第八十六話「Reach Flash」
アイアント部隊が縦貫道を侵攻している。
アーロンはビルの陰からそれを見つめていた。三十体近くのアイアント。突破するのは容易ではない。
「動けるか?」
アーロンの声にシャクエンは下唇を噛んでいた。
「……何で、逃げるような真似をした? 波導使い」
「あのまま戦ってもこちらに利がない。どう考えても勝てないだろう」
「分からない。そんな確率なんて」
「傍から見れば明らかだ。教えろ。熾天使とは何だ? どうしてお前達は同じポケモンを使っている? 殺しを遂行していたのはお前ではなく、奴なんだな?」
「……質問が多過ぎる」
「答えろ」
アーロンはシャクエンの襟元を掴み上げた。この事態のそもそもの原因はホテルの下っ端殺し。それがシャクエンではなく別の誰かの工作だったとするのならばこの状況は変わってくる。シャクエンを殺すために仕組まれた夜であった、という事だ。
アーロンの怒りにシャクエンは淡白に返す。
「……痛い」
「お前が身勝手な行動をしたから、俺が利用された。俺だけじゃない。この街に住んでいる全員だ。ホテルも、ハムエッグも。その何者かの前にいいように利用されている。教えるんだ。熾天使とは何か」
シャクエンは諦めたように目を伏せて、ぽつりと口にする。
「メイには言わないで」
「あの馬鹿も、今はハムエッグの保護の下にある。今は、それが一番安全だろう」
手を離す。シャクエンは安堵したのか語り始めた。
「熾天使は、私達炎魔が道を誤った時に発生する抑止力。暗殺者のカウンターとして育てられた、もう一つの炎の眷属」
「それが何故、今になってやって来た? 奴はこっちを知っているようだったが、お前は奴の情報を知り得ていたのか?」
「知り得ていた。でも存在するはずのない暗殺者。大婆様に、昔教えられていた」
シャクエンの語ったのは、炎の暗殺者が今まで見せてこなかった、歴史そのものであった。
「これ、娘っ子。こっちへ」
まただ、と彼女は思う。
自分にはしっかりとした名前があるのに、祖母は一度として名前で呼んでくれはしない。いつも「娘っ子」と言われるだけで、孫を可愛いとは思わないのだろうか。この赤人街ではみんなそうであった。
祖母が絶対的に偉く、他の屋敷の人々でさえも頭が上がらないほどだ。それほどまでに炎魔の直系の子孫は力を持っていた。
祖母が炎魔を退いてから数十年経っていたが母親は炎魔を襲名したのも束の間、すぐに結婚してしまった。今、炎魔の名は宙に浮いている。
しかし、このヤマブキシティでは未だに炎魔の名前が恐れられていた。他の街に行くと、炎の獣に跨った女の裸体が描かれている古びた看板を見た事がある。それこそが炎魔の脅威を物語るに足りていた。他の地域の子供達は悪い事をするとまだ炎魔が来ると言われると信じているようだ。
自分達はいちいち一般家庭の敷居なんて跨がないし、何よりこんな下品な姿ではない、と言いたかったが母親は言うのである。
「炎魔なんて、継がないほうがいいのよ」
なくなってしまえばいいの、と。母親は満たされていた。だから言えたのだと今にして思えばそうである。
だから彼女を真に理解していたのは愛に溺れた母親ではなく、温厚な父親でもない、孫の事を一度だって名前で呼ばない祖母であった。
「娘っ子。いい事を教えてやろう」
祖母からは本当にいい事を教えてもらったためしがない。いつも教訓めいた話や、炎魔が隆盛期を極めていた頃の話など、自分にとっては無縁の話ばかりであった。
「なに、大婆様」
炎魔の長老を大婆と呼ぶ事は掟によって定まっている。祖母は、「かしこまるんじゃないよ」と孫の口から大婆様と呼ばれるのを嫌っていた。
「まぁいい。これからいい事を話してやろう。我々炎魔が、もし力を失ったときの話だよ」
そんなの、悪い話に決まっているではないか。最初から彼女にはそんな予感がしていたが、祖母は構わず続ける。
「炎魔という暗殺者の鏡となる存在がいる。ジョウトで育った家系でね。私達と同じ暗殺術を習い、炎魔がいつ潰えてもいいように心を研ぎ澄まし、殺しを遂行する家系がある。名を熾天使。炎魔とは対照的な存在だよ」
