第八十二話「Reaccede Fighter」
この街を牛耳る、という事は実質不可能だ。
ホテルとハムエッグ、二つの勢力に分断されたヤマブキではちょっとやそっとの成功者は頭角を現せない。出る杭は打たれる。だから、黒服に連れられてやってきた場所の主が、他の街ならば充分な成功者であっても、この街においてはチンピラのようなものだというのは間違いではなかった。
金箔をあしらった扉の向こうには胡坐を掻いた老人が、枡で酒を飲んでいる。
知らない人間だな、とオウミの思った印象はそれだけだった。
「来たか」
下がれ、と老人が指示をすると黒服は席を外す。オウミは和室で老人と二人きりになった。
「オウミ、とか言ったな。かつての炎魔の飼い主」
この老人はどこまで知っていて自分を連れて来たのか。その理由から解き明かさなければならない。
「どこまで知っているんで?」
「青の死神。奴の首を刈ろうとして狩られた、無様な敗退者」
その言葉だけで自分の境遇を示すのには充分であった。
「あんた、オレの知らない人間だ。お歴々の名前と顔は大体頭に入っているが、あんたは知らない。誰なんだ?」
「お歴々、というのがどこまでの連中を示すのかは知らんが、わしはそいつらとは別系統の命令系統で動いている。いわばこの街の俯瞰者だよ」
俯瞰者を自称する老人は酒を呷ってから、「呑むか?」と勧めてきた。生憎と呑む気にはなれない。
「いえ、オレは結構。それにしたって、あんたは何者なんだ? いきなりこの街に切り込むにしては、少しばかり大胆が過ぎる。いや、豪胆と言い換えてもいい。ホテルとハムエッグを怖がってもいない」
「怖がる? どうしてわしがあのような青二才共を怖がらなければならない」
ホテルとハムエッグを指して青二才とは。この街で長生き出来るタイプではなかった。
「あんた、ちょっと命知らずだぜ? 警察署に草を放ち、オレみたいな……まぁ言っちまえば悪徳警官だが、それでも警官だ。そいつを拉致って来るんだから妙なところで無神経だよ」
オウミの言葉に老人は肩を揺らして笑った。
「必要になった駒だからな。必要なものは何でも、自分の手で手に入れたいものだよ。この街もいずれは、な」
おかしい。ここまでの命知らずがこの街で成功出来るはずがない。ホテルとハムエッグに勘付かれずに財を築くだけでも難しいのに。
「……あんた、誰だ?」
老人は酒瓶から枡に酒を入れて掲げる。
「姓はヤマシナ、名はゲンジロウ。ジョウトで少しばかり財を築いた、成金だよ」
「ジョウトのお偉いさんか? だがジョウトでもヤマブキがどんな街かくらいは評判だろう?」
殴り込みをかけるにしては少しばかり粗雑だ。その胸中を悟ったのかゲンジロウはふふと笑みを浮かべる。
「確かに。この街は恐ろしい。どこまでも人の欲望を食らって大きくなる、魔獣だ。だが魔獣を手懐けるのは、少しばかり心得があってね」
ゲンジロウの自信はどこからやってくるのか。オウミは問いかけていた。
「あんたがどれだけ野望を抱こうが、それは結構だ。どんだけでもやればいい。ただし、街のルールに抵触しない範囲で、だ。あんた、大きく動き過ぎている。このままじゃ先は長くない」
「先はないと知って、ホテルとハムエッグの支配をよしとするか? わしはそうは思わんな」
「笑い事ではない。この街で生き残りたければ、それなりの力の誇示がいる。そっちの持っている戦力はたかが知れているだろう? 何人の黒服を侍らせても、同じ事だって分からないのか? この街じゃ勝てない」
「勝てない。勝てない、か」
心底可笑しそうに、ゲンジロウは含み笑いを漏らす。この老人、実のところもうろくしているのではあるまいな。
「おい、ボケてんじゃないぞ。この街は老後の安泰を約束するにしては尖ってるって言ってんだよ。静かに老後を過ごしたいんなら、シオンタウンにでも行って毎日墓参りでもしてやがれ」
「わしが命知らずの向こう見ずに見えるようだね」
「違うってのか?」
ゲンジロウは酒を呷り、「来やれ」と声にした。すると障子が開かれ、向こう側に人の気配がする。
次の瞬間、じっとりと汗を掻いていた。突然の炎熱のせいだ。いきなりこの部屋が蒸し風呂のような暑さになる。
この経験を自分は既にしている。この感覚を分かっている。
まさか、と息を呑んでいた。
「シャクエン。そこに、居るのか……?」
その言葉に障子の向こうから返答はない。だが、身体が覚えている。これは炎魔の感覚だ。
「炎魔シャクエン。この街には面白い殺し屋がいる」
ゲンジロウは枡を掲げて笑みを浮かべる。まさか、この男が今の飼い主だというのか。
「何を使った? 幻覚剤か、それとも違法薬物か? 何でてめぇみたいな小悪党に、炎魔が操れる?」
「その種を明かしてどうするというのだね? わしの力だよ」
