眼鏡のブリッジを上げて手を薙ぎ払う。
キリキザンが思念の刃を振るい上げてメガスピアーへと接近する。
「メガスピアー! ダブルニードル!」
槍術の構えを取ったメガスピアーがまず一撃の突きをキリキザンに放った。キリキザンは刃の腕でそれをいなす。しかし真打はもう一撃の構えた針である。
大きく隙の出来たキリキザンの腹部へと針が突き刺さった。コクランはうろたえず、そのままキリキザンに命じる。
「針をくわえ込め。メタルバースト」
刃の肋骨がメガスピアーの針をがっちりとくわえる。外れなくなった針が射程外に逃げる事をよしとしなかった。
放たれた鋼の散弾がメガスピアーの針を攻撃する。
亀裂が走り、メガスピアー本体にもダメージが至った。このまま消耗戦を続けても勝つのは不可能だ。
――何よりも、とアンズは手首に巻いたキーストーンから伝わる脈動の乱れを感じていた。
トレーナーとポケモンとの同調も限界に来ている。
メガシンカが解けてしまえば、それこそ格好の的だ。
切れそうな集中を必死に留めるも、それは大きな隙となってキリキザンに攻撃の機会を与えてしまう。
「キリキザン。そろそろとどめを。サイコカッター!」
キリキザンが大きく片腕を引き、紫色の思念の刃を拡張させる。ビルの壁面を切りつけ、その攻撃が完遂されようとした。
アンズは奥歯を噛み締める。
ここまでか。
そう感じたその時であった。
「〈蜃気楼〉! 噴煙!」
響き渡った声と共に火炎弾が空から降り注ぐ。その炎は自分とキリキザンの間に割って入った。
キリキザンが咄嗟に飛び退る。
不可視の獣が降り立ち、炎のフィールドを顕現させる。その獣に追従したのは黒衣の少女であった。
「シャクエン、お姉ちゃん……」
シャクエンは手を払い、バクフーンに攻撃を命じる。即座に炎熱を発生させてキリキザンを退けた。
「何の真似でしょうか。この街の殺し屋、炎魔」
「アンズは、殺させない」
コクランは肩を竦める。
「分かりませんねぇ。あなた方の信頼、とやらは。その瞬撃の殺し屋は、あなた達から偽って、メモリアという危険薬物を流入させていた。咎人なのは明らかです。本人も認めている。だというのに、何故庇うんです?」
「私が守ってもらえたように、彼がアンズを信じているから、私も信じる事にした。たとえ罪の道だとしても、理由も聞かずに殺させはしない」
「それが分からぬ、と言っている。キリキザン、辻斬り!」
闇の刃がキリキザンの腕から引き伸ばされ、バクフーンを襲った。漆黒の風が突き抜け、一瞬だけシャクエンの眼を眩ませる。
その一瞬でキリキザンが跳躍していた。
シャクエンはバクフーンに指令する。
「噴煙で遮って!」
バクフーンの襟巻きが翼のように伸長し、ビルの壁面をぐずぐずに溶かして壁を作り出す。
しかし、キリキザンの使った「つじぎり」はただ単に攻撃の領域を延ばす事だけを目的としたものではない。
足先に纏いついた闇の瘴気が炎を減殺させているのだ。全身これ武器というキリキザンならではの戦法であった。
「辻斬りは何も手で使うだけのものではない。足先に纏った瘴気の渦で、今のキリキザンには炎を物ともしない脚力がある!」
炎の壁を蹴ってキリキザンが舞い降りる。
それはちょうどシャクエンの背後であった。
シャクエンが手を払って命令しようとするのを、その首筋へと狙いを澄ませた切っ先が遮る。
「王手、というものですね。トレーナーの喉を潰しても、ヤマブキ随一の殺し屋は通用しますか?」
バクフーンの反応さえも間に合わない。まさしく王手であった。
シャクエンが歯噛みしたのが伝わる。これ以上の応戦は無意味と判じたのだろう。
「我らフロンティアブレーンは殺し屋程度に遅れは取らない。言っておきますが、――私はあなた方よりも強い」
突きつけられるまでもない。既に勝敗は決していた。
炎の壁が剥がれ落ち、眼鏡のブリッジを上げたコクランの姿が視界に入る。
「さて、頼みの綱も切れましたね。炎魔シャクエン。かなりの使い手でしたが、私には及ばない。フロンティアブレーンの強さ、とくと刻み込んだ事でしょう。キリキザン、瞬撃を」
キリキザンが拡張した闇の刃をメガスピアーに突きつける。応戦のしようもない。メガスピアーから戦意が凪いでいった。それは自身の力の及ばなさを意味している。
紫色のエネルギー核が剥がれ、メガシンカが解けた。
「悪く思わないでくださいね。これも、世界秩序のため」
キリキザンがスピアーを跳ね除ける。
一撃であった。ただの払っただけの腕でスピアーは羽虫のように壁にめり込んでしまう。
アンズは膝を落とした。
もう戦えない。これ以上、自分は抵抗さえも出来ない。
「メモリアを流通させた罪。その命で償いなさい」
キリキザンがその手を掲げる。刃が陽光に煌いた。
ああ、終わった、とアンズは目を瞑る。
不思議と網膜の裏に蘇るのはこの街に来てからの記憶だった。
メイやシャクエン、アーロンとの日々。
偽りもあった。騙し合いもあった。しかしそれ以上に――満ち足りていた。
どうして、とアンズは感じる。
実の父親であるキョウの下で育て上げられた暗殺の記憶よりも鮮明に、彼らとの日々が胸を打つのだろう。
自分は暗殺一門の誉れ。暗殺術を叩き込まれた鉄の少女。
なのに何故……、何故その心の在り処は、故郷のセキチクではなく、この混沌とした街にあるのか。
どうして、こんなにも涙が頬を伝うのか。
「死罪を」
コクランがすっと手を振り下ろす。
その瞬間、鋼鉄の刃が肩を引き裂いた。
血染めの視界に、滲む青空。
どうして、ここまで綺麗な空が、自分を迎えるのか。
迸る血の臭い。自分の血は嗅いだ事がなかったな、と今さらの感慨が胸を占める。
面を伏せたアンズへと今度はキリキザンが首筋へと狙いを定める。
首を落とす気なのだ。
「最後に聞きましょう。メモリアを流通させた事、後悔しているかどうか。しているのならば、一撃で死なせてやりましょう」
アンズはその問いに頭を振った。
やらなければならない事であった。その使命に、後悔など挟む余地はない。
「そう、か」
少しだけ残念そうな響き。
キリキザンの腕が無慈悲に振るい落とされた。