第八十九話「鬼の系譜」
弔い、と言っても簡素なものだ。縦貫道を封鎖したホテルによる一時的な葬列。
ホテルの構成員達が面を上げ、運ばれていくオウミの遺体が入った棺おけを目にする。
明日は我が身の葬列だ。だからこそ思うところもあったのだろう。
一人の構成員が挙手敬礼をした。それに続き、兵達が敬礼を棺おけに注ぐ。
無言の敬礼に囲まれ、この街に生きた悪人が弔われていく。
その光景をアーロンはビルの屋上から目にしていた。傍にはシャクエンがいる。彼女の眼にはどう映るのだろう。
自分を利用しようとした男の死。それも酷く惨めで、最後の最後まで他人を騙し抜いた男の生涯。
「人は死ねば灰になる。他人も、自分も、そうなのだと思っていた」
今はそう思っていないような口調だ。アーロンは問いかけていた。
「葬列が組まれ、ホテルが奴の死を弔うと決めたのは、何も今回の一件があったからだけではない。元々、借りを多く作る男ではあった」
ホテルも生前に見送るのに足りた人間として今回のような処置を施しているだけだ。
オウミの行いが善性であろうと悪性であろうと、ホテルの方針は変わらない。
――ホテルミーシャはこの街の監視者。
監視者の眼を逃れて人を殺した人間に相応しい咎を、とされて展開された今回の作戦。オウミをただの敵性存在として排除するのもホテル側の対応としてはあった。だが、それが結果的に正反対になってしまったのは、最後の最後に、オウミがこの街の秩序に生きたからだろうか。
善行を積めば、人は天国に行けるという。
しかしその逆の悪徳を積んだ人間は必ずしも地獄に落ちるとは限らない。地獄よりもなお深く暗い場所で幽閉され、現実という楔に繋がれた人間達が生き地獄を味わっているのがこの街だ。
それを少しでも改善しようとしたのならば、少しでも弔われるべきなのだろうか。
悪徳警官だと自ら言ってのけ、悪として死んだオウミは悪に葬られた。
彼の死を本当の意味で知っているのは悪のみ。
一般的には殉死、あるいは事故として処理される一個人。それを悪の側面で見つめ続けた自分やホテル、それにシャクエンはどう感じているのだろう。
宿主であった人間の死に、何か思うところはあるのだろうか。
「オウミは、お前の人生を歪めた男だ」
「でも、何も感じない。怒りも、喜びも、何も……。本当に、何も感じない。だって言うのに……」
忌々しげに呟いたシャクエンの瞳からは涙が溢れていた。止め処ない。
あの男を恨みや復讐の相手だとしか思っていなかったわけではないのかもしれない。
シャクエンは涙を拭って声にする。
「恨みたいのに……。殺したいほど、憎いのに……」
どうして、と嗚咽を漏らす。
アーロンには少しだけ分かるような気がしていた。
殺したいほど憎い相手が、同時に、いなくなる事を全く想定出来ない相手でもある。だから、こうした突然の別れに戸惑うのだ。
それが人の心なのだと。
「憎んでいた、恨んでいたからこそ、流れる涙もある。今は、泣いておけ。炎の殺し屋が泣ける機会も、そう多くない」
鬼が泣く。この街を震撼させ、今もまだ、恐怖の対象として屹立する鬼が、今はただ少女として涙している。
愛おしかったわけではない。
愛情も、思慕も、何一つ感じていない。
ただその胸にあったのは憎悪と怒りと、悲しみだけ。
だがそれが時に、人の感情を揺さぶる。本当に涙の流れない時は、相手の事を何一つ感じていなかった時だけだ。
涙が枯れ果てるのは、死ぬ時と、心を捨てた時だけ。
「……よく、師父が言っていた。自分の死に涙するな、と」
いずれは殺さなくてはならない師父の言葉だ。
――自分を殺す時、絶対に涙だけは流すな。
シャクエンが顔を上げる。アーロンは師父の口ぶりを真似る。
「大勢を殺し、愛する者も殺し、自分の心も殺し、何もかもを殺した末に、最後の最後に殺すべき対象は、ここなのだと」
アーロンがコートの上から握り締めたのは左胸だ。この心の臓を止めてみせろ。
「お前の到達点はここだ。ここに辿り着くためだけに波導を極めろ。ここに辿り着く時は、お前の波導が真に芽吹いた時だ。ならば、せめて笑え。涙するな。それは、波導使いのするものではない」
「波導使いも、鬼と同種なの?」
「ある意味では、鬼よりもなお、人間を捨てた存在だろうな」
オウミの遺体が入った棺おけが燃やされる。火葬され、灰に還る。塵は塵に。炎の暗殺者の人生を巧みに操った男の最後が火葬とは――。
「行くぞ。奴の死を、悔やんでいる暇はない」
「波導使いは、あなたはもう、人の心を殺したの?」
「いずれ殺さなくてはならない。師父を殺す時に、迷いの生じぬよう」
踵を返し歩み出したアーロンの青いコートを風がはためかせる。
あの男の吸っていた煙草の匂いが風に舞った。
「……もう、行ったのか」
呟き、アーロンは呼びかける。
「置いていくぞ、シャクエン」
