第七十三話「恩人」
警察署はいざ訪れてみると意外に広く、メイは高い天井に感心してしまった。
「広い建物だね……」
「一応、この街の治安を一手に担う場所だからね」
アンズの皮肉めいた言葉には、盟主であるハムエッグの存在と拮抗するホテルの存在が暗喩されていた。
所詮、この治安を維持する場所など張りぼてだ。だから、自分やシャクエンがこの街の表を歩けるのだと。
シャクエンが慣れた様子で受付に立ち寄り、名前を告げた。
「オウミ警部の関係者ですね。一階のブースでお待ちくださいとの事です」
「誰? オウミって」
初めて聞く名前だった。シャクエンは淡々と告げる。
「私の、元飼い主」
つまり、炎魔による反逆を手引きした元凶。メイは覚えず息を詰まらせたが、シャクエンは冷静だった。
「その、シャクエンちゃんは何も思わないの?」
「もう、関係は切れた。だから何も」
嘘であろう。本当に関係が切れて何も思わないのならば、表情に翳りさえも浮かばないはずである。シャクエンの眼には明らかに過去を回顧するものがある。それは余人には触れられない事であるのが容易に窺えた。
「その、大丈夫なの? そんな人と会うなんて」
「警察署内では何も出来ないと思うし、もしもの時には〈蜃気楼〉でどうにかする」
今もシャクエンの傍にいるのだ。バクフーンの〈蜃気楼〉。シャクエンの相棒であり、何よりも頼りになる力の持ち主だ。
「危なかったら、あたいでもどうにかするよ」
隣にはアンズもいる。自分は守られてばかりだな、とメイは息をついた。
その時、駆けてくる人影があった。シャクエンはすっと立ち上がり、目礼する。
「……久しぶりだな」
男は右腕をギプスで固定しており、その顔には自虐めいた色が浮かんでいる。
自分とアンズに視線を移し、「波導使いご一行様、か」と口角を吊り上げた。
「オレの名前は、……聞いているかもしれないがオウミ。役職は警部だ」
オウミは対面の椅子に座り、受付嬢にコーヒーを頼む。
「てめぇと会うのなら、本当はバーボンでも決めたいところだが、勤務中だからな。一応は。……で、お隣は波導使いのお抱えのお嬢ちゃんと、もう一人は瞬撃だな?」
目を見開く。それを言っていいのか、とメイが視線でシャクエンに問うと、シャクエンは首肯して大丈夫だと告げた。
「もう、私達に関わる事はない」
「そう言いつつ、そっちから来るんじゃ世話ねぇな。悪いが一階のブースは煙草だって吸えねぇんだ。手短に言えよ、用件があるんだろ?」
この男は刑事というよりもチンピラに近い。風体といい、口ぶりといい、まともだとは思えなかった。
「波導使いを狙っている殺し屋。その情報を開示して欲しい」
オウミがこちらをじっと睨む。メイは息を詰まらせた。
「……どこまで知ってやがる」
「大体は。波導使いを狙っている酔狂な殺し屋がいる事は」
「ああ、そこまで知ってるんなら話は早ぇな。こっちも割り出しに時間がかかっているところだが、波導の殺しってのは大体似たり寄ったりだ。青の死神は……おっと、ここじゃB37か。B37の殺しの手口は未だに割れていない。あいつの殺し方は特殊だからな。それと似た殺しが数件あった。鑑識からすれば違いも分からんそうだが、オレには分かる。B37は無益な殺しはしない。つまりは見せしめ、だとオレは考えている」
「見せしめ。誰への?」
「んなもん、B37本人への、に決まっているだろうが。頭のネジが飛んじまっているのさ。波導の殺し、ってのは大概、未解決になる。殺し方の判別だってつきゃしねぇんだが、この三件は……っと、見るかい、証拠写真」
オウミが懐から写真を数枚取り出す。メイは思わず悲鳴を上げそうになった。
そこに映っていたのは、絶叫の形に口を開けたまま絶命している人間の死体だったからだ。シャクエンがすぐさま裏返してくれなかったら吐いていたかもしれなかった。
「彼女はこういうのに慣れていない」
「分かってんよ。分かっていてやったんだろうが。B37がどこまで任せているのか気になってな。そのお嬢ちゃんは何だ? あいつの愛人か何かか? 殺しの現場も見せてもらっていないのなら、完全に信用されているわけでもなさそうだな」
自分の背中をシャクエンがそっとさすってくれているお陰で、この男への憎悪をぶつけずに済んだ。そうでなければ今頃、涙を浮かべて立ち去っていてもおかしくはない。
