第七十七話「波導の運命」
「アーロン。戦いが板についてきたではないか」
ルカリオの拳をいなし、こちらの電撃を打ち込む。しかしルカリオはすぐさま波導の回路を修復して持ち直した。
本気の波導切断に持ち込んでも、ルカリオの波導は変幻自在。すぐさま回路の配置を変えられ、切断を解除されてしまう。その繰り返しだった。
アーロンの波導で強化した蹴りがルカリオを見舞う。当然、人間の蹴り技などたかが知れている。
「電撃で、疾走する」
脚部に電気的刺激を流す。ピチューの放った電撃が脚部の波導を強化し、爆発的な瞬発力を手に入れた。躍り上がったアーロンがルカリオの背後を取る。
ルカリオが振り返る瞬間、アーロンはその顔面に向けて右手を突き出していた。
振るわれた拳の空を切る音が草原の中、響き渡る。
ようやくルカリオ相手に王手が取れた。
師父が文庫本を畳み、「見事」と声にする。
「ルカリオ相手にようやく、一本を取れた、というわけだ」
「し、師父。これで、ぼくも……」
息苦しかった。無理もない。ポケモンの電撃を自らに浴びせて強制的に強い膂力を得る。通常の判断では考えつかない攻防であった。
呼吸の荒いアーロンの肩に、師父がそっと手を触れる。瞬間、濃厚であった疲れが瞬く間に凪いでいった。
「今の……」
「癒しの波導。波導はこういう事にも使える。さて、一本取れた、という事は教えなければならない。波導使いの、宿命という奴を」
「宿命?」
師父は首周りの服を引き下げる。アーロンは絶句した。
師父の胸元が、青く結晶化している。
「し、師父……。大丈夫なんですか? 何かの病気ですか?」
「違う。アーロンを継ぐ者ならばこれを聞く運命にある。いいか? 波導には限りがある。当然な事だ。生命の根源を使う禁忌の術。代償が高くつくのは当たり前。わたしはこの先、長くて十年、といったところだろう」
突然に放たれた師父の宣告にアーロンはよろめく。師父が、あと十年も生きない?
「何で……。どうしてそんな……」
「波導使いは、長持ちしない。超人的な能力と引き換えに、命を削るのが、波導使い、それを極めた者の宿命だ。全盛期であっても、波導を毎日のように使い続ければ、その寿命は二十年、あるかないか」
その言葉はそのまま自分にも突き刺さった。もう、自分はそう長く生きられるわけではない?
「ぼく、も……。師父、ぼくもなんですか」
暫時沈黙の後、師父は呟く。
「……お前ならば、わたしよりかは生き永らえる。放出系ではないからな。一部に集中して使うタイプ、切断型のお前の波導の使い方ならば少しは長生きかもしれない。だが、それでも常人よりかは早く寿命が訪れると思え」
頭を鈍器で殴られたような衝撃。
くらくらする視界の中で、アーロンは考える。
自分の寿命が、あと十年かそこいら。突然の宣告に戸惑うしかない。
「長生きしたかったのか?」
師父の質問にアーロンはゆっくりと頭を振った。
「……いえ、この青い世界が続くのならば、ぼくは生き永らえても仕方がないと思っていました。でも、そんなに短いなんて」
「意外、か。だが無理もない。わたしも、先代のアーロンにこれを聞かされた。その直後だったよ。先代も放出系だったからな。結晶化が進んだ」
師父は自分の先代の話をしようとしているのだ。今まで、師父の口から教え以外の事を聞くのは初めてであった。
「死んだんですか?」
「いや、結晶化現象が最後まで行く前に、わたしがこの手で介錯した。これがアーロンの、波導使いの務めだ。先代の波導使いを絶対に、殺さなければならない。それは波導使いアーロンを名乗るのならば絶対の掟だ」
そのような残酷な掟、とアーロンは口にしようとしたが、それ以上に残酷なのは結晶化が進んで死ぬ事なのだろう。
「後悔、していないんですか……」
それでも、聞いてしまったのは師父の背中があまりに寂しげに思えたからだ。先代の事を語る師父は、今までの淡々とした佇まいではない、人間めいたものを覗かせていた。
「後悔はしていない。彼女のたっての希望だったからな」
「彼女……」
「言い忘れていたが、先代の、前のアーロンは女性だった。初めての女性波導使いであったそうだ」
思いもよらない事にアーロンは絶句する。それと同時にある程度理解した。先代アーロンと師父の関係を。