覚えず唇を噛んだ。この老人は本当に、炎魔シャクエンを手に入れたというのか。だからこそ、ここまで大胆に切り込んできた。
「……分かんねぇな。だとしたら余計に、元の飼い主であるオレは邪魔じゃないのか?」
シャクエンの判断が鈍るなど万に一つもあり得ないだろうが、自分ならば慎重を期す。前の飼い主など呼び戻すものか。
「なに、悪徳警官オウミ。お前に頼みがあって呼んだのだ。それ以外にない」
「頼み? ここで腹を切って死ね、か?」
その言葉にゲンジロウは哄笑を上げる。自分としては笑い事ではない。
「そこまで酔狂ではないよ。それに、何よりもわしは血が苦手だ。殺しだって目の前で見せしめでやるのは出来るだけ避けたい」
「……何だって言うんだよ、じゃあ」
ゲンジロウは枡を畳の上に置いて鼻を鳴らす。
「オウミ。もう一度、返り咲きたくはないか?」
その提案にオウミは思わず聞き返していた。
「何だって? 返り咲く?」
「まぁ要するに、炎魔の宿主をもう一度やるつもりはないか、と言っている」
あり得ない、と目を見開く。一度手離されたシャクエンが自分の下に戻ってくるなど。だが、ゲンジロウの眼差しはその程度造作もないとでも言いたげだ。
「宿主は、一度変われば二度と服従はない……」
「それは通常のルールだ。わしは特別なルールを敷きたい」
ゲンジロウの言葉に従えばつまり、炎魔の殺しのルールを変えられた、という事なのだろうか。しかしヤマブキに古来より住まう炎魔を、ジョウトのおのぼりさんが制御出来るとは思えなかった。
「炎魔のルールは、この街に住んでれば誰だって知っている。ガキだって、ちょっと背伸びすれば分かるほどだ。そんな簡単に、変えられるもんだとは思っていない」
「浅慮、浅慮よの、オウミ。どうして、宿主という制度があるのか、そもそも炎魔は何故、殺し屋を受け継ぐ血族として存在しているのか。歴史、というものを軽んじてはいかんよ、オウミ警部。何故、シャクエンという暗殺者が襲名され、何故このヤマブキで連綿と続いてきたのか。遠い昔、まだポケモンを捕獲する術などなかった頃、朝廷に蔓延る悪人を裁く義憤の殺人者の記述がある。どことも知れず炎を操り、熱気を自由自在とし、その姿は神出鬼没であるがただ一つ、少女である、という事だけが共通する人物がいた」
「それが今日の炎魔だと?」
「わしは、炎魔を使役するに当たって、ある程度調べを進めた。なに、わしも元を辿れば所詮は第一回ポケモンリーグで蓄えた金をやりくりしている成金の子孫だ。ジョウトで様々な人物の援助をしたとは言え、カントーほどの繁栄ではない」
「ジョウトにその記述があったってのか?」
ゲンジロウが足元の巻物を手に取って広げる。そこには今の人間では読めない達筆な記録があった。
「ここに、炎魔襲来、とある。これが恐らく最初の炎魔だ」
「達筆過ぎて読めねぇよ」
「なに、そう書いてある、とだけ知っておれば結構。炎魔は居た。ではどこに? と遡ると、その初代はジョウトにて朝廷の悪人を裁いていた。分かるか? 元はジョウトの暗殺集団であった」
「自分達に、そのルーツがあるってのか」
「そこまで傲慢じゃない。ルーツがこちらにあっても、今、現在、炎魔の根城としているのはこのヤマブキなのだからな。この記述が百年前か、あるいは二百年かは分からん。だが、それほどまでに年季の入った殺し屋、炎魔を使役する、というのは並大抵の事ではない」
自分がシャクエンを脅して遣っていた事にまるで反目するような言い草だ。オウミは笑みを浮かべる。
「爺さん。あんた、オレの使い方が間違っていたみたいな事を言いたいようだが、こっちも言っておくぜ。使えねぇ暗殺者なんてゴミクズ以下だ。そいつを、使えるレベルまで引き上げるだけでも相当なものさ。オレは間違っていたとは思っていない。暗殺を軽んじれば、それだけ代償が高くつく」
「無論だとも。オウミ警部。お前は正しく、炎魔シャクエンを使役していた。暗殺者と宿主という楔をきっちりと心得て。……ところで、前後するが初代の炎魔には宿主がいたのか?」
ゲンジロウは巻物を手繰る。視線を落としている先にその記述があるらしい。
「オレの勘じゃ、いたんじゃねぇか?」
「いいや、こうある。炎魔に至る道標なし。つまり、手がかりの一切ない殺し屋であった。手がかりがない、という事は弱点がなかった。宿主の存在を、この記述は否定している」
「分からないじゃねぇか。そこにないだけで、宿主はいたのかもしれない」
「そう、いたのかもしれない。だが、わしはこう考える。殺し屋、というものには得てしてマインドセットが必要になる。符丁、とも言うが殺しを行うに当たって精神面を研ぎ澄ます役割、つまりは殺しを行う自分と普段の自分を切り離し、リセットするという事が必要になってくる。どの殺し屋でも、多かれ少なかれ存在する役目だが、では炎魔のマインドセットは?」