「そういうヨゴレを彼女に押し付けないで」
「んだよ……ちょっとしたジョークだろうが、ジョーク」
オウミは写真を懐に入れて言葉を継ぐ。
「とまぁ、こういう風に。波導使いの殺しが相次いでいる。捜査はB37の犯行と継続して見ているが、オレには分かる。全然違うってな。この殺しには、何の理念もねぇ。あいつのやり方に比べれば、覚えたての赤子さ。こんな猿真似で警察騙そうっていうんだから笑えて来るぜ。まぁ実際に騙されているから世話ァねぇんだけれどな」
オウミはそれこそ笑い事のように口にするが人殺しが起きている以上、穏やかではないのは確実だ。
「何でそんな……、他人事みたいに」
思わずメイは口にしていた。オウミはその言葉を聞くなり、ほう、と興味深そうにメイを見やる。
「他人事みたいに、ねぇ。実際、他人事だよ。自分がその番にならなきゃ、一生他人事だ。お嬢ちゃんはいちいち、ニュースの生き死にに感動したり、あるいは心を動かされたりするかい? カントーでない、他所の地域では戦争が激化しています。あるいは紛争は終わりません、で募金をするのが趣味か? そういうのが趣味だったら笑えないかもしれねぇが、そういう趣味じゃねぇだろ」
「趣味とか……、あたしはただ、そんな簡単に生き死にを判別出来るってのが」
「出来なきゃ刑事やってねぇよ。それとも何か? お嬢ちゃんの理想像では、オレは神様仏様のように慈悲深い人物とでも?」
食ってかかろうとしたがシャクエンがいさめた。
「メイ、その辺で。この男に善悪を説いたところで時間の無駄」
「そう、無駄さ。オレは職務中でね。こうして会っている事でさえも無駄。で? 何しに来た、シャクエン。B37じゃない波導使いの情報なら、さほど手に入っていない。申し訳ないが冷やかしならお引き取り願おうか」
メイは立ち上がっていた。これ以上、オウミから冷静に情報を手に入れられる気がしない。
「行こう、二人とも。この人に、これ以上、アーロンさんを侮辱させたくない」
立ち去りかけたメイの袖をシャクエンが掴む。まだ聞いていない事があるのか。メイは不服そうな顔を振り向けた。
「メイ。気持ちは分かる。でも、私達は聞かなければならない。でなければ、波導使いのためにもならない」
シャクエンの冷静な声にオウミが眉をひそめる。
「シャクエン。お前、いくらか変わったな。以前までなら他人の事なんて知ったこっちゃないって感じだったが。飼い主が変わって考えも改まったか?」
「そちらこそ、右腕の代償を払うつもりないようで相変わらず」
シャクエンの返す刀の言葉にオウミはけっと毒づいた。
「可愛げがねぇのは相変わらずか。いいぜ、こっからはビジネスの話だ。今までのは雑談だよ。そこのお団子頭のお嬢ちゃんも聞いていきな。もうからかわねぇからよ」
やはりからかわれていたのか。その羞恥の念よりも、切り上げようとしていた自分の無知さにメイは顔を伏せた。
「こっちの波導使い……混同しないために新入り、とでも言っておこうか。新入りは全くの素人さんってわけでもない。殺しは心得ているし、波導の使い手だってのは確かだ。だがな、オレから言わせればこいつの殺しは美学がねぇ。波導使いの殺しってのは、自分の美学に基づいて存在するもんだ。事実、奴の殺し方はそれ以外にない。ルールを破ったから。それだけだ。別に美学を求めているってわけでもないんだが、スマートな殺しには違いない。手際がいいって意味の美学さ」
何が言いたいのか。まだアーロンを馬鹿にされているような気がした。
「アーロンさんは、殺したくって殺しをしているわけでは……」
「んなもん、百も承知だよ。あれが殺したくって殺していれば、もうヤマブキもおじゃんだ。あいつは殺す以外に生き方を知らねぇのさ。自分を最大限に活かす手段が殺しだった、ってだけの、それだけの存在」
意外だった。オウミの言葉はメイがかねてより考えていたアーロンの歪さに繋がっていたからだ。
驚愕が顔に出ていたのか、オウミは笑みを浮かべる。
「伊達に刑事やってねぇっての。それとも、オレはいたいけな女の子に死体の写真見せて喜ぶ変態に映ったか?」
「……少し」
正直な感想にオウミは顔を拭って笑った。