「その……、先代と師父は……」
「婚約者であった」
その一言に全てが集約されているように思えた。婚約者、愛した者を殺さなければならなかった。否、愛した者の最期を看取らなければならなかった。
自らの波導で、この世で最も恋しい人を失うなど、今のアーロンには耐えられなかった。
胸が締め付けられる。
師父はきっと、後悔していないと言ったが嘘なのだろう。いくら婚約者たっての希望であっても、その者の命を奪う。常人では耐えられまい。
「わたしが、彼女の波導を感知したのは出会って一年経った頃の事だった。雨の日に、波導が初めて見えた。その家系はずっと波導使いが続いており、アーロンの名を襲名してきたが、彼女と血縁者には波導感知能力者がいなかった。だから、わたしが彼女の跡を継ぐ事となった」
どれほどの苦しみがあったのか、子供である自分には推し量る事さえも難しい。
「わたしは波導使いとしての修行を積み、そして最後の、本当の襲名を約束されたその時に、彼女を殺す決断をせねばならなかった。波導使いは死に際が最も強い波導を帯びる。今までにない最強の波導で彼女もわたしを迎え撃ってきた。それが礼儀だったのだろうな。わたしも、全身全霊で彼女を倒し、その命を奪った。アーロン。波導使いは継いでこそ強くなる。その家系が波導使いを常に血縁者から選んでいたのも全てそのため。波導使いは継げば継ぐほどに強力なものとなる。もし、お前がこれ以上の強さを努力ではなく、それ以外のもので補おうとするのならば、波導使いの血で贖わなければならない」
つまり自分の死でもってのみ、弟子の完成を見る。師父の言葉にアーロンは涙が出そうになったがぐっと堪えた。
師父は、愛する者を殺したのだ。その人を前にして、涙など流すのは甘ったれである。
「……本当に、それ以外ないのでしょうか」
「ない。波導使いが、真の波導使いとしての完成を見るのは、師匠を殺した時のみ。その後、ゆっくりと、だが常人より遥かに早く、波導使いは死に行く。アーロン。次にわたしと別の場所で会った時には、それは最後の審判の時だ。お前が死ぬか、わたしが結晶化して死ぬまでに、お前の波導が完成している事を願おう」
耐えられなかった。アーロンは涙していた。
師と仰いだ人を殺さなければならない。その宿命に。師父の背負っている哀しみに。
そのような悲しい事をしなくとも、波導使いは生きていていいのではないか。そのような甘い夢を口にしようとして、必死に堪える。
そんな夢想が今の自分程度に許されるわけがない。
「もっと……ぼくは強くなります……」
しゃくり上げながらアーロンは口にする。
「強くなって、師父を殺さないでいい方法を、探します……」
師父は一瞬だけ呆気に取られたようだったがすぐさま、平時の声音を取り戻す。
「そうか。期待しないでその時を待とう」
いずれ、波導使いは殺し合う。そのような運命、自分で変えたかった。
だが、後にも先にも、師父は波導の教えをしてくれたものの、その運命を変える方法については言ってくれなかった。
殺す事でしか、波導使いは血を継げない、などデタラメだ。全て、師父の作り話なのだ。
そう思いたくってアーロンは必死に修行した。
師父のルカリオを超える方法を。波導の暗殺術を体得し、今までの波導使いに収まらない戦法を編み出してきた。
全ては師父を殺したくないから。
誰だって最愛の人を殺す事でしか、この命を終えられないなどという運命から逃れたいはずだ。
だからアーロンはそれこそ血反吐を吐くまで戦い、命を摘み、鍛錬を重ねた。
師父との戦いを避けるため。師父を殺さないで済む未来を作るため。
――だが。
「……だが、波導使いとして熟練すればするほどに、それが不可能な事は身に沁みた。波導使いはいずれ結晶化の運命を辿る。それが理屈ではなく、自分の経験則で分かった。波導が衰える時は死ぬ時。俺の場合は、その時こそ、師父を殺さなくてはならない。だから師父に見つけてもらいやすいように、この格好をしている。これは、何も伊達でやっているわけではない。この衣装には意味がある。脈々と受け継がれてきた波導の使い手を、名乗るに値する、という意味が」
だからこれは呪いなのだ。
アーロンは旅人帽を傾ける。
どれだけの命を摘んできただろう? どれだけ、人を殺せば気が済むのか、と罵られ続けてきただろう? その度に、波導使いの宿命が脳裏を掠める。