するとシャクエンは目を見開いて呆然としている。
「今、名前……」
「何をしている」
歩み出したアーロンの後に、シャクエンは続いていった。
「ああ、オウミ警部。そんな、まさか……」
殉職。
その言葉の意味するところにニシカツが頭を振る。
警察内部でも弔われたが、ニシカツは涙よりも悔恨が勝っていた。
あの時、オウミを止められたのは自分だけであった。だというのに、彼を駆り立てる要因を作ってしまった。
ある意味では、自分が殺したも同義だ。
「オウミ警部……、命令を寄越してください。そうでなければ、どう動けばいいのか、僕には分からないんです……」
モニタールームでニシカツは項垂れる。
この一室を知るのも自分を除けばオウミのみ。
他とは隔絶された、完全な空間であったのに。
今は限りなく完成を見たシステムOSを持て余すばかり。
誰かに命令されなければ使う気力さえも湧かない。オウミはそれだけ、自分にとって大きな存在であった。
いつも引っ張ってくれたのだ。
「オウミ警部ぅ……」
咽び泣くニシカツのモニターに一通のメールが届いた。ポップアップを開くと、そこには信じられないアドレスがあった。
「オウミ警部の、アドレス……」
目を見開き、ニシカツはそのメッセージを解読する。
「後任者を用意しておいた……。野心は人一倍ある人間だ、そいつのオーダーを実行しろ……? そんな事、オウミ警部が言うはずが」
「それが、言うんだよな」
モニタールームへと入ってきた靴音にニシカツが肩をびくつかせる。警官として、拳銃の所持とポケモンの所持も認められていたがニシカツは今、どちらも持っていない。
「だ、誰なんだ?」
「お前が、この間のシステム騒ぎに乗じて、第三勢力を立ち上げた人間か。オウミとは、よく取引していたから、話には聞いていたが……。こんな奴で大丈夫なのか?」
声音だけでは分かるまい。ニシカツは脅しにかかった。
「く、来るな! 拳銃を持っている!」
その脅迫に、相手はおどけた。
「おや、拳銃か? そうか、そりゃあそうだ。警官だものな」
「だ、誰だ……。ホテルの手のものか? それともハムエッグの」
「どちらでもない。第三勢力なのだとすればおれは、第四の勢力だ」
暗がりから姿を露にした人影に、ニシカツはモニターを抱いたまま振り返る。
この場に似つかわしくない人間に、ニシカツは絶句した。
「ま、まさか……」
「おれがいて、そんなにおかしいか?」
「路地番、リオ……」
リオが笑みを浮かべてニシカツの様子を観察している。
――しかし何故?
単なる路地番が、どうしてオウミの後任なのだ。
「な、納得出来ない! 僕の研究は僕とオウミ警部のものだ! お前なんかに……」
「渡すくらいなら、エンターキーを押して消す? それは出来ないだろうな」
リオがリモコンを差し出しボタンを押すと、自分の端末の権限がロックされた。何が起こったのか、瞬時には分からなかったほどだ。
「上位権限……。それは、オウミ警部だけのもののはず」
「オウミは、自分の死さえも勘定に入れられる人間であった、という事だ。オウミが死に、おれへと権限が移った。おれだけが、お前を支配出来る」
「で、でまかせだっ!」
「デマじゃないのは、どのキーを押しても操作出来ないその端末だけで充分じゃないか?」
リオの言う通り、消去どころか動作終了も出来ない。
「ば、馬鹿な! 僕の権限を越えてなんて」
「認めろよ、エンジニア。おれの支配を」
リオが歩み寄り、ニシカツを見下ろす。
その眼差しはただの路地番のそれではなかった。
「な、何なんだ、お前。何が目的で……」
「目的? そうだな、強いて言えば自由」
「じ、自由?」
「この街は切り分けられたピザだ。ハムエッグとホテルという二大勢力が半分にピザを頬張っている。おれはそれを三分割にしないか、っていう提案をしに来た」
不可能だ、とニシカツが口にしようとするが、その前にリオが頬を掴みかかった。
「無理だとか、不可能だとか言うなよ? そのシステムOS、通称ルイツーがあれば、ハムエッグのシステムの上を行く事が可能なんだろう?」
ルイツーの事はオウミしか知らないはずだ。それを口にした時点で支配権は相手に移っていた。
「何で……。オウミ警部が何で、お前のような若造を……」
それだけが疑問だ。リオは何でもない事のように言ってのける。
「あの悪徳警官は、散々にクズであったが、人を見る目だけは確かだった。早々におれに接触し、自分の計画を話してくれたのさ。もし、自分が死んだ時の対応までね」
「どうしてそこまで……。僕だって話してもらってないのに」
「簡単な事。支配者は一人でいい」
ニシカツの手をリオは踏みにじる。
痛みに顔を歪めた途端、リオがこちらを覗き込んできた。
その眼差しには隠し切れない野心の火がある。
「ハムエッグとホテルの拮抗は崩れた。――おれが天に立つ」
第七章了