「まぁ、その辺りはどうだっていい。オレが言いたいのは、この新入りがB37を超える波導使いかどうか、だが、的確に言えば、殺しの手際は遠く及ばないものの、やり方は似通っている。つまり、昔の波導使いを思い出させるってわけさ。まだ馴染んでいなかった頃のな。だからこいつ、多分殺しがメインの波導使いじゃないんだろ。今まで何をやっていたのかは知らないが、殺しではなく純粋に波導の鍛錬に励んでいたか。だがまぁ、そういう奴がじゃあ何故、B37を真似た殺しなんてするか、って疑問に突き当たるが」
オウミの疑問点にシャクエンが口を挟む。
「見せしめ、と言った。つまり、波導使いを誘い込もうと?」
「直接対決しようぜ、っていう意味とも取れる。オレはこれだけ出来る、ではお前はどうだ? ってな。波導使いはこういう見せしめの殺しには乗らねぇから、こんなもん無駄なだけなんだが」
「それを、相手の波導使いは分かっていない?」
アンズの疑問にオウミは、「まぁな」とコーヒーを啜った。
「この新入りは自分の力の誇示をしたいだけの小悪党だよ。ハムエッグやホテル、それにこの街に蔓延る大小の暗殺者や殺人鬼に比べればかわいいくらいのもんさ。ただまぁ、殺しには違いない。真剣に追っているよ、警察はな」
「オウミ、あなたは真剣に追っていないような口ぶり」
シャクエンの声にオウミは眉間に皺を寄せる。
「……本当に、変わったのか変わってねぇのか分からない奴だな。そうだよ、オレはちょっとした野暮用で今は捜査本部を離れている。だからこの事件に関しては他人事だし、それに詳細までは聞かされていない。元々、青の死神を追ってる部署には違いないんだが、オレは新入りの仕業だとすぐに見抜いた。だからここ数件の事件は追うに値しない、と判断している。どうせ、この新入り、殺しが自分の目的じゃないってすぐ気づくだろ」
「その根拠は何なんです?」
尋ねるとオウミは口角を吊り上げた。
「勘、だよ。刑事の勘って奴だ」
呆れた。この期に及んで適当な答えを、とメイは感じたがシャクエンは追及する。
「勘、っていうものがあるとして、ではこの波導使いは何をしたいのか。あなたの推測を教えて欲しい」
「どこまでも搾り取ろうとする奴だな。いいぜ、オレの勘だけでいいなら教えてやるよ。こいつは結局のところ、愉快犯だな」
愉快犯。アーロンが直面している相手とは思えず、メイは聞き返す。
「愉快犯って、それそのものが目的というよりも楽しんでいるって事……?」
「ご解説どうも。そうだよ。こいつは楽しんでいる。自分の力の誇示、ってさっきも言ったが、波導が使えるのを自慢している、ってのが近いかな」
「そんなのが、アーロンさんの相手だなんて」
「不満か? いつだってつまらん相手が実のところ一番厄介なもんだぜ? B37が相手取ってきたのは、この街では名の通った殺し屋、炎魔、それにセキチクから来た瞬撃、スノウドロップ、それに軍部……こうラインナップが揃えば、そりゃ高望みするのも分かるけれどよ。でも、こいつぁ愉快犯だ。これは間違いないな」
「確率は?」
「九割九分九厘。それくらいには自信がある。この新入りの波導使いがどれほどの相手だとか、どういう思想だとか、そういうの全部すっぽ抜いて、事実と前後関係だけ洗った結果だ。こいつはただ自分が強いって言いたいだけの弱者だな。昔からよくいるだろ? 自分より弱い相手をいじめたがる、そういう手合いさ。それで自分が強いって錯覚してんだな。まぁ、実際に実力者ではあるんだろうが、やり方があまりに稚拙過ぎる。これじゃ、B37の足元にも及ばない。殺し屋としては及第点にもならねぇな」
オウミの口調には今まで数多の殺し屋と殺人犯を見てきた実績があるように思えた。この男、飄々としているようで実のところはよく出来た男なのではないか。
メイの疑念の視線にオウミは、「聞きたいのはそれだけか?」と話を切り上げようとする。
「出来れば、この犯人の足取りが分かればいいんだけれど」
「悪いな。新入りの愉快犯を追うほど、オレだって暇じゃねぇんだ。まぁ捜査本部はB37の継続犯罪だと思っているからあっちに追わせればいいと思うがな。波導使いが二人も現れたって上に報告すればそれこそ事だぜ? 元々波導なんて眉唾物を信じ込んでいる時点で怪しいってのによ」
ではこの相手の足取りは不明のままなのか。メイが顔を翳らせると、オウミは指を立てた。