殺し、殺されに慣れなくてはいずれ来る宿命の時、師父を殺すのにも迷いが生ずる。
きっと、師父も同じように常人の感性を捨てて、愛した人を殺したに違いない。
そうでなければ、波導使いとはいかに弱い存在なのか、ハッキリと分かってしまう。
ツヴァイがそうだ。
きっと彼は途中で逃げ出したか破門された。だから中途半端にしか波導の使い道を知らず、赤い波導が進化だとのたまった。
覚えず自分の行く末を見せられた形になってしまったのだ。
自分も、波導の継承者がいなければ、きっとこのように、惨めに死に行くだけだ。
ツヴァイはまだ幸福だったのかもしれない。自分がまだ出来る、まだ強いと思えるうちに死ねた。それならばまだいい。
師父は――この空を同じように見ている師父は、結晶化に怯えながら、自分を待っている。
高層ビルが建ち並び、空を閉ざそうとしても降り注ぐ波導の青い陽射しだけは、この青い闇を照らし出している。
師父もきっと、同じものを見ているはずだから。
「……そんなの、嫌ですよ……」
メイは聞き終えてからそう口にした。アーロンは息をつく。
「嫌でも、終わりはやってくる。万物に等しく、死は訪れるんだ。だからこれは波導使いなりの――」
そう説明しようとした途中、背中に体重を感じ取った。
メイが自分に駆け寄ってきて、そっと抱き締めた。
「……そんなの、アーロンさんの意味がそんな事に集約されるなんて……」
耐え切れない、とでも言うように。
だが自分はとっくの昔にその覚悟はしている。
波導使いの宿命。この街で生きていくのならば必要な事だった。
「波導は、救いではない。分かりやすい救済の戦力なんてないんだ。誰だって削りながら戦っている。それは常人でもそうだし、炎魔や瞬撃とて同じ事」
「シャクエンちゃんや、アンズちゃんも……」
アーロンはメイの手から離れ、「二人を起こす」と口にする。
「リオ、は生きているな……。ツヴァイの目論見通りにならなかった事だけが不幸中の幸いだ」
アーロンが肩を揺するとシャクエンがハッとしてアーロンを見やった。放心状態であったらしい。アンズは、といえば失神していたが命に別状はないようだ。
「炎魔と瞬撃、この二人の殺し屋がついていて、か」
「……ごめんなさい」
「誰も責めていない。ツヴァイも、それほどの相手だったという事だ」
だが自分の指示を聞かなかったメイだけは別であった。引っ叩いてやろうかと思っていたが、師父の話をした手前、もうその気は失せていた。
「馬鹿は、大人しく家に帰れ」
アーロンの声音にメイは小さく謝る。
「すいません……、あたし、何も知らなくって」
「知っていれば防げたわけでもないだろう。もういい。忘れろ」
師父の話をした事も全て、のつもりだったがメイは忘れない事だろう。自分がいずれ結晶化して死ぬ事を。
波導使いの終焉を、この娘は目に焼き付けたのだ。
ならば、忘れろと言って忘れられるものではない。それは自分が一番よく分かっている。
「アーロンさんは、その、ツヴァイに……」
他人の事をよく考えられる。自分の事だけでも精一杯だというのに。
「あの波導使いには、運もなければ実力も伴っていなかった。依頼主を暴けなかった事だけが悔いだが、ホテルとハムエッグに依頼すればそう時間もかかるまい」
シャクエンは顔を伏せている。メイを守れなかった事を悔いているのか。アンズも言葉少なだった。
どうして、自分は彼女らと共にいるのだろう。
不意にそんな事を考えてしまう。
いずれ消える身なのに誰かを引き止めるなどしても無駄なのだ。それが一ヶ月ほど前まではよく分かっていた。
自分一人で生き、自分一人で死んでいく。
それが分かっていたから誰とも一線を引けたのに、今は三人もの人生を抱えている。
どうして、ここまで不合理になってしまったのだろう。
「アーロンさん?」
その沈黙の意味をはかりかねてか、メイが尋ねる。アーロンは頭を振った。
「……何でもない。帰るぞ」
帰る。そう言えるのが不思議だった。
自分達は帰る場所がある。
シャクエンも、アンズも、メイも、全員がバラバラの方向を向いているはずなのに、どうしてだか同じ家に帰れる。
それが酷く不思議で、今はそれ以上に――安心出来る事はなかった。