どうして祖母はそんな事を言うのか。彼女は祖母の座る安楽椅子の前にちょこんと座って聞き入っていた。
「大婆様、何故、そんな事を?」
「炎魔になるという事は、この街の守り手を継ぐ、という事でもある。炎の暗殺者はかねてよりヤマブキを守り、ヤマブキの脅威になるものを排除する役割を持っている」
「昔の話でしょ」
「いんや、今もそうさ。馬鹿な私の娘は炎魔になるのを嫌がったが、娘っ子。お前ならば炎魔の素質がある」
人殺しの素質があると言われても嬉しくなかった。彼女は頭を振る。もっと女の子らしい「いいお嫁さんになるよ」だとかを言われたいのに、赤人街の人々は皆そうだ。
「いい炎魔になる」が褒め文句になっているのである。
「私、炎魔になんてなりたくないよ」
「違うよ、娘っ子。なるんじゃない。運命が、炎魔を選ぶんだ。お前は選ばれる。娘っ子、お前は美しい。黒曜石の瞳に、白磁の肌、それにこんなにも……女の艶を併せ持った唇。ああ、私が五十年若かったのなら確実に、お前に跡目を継がせていただろう。それほどまでに、娘っ子。お前は完成されている。だから運命は嫌でもお前を炎魔にするよ。炎魔シャクエンの名前は今、誰も持っていない。でも、お前にならばその資格はある」
美しいと言われたことは嬉しかったがそれが暗殺者としての美しさだと思うと素直に喜べなかった。
「私、炎魔なんかには」
「いいから聞くんだ、娘っ子。炎魔にこの先、もしもなる時があるのならば、今連れているポケモンに名を継がせて駆け抜けるんだ。〈蜃気楼〉の名前を。そのヒノアラシに」
彼女はヒノアラシを連れていた。自分の産まれた日に孵化されたポケモンを連れ歩くのが炎魔の家系のルールであった。
「まだ早いよ、大婆様」
「早くなんてないよ。だから知っておきなさい。熾天使がもし、炎魔になったお前の前に現れた時には、その時こそ雌雄を決しなければならない。熾天使か炎魔か、どちらかが運命に選ばれ、生き残る。そしてヤマブキの秩序を司る事になるだろう。お前は強い、お前は美しい、お前は麗しい、お前は、きっと炎魔になるための全てを持って生まれてきた。ああ、愛おしい。こんなにも、愛おしいのは……」
「大婆様?」
彼女の頬をさすっていた祖母の腕から力が抜けていく。
陽だまりの中だった。
祖母は静かに、それこそ誰にも悟られる事はなく、死んでいった。炎魔の宿命を最後の最後に、自分の孫に語って聞かせて。後になって知った事だが、母親はこの話を聞いていなかったのだという。
炎魔を継ぐ宿命をどこかで祖母は感じていたのかもしれない。
「大婆様? ねぇ、返事をしてよ。大婆様……おばあちゃん」
最後の最後に口にした言葉は聞こえていたのだろうか。
祖母は安らかな表情でこの世を去った。
「その後間もなくしてからだった。オウミが来たのは」
そこから先は以前聞いた通りだろう。オウミによって赤人街の人々は虐殺され、シャクエンは炎魔としての運命をその身に宿す事となった。
「祖母は、どこかで悟っていたのか?」
「分からない。でも、大婆様の言う事は正しかった。炎魔になったからには、真っ当な道なんて選べない。炎魔になるんじゃない。運命が炎魔を選ぶのだという言葉は本当に、何のてらいもなかった」
シャクエンはまさしく運命によって炎魔にされた。だがそのような残酷な運命など彼女は望んでいなかっただろう。
――似ている。
アーロンは口にしなかったがそう思っていた。
自分と師父の関係にそっくりだ。
師父は一度として殺し屋になれとは言わなかったが、その力が運命によって選ばれる事を悟っていたのは間違いない。
「お前は炎魔になった。シャクエンの名を継ぎ、殺しを叩き込まれた。そこまでは分かる。だが、解せないのは何故、この機に乗じて熾天使とやらがやって来たのか、だ」
「熾天使はずっと狙っていたんだと思う。この街の、炎魔の家系を。元々裏の家系だから、表に出るためには表を潰すしかない。あるいは表が潰えるか。記録上、炎魔の血筋が潰えた事になっているはず。そのせいだと思う」
もう随分と前の事に思えるがまだ一月ほどなのだ。自分がシャクエンを下し、炎魔の血筋が消えた。
そのせいなのか。そのせいで彼女はたった一人での戦いを余儀なくされた。