「もう一つ、いい事を教えてやるよ、お団子頭のお嬢ちゃん。アーロンはこいつをお前らに内緒で殺すつもりだ。それはハッキリしている。何でかって言えば、こいつもまた波導使い。それを過小評価するほど、アーロンだって馬鹿じゃねぇのさ。今まで波導使いにやられてきた二人の暗殺者がいれば分かるだろ? 自分が倒せた二人を、ぶつけるわけにはいかねぇってな」
つまりアーロンは自分達を心配するがゆえに一切情報を与えてこないのか。その観点はなかったのでメイは当惑した。
「アーロンさん、あたし達のために……」
「でもそれは波導使いの勝手なエゴ」
そう断じたシャクエンはオウミに問い質す。
「私達は何もこの波導使いに立ち向かおうってわけではない。ただ知りたいだけ。何で波導使いは遠ざけようとしているのか。そこまでの実力者なら、私達も警戒しなければならない。それならばもう言ってきているはず。私とアンズはそれほど弱いわけではない。警戒しろ、の一言でいい事くらいは波導使いも理解している」
捲くし立てられてオウミは後頭部を掻いた。
「知らねぇって。波導使いが自分の問題だって抱えてるんじゃねぇの? オレにそこまで推し量れってのは無理難題だぜ。大体、てめぇら雁首揃えて警察署に来ているけれど、それだって波導使いの本意じゃないだろ? 本当なら、家で大人しくしてろ、くらいなんじゃねぇか?」
それは、とシャクエンが言葉に詰まる。アーロンはあえて自分達を遠ざけようとしている。それはこの波導使いがどれほどの相手なのかに直結しているのだろう。
「でも、あたしは、オウミさん……。アーロンさんに、一人で苦しんで欲しくないんです」
メイの言葉にオウミは首を傾げる。
「それも、分からない話なんだよな。何だってB37はてめぇらを生かしている? 以前までの、研ぎ澄ましたみたいな殺し屋のあいつならお前らなんて殺されていてもおかしくねぇぜ? 何だって共同生活なんて?」
それは問われても分からない。どうしてアーロンは自分達を生かしているのか、など。
メイが言葉を彷徨わせているとシャクエンが言い放つ。
「この新入りの波導使いは見せしめをしている。目的は、波導使いをおびき出す事。それだけ分かればいい」
シャクエンが席を立つ。突然の事だったのでメイは狼狽した。
「えっ、ちょっと。シャクエンちゃん?」
「最後に。もう二度と会いたくない」
背中を向けて付け加えた言葉にオウミは苦々しい表情を浮かべる。
「こっちもだ。その顔は見たくもねぇ。出来れば一生、な」
二人に降り立った無言を読み取る前に、アンズが手を挙げていた。
「ねぇ、質問なんだけれど、波導の殺し屋はこの二人だけって言う証拠はあるの?」
アンズが言うのは第三者の存在だろう。オウミは肯定する。
「ああ、そうだよ。B37か、もう一人の新入りしか考えられない」
「それは何で? 波導使いってのはそう何人もいるわけではないっていう論拠は?」
どうしてだかアンズは波導使いの人数にこだわっているようだった。オウミは諭すように声にする。
「B37、あいつ本人から聞いた。波導使いが、波導に目覚めてそのまま生活出来るケースは、一割にも満たないそうだ。あいつだって、定期的な波導の検査がなければ危ないほど、爆弾抱えてるって話さ。それほどまでに波導使いってのは精密機械。だからそう何人もいねぇっいう風に聞いた。それが何か?」
「ううん。ちょっとね」
アンズも立ち上がる。メイは遅れながらオウミへと頭を下げた。
「その……情報、ありがとうございました」
「何で礼を言う? オレはお団子頭のお嬢ちゃんに嫌がらせしかしてねぇぞ」
「それでも、アーロンさんの身の潔白を証明してくださったのは、その、お礼を言いたいんです」
その言葉にオウミは怪訝そうにする。
「分からねぇな。何でお嬢ちゃん、B37の肩ばっかり持つんだ? あいつだって人殺しだぜ?」
そうかもしれない。だが、アーロンは他の暗殺者とは違う。違うと信じたかった。
「でもあたしにとってのアーロンさんは、恩人ですから」
「恩人ね……。その恩人がいつ自分を殺すのか分からない、って事くらいは頭に入れときな。言っておくがあいつの本業は暗殺だ。人殺しなんだ。だから、過剰に信じるのは馬鹿を見るぜ。これは忠告なんだが……あいつを信用するな。いざとなれば逃げたほうがいい。お嬢ちゃんみたいなのは、最後の最後に裏切られて泣くタイプだ。そんなの、いくつも見ないほうがいいだろ」
オウミの忠告を受けてもう一度頭を下げてから、メイは二人に連れ立った。