その段に至ってオウミは確信した。
「そいつが宿主制だとでも?」
「宿主に全責任を押し付ける事によって、自身の心の負荷を最低限に留める。マインドセットとしてはよく出来たものだ。他の暗殺者ならば、それが契約であったり、あるいは無理やりな薬物であったりする。だがこのマインドセットならば炎魔は必要最低限の運用で最大の効力を発揮出来る。何故か? それはツーマンセルという分かりやすい構図で暗殺を俯瞰出来るのならば、その宿主をとっかえひっかえすれば、もしかすると、炎魔は限りなくそれをゼロに出来るのではないか」
ゲンジロウの試みが見えてきた。オウミは顎をしゃくる。
「なるほど。今回のシャクエンのやり口はそれか。炎魔に、宿主を短期的に替えさせる。そうする事で精神の負荷を軽く出来るのではないか、という、実験」
実際の成果は、と目線を送るとゲンジロウは小さな箱を手にした。掌ほどの大きさしかない箱だったが、どういう意味なのか、とはかりかねる。
「開けてみよ」
オウミは警戒しながらそれを開いた。
その瞬間、怖気が走る。中に入っていたのは人間の親指であったからだ。
「何だ、こりゃ……」
「つまりはそういう事だよ、オウミ警部。親指レベルの差異でも、今の彼女ならば識別出来る。いざとなれば親指を切って別の人間と契約させられる、という事だ。ここまで炎魔の契約レベルを下げられたのは大きい。咄嗟の場合、宿主を殺されてどうにもならない暗殺者の弱みを消せる」
何を言っているのか、この老人は分かっているのか。炎魔シャクエンを親指レベルの契約まで引き下げた、という事は、それだけリスクも高まっている。炎魔の暴走を引き起こしかねない。
「おい、爺さん。身勝手が過ぎるんじゃねぇか? こんな事して、炎魔が使い物にならなくなったら、とか考えなかったのか?」
「ならんよ。それこそ、先ほどお前が言っただろう? 暗殺者を甘く見るな、軽んじるな、と。わしは誰よりも暗殺というものがどこまで制御可能なのかを見極めたいのだよ。暗殺者炎魔、その完成を見るためにな」
「完成? 今までは未完だったってのか?」
ゲンジロウは枡に酒を注ぎながら呟く。
「この酒も同じだ。完成品、と謳われるものの陰には幾数千の失敗作がある。炎魔も然り。今生の炎魔を育て上げるために、この暗殺一族はどれだけの研鑽に身を置いた? どれだけ、暗殺、炎を操る術を磨き上げた? 失敗ありきの完成品。今までは失敗が続いていたが、今度からは違う。本物の、炎の暗殺者だ」
「そいつをオレが扱えば、天下無双ってわけかい」
自分で扱わないのは最悪の場合、指を切るレベルで契約を引き下げて煙に紛れるため。この老人は飄々としているようできっちりと退き際を心得ている。その上で、自分への交渉なのだろう。
――宿主をやるか。あるいは……。
オウミはどこからともなく見ているであろうゲンジロウの部下を自覚する。
ここで頭を吹き飛ばされて死ぬか。
選択肢は少ない。
「ここに拉致って来た時点で決まっているんだろ? やるよ、やってやる。ただし、オレのやり方ってもんがある。それには承服してもらえるか?」
「もちろんだ。一度炎魔の宿主をやったのならば、二度目は容易いとて」
障子の向こうにいるシャクエンにオウミは声を投げる。
「いるんだろ、シャクエン。出て来いよ」
その言葉に少女の影が揺れた。かと思えば、すっと気配が消え失せた。
今までのシャクエンの感覚ではない。まさしく、その場から人一人が消えた。歩み寄ろうとするとゲンジロウが止める。
「やめておけ。指が焼け切られるぞ」
ハッとして手を離すと爪の先端が焦げていた。消えたのではない。
炎熱を強化し、さらに高次元の不可視領域に達する事が出来たのだ。
ゲンジロウの言う炎魔の高みは伊達ではない、と再確認された。
「……悪かったよ。じゃあどうすればいい? 触れもしねぇ暗殺者なんて使えるもんか」
「お前の存在だけでいい。後は簡易的な目的意識だけを持たせればな。今までの炎魔もそうしてきたのだろう」
分かった風な口を、とオウミは鼻を鳴らす。
「だが、おい、シャクエン! 居留守ぶっこんでっと、どうしようもねぇだろうが」
「ああ、そう、言い忘れていた。もう炎魔、という名前は古い。この街で手垢のついた称号だ。わしは新たな暗殺者の名前を考えた。これからはそちらで呼んでもらいたい」
「ほお……、何だって言うんだ? 言っておくが、手垢がついたって言っても、この街では一二を争う暗殺者の家系だ」
ゲンジロウは笑みを深くして枡に注がれた酒を飲み干す。
熱い吐息と共に、その名が紡がれた。
「――その名は熾天使。炎を操るのならば、こちらが相応しい」