「俺のせいなのか」
「違う。これは、私の宿命。私がいずれやらなくてはならなかった」
「ホテルを襲ったのは、お前に逃げ場がない事を再確認させるためだな?」
ホテルの下っ端が殺され、それが炎魔の仕業なのだと流布されれば、下手に出歩けない状況が生み出される。その中で熾天使が炎魔を追い詰める、というシナリオだろう。
しかし、それでもアーロンには分からない事があった。
「この街の盟主であるハムエッグが全く関知しないところで行われるとは思えない。炎魔、熾天使を操っている人間は」
シャクエンは頷いた。
「十中八九、ハムエッグに取り入っている。あるいは対等な条件での交渉を持ち出したか。スノウドロップの条件付きでの解放をする言い訳に、炎魔掃討を持ってきたかった」
「俺も利用された、というわけか」
ハムエッグは知っていて炎魔シャクエンを殺すこの夜を仕向けた。アーロンが殺す事さえも視野に入れて。
「どうする? 波導使い。私を殺すのならば、今」
ハムエッグとホテルの関係の緩衝材になるのならば、ここでシャクエンを殺し、その証を立てて掃討作戦そのものを中止させる。それがヤマブキシティという街にとって最良だろう。
だが、アーロンは許せなかった。
そんな事のために弄ばれる人生。そんな身勝手な都合で消されなければならない人間がいるなど。
「生憎だが、俺もこの賭けには乗れない。確かにここでお前を殺せば、全ての事象は収束する。炎魔関連の事件は終わりを告げ、熾天使が幅を利かせるだろう。何も変わらない。ただ、お前がいない以外はな」
アーロンは手を差し出す。その手をシャクエンは凝視した。
「来い。掴み直すんだ。お前の人生を。他人によって歪められたのならば、自分で取り返せ。全てを奪い返すんだ。俺はその手助けをしてやれる」
呆然とシャクエンはアーロンを見つめていた。胡乱そうに尋ねる。
「何だ? 妙な顔をしているぞ」
「……意外だった。波導使い、あなたはもっと、機械のような人間だと思っていたから」
「自分でも分からない。以前までならば、お前を殺して証を立てる事に何のためらいもなかっただろう。炎魔の席が熾天使のものになっても、何も変わらないと思っているはずだ。だが、そこには炎魔シャクエン、お前がいないじゃないか」
シャクエンの居場所がない。そんな未来を許せるかと言えば否だ。ここまで報われない人間が最後まで報われる事なく終わるのは間違っている。
「まるで、メイのような事を言う」
「俺もやきが回ったな。あの馬鹿のような、と言われるなど」
シャクエンはアーロンの手を掴み、口にした。
「どうすればいい? 炎魔のポテンシャルは宿主の存在でもって発揮される。今の私じゃ、熾天使モカには勝てない」
「思いたければ好きにしろ。ただし、この戦いが終われば」
らしくない考えだ。終われば、など。自分達は終わりのない戦いの連鎖にいるというのに。だが、今だけでもいい。気の迷いでも構わない。この戦いが終わった時には――。
「俺とお前の間に降り立つのは、対等な人間としての価値だ。宿主だとか、そういう関係じゃない」
シャクエンは目を見開いていたが、やがてフッと笑った。
「随分と甘くなった。波導使いアーロン。あなたはそんな人じゃなかった」
「俺も、どうしてだかな。だが、言ったはずだ。一蓮托生な面もある」
「お互いに変わった暗殺者になってしまったよう」
そのきっかけは、メイという一人の小娘に過ぎなかったのかもしれない。今は、そのきっかけが新たな力になっていた。
「炎魔、当然の事ながら炎タイプの相手への対抗策は持っているな?」
「一つだけ。でも炎魔は炎の扱いに長けた暗殺一族。だからそれほど強力でもないし、何よりも攻撃にロスが出る。その合間を縫われればお終い」
「俺がそのロスを限りなくゼロにすればいいのだな?」
互いの欠点を補う。基本的な戦術であったが今まではなかった。
「波導使い、出来る事ならば、私は炎の暗殺者として、熾天使に引導を渡したい。そのためにはやっぱり、炎技で勝つ事が重要」
求められている事は分かった。アーロンは首肯する。
「そのためのお膳立てか。いいさ。やってやる」