第七十話「ツヴァイという存在」
「おや、久しぶりの顔じゃないか。何かいい事でもあったのかな?」
カウンターの中からハムエッグが問いかけてくる。グラスを磨いており、粒のような眼がこちらを見据えていた。
「スノウドロップは?」
「休んでいるよ。前の戦いは彼女に精神的な痛みを抱えさせてしまった。出来るだけ、回復するまでは彼女を使いたくはない」
カウンターに座ると水が置かれる。アーロンは早速口火を切った。
「情報を流したな?」
「ツヴァイと名乗る波導使いの事かな? あれは情報を流したほうが君の得になると判断したからだよ。ほら、波導使いの業務に混乱はあってはいけないだろ?」
それもそうだが、ハムエッグはどこまで掴んでいるのか。あのツヴァイと名乗る波導使いが自分と同門である、という事まで調べ済みなのか。
「ホテルは?」
「掴んでいないね、まだ。まぁいずれは掴む事だろう。その時、君かツヴァイか、どちらを選ぶのかまでは分からんがね」
波導使いは二人と要らない。それはこの街の共通認識らしい。
「ハムエッグ。俺とあの男との潰し合いを誘発する気か?」
「そんなつもりはないよ。潰し合うのは勝手だが、今回の件に関しては完全に、君ら波導使いの身勝手だ。わたしらの関知するところではない。本来は、だけれどね」
本当ならばヤマブキ全土に発布するほどの事でもない。だが、今まで信用を得てきた波導使いの技術が地に堕ちる事だけは避けなければならなかった。その点でハムエッグの対応は満足いくものだ。
「波導使い、ツヴァイ。あの男がどういう存在なのか、わたしだけにでも教えてもらえると手は打ちやすい」
「よく言う。お前だけに教える、と言っても、それはヤマブキという街全土に公で喋っているのと同義だ」
こちらとて心得ている。ハムエッグはフッと笑った。
「ちょっと見ない間に緩くなったかと思っていたが、やはり変わらんね。波導使いアーロン。という事は、今回の件、身勝手な波導使いによる暴走、と捉えていいのかな?」
「俺にもよく分からない。ただ波導が使える事に関しては本当のようだ」
しかし、とアーロンは思案する。
――赤い波導。
あれは本来、宿るべくはずもないものだ。調べは進める必要があるかもしれない。
「ハムエッグ。監視カメラの写真を」
「分かっているとも。君が来ると思ってね。現像しておいた」
差し出されたのは茶封筒である。ハムエッグからの情報筋ならば確かだろう。対価の紙幣を手渡し契約は成立する。
「だが、解せないのは奴が何故、今動き出したか、だ。もっと早く、俺の存在を察知していたわけではないのか」
「それはわたしも同感だな。君がここまで暗殺者として成功する前に、いくらでも制せただろうに。何で今、君の前に姿を現したのか」
「勝てる算段がついた」
しかしこの仮定は、今までならば勝てなかったから、という前提条件で成り立つ。
「ならば、今までの君には勝てるとは思えなかった、という事になるが」
前後して自分の身に降りかかった事を整理する。そうなってくるとやはり出てくるのはメイの存在であった。
「あの馬鹿と、プラズマ団……」
「そうだね。君がここまで忙しくなったのは、お嬢ちゃんとプラズマ団のせいだ」
となると相手は最初からプラズマ団と癒着していたのか? 今回、明らかにプラズマ団の情報筋から聞いてやって来たのは分かっている。だがそれまで何をしていたのか、が一切不明。
相手の足取りさえ掴めれば、弱点も見えてくるかもしれない。
「アーロン。君の考えは分かるよ。ツヴァイと名乗る波導使いの過去だね。それを調べればいい、と」
「高くつくんだろう?」
「いいや、まけといてあげよう。波導使いが二人もいるとややこしいからね。手間賃だと思えば安いくらいだ」
助かる、とは言わなかった。ハムエッグは事業主だ。自分は使われる側。当然、後々の利益まで計算しての行動だろう。
「本当に、奴は師父に習ったのか」
「波導を、かい? 君がたまに口にする師父、というのはどういう人物なのか、未だに明確な答えは聞いていないな」
「波導使いだ。なおかつ、俺がいずれ殺さなければならない相手でもある」
「それはまたどうして?」
言うつもりはない。これは自分の因縁だ。
それを感じ取ったのか、ハムエッグは息をついた。
「分かっているとも。言いたくなければ言わなくってもいい。ただ、気にはなっているんだ。君をその師父という人物は波導使いにはしたかったのかもしれないが、暗殺者に仕立て上げたかったのか」
ハムエッグの疑念にアーロンは睨む目を向けた。
「何が言いたい?」
「いや、今の君を見て、師父という男はどう思うのかな、ってね。ちょっと感じただけさ」
師父の感じる事は、恐らくただ一つだけだ。
――幻滅した、だろう。
だが同時にこうも思うに違いない。
――よくここまで完成された、とも。
「師父は、最初からある程度、俺の将来は分かっていたのかもしれない」
波導の切断技術。それを活かした真っ当な仕事には就けまい。師父はどこかで殺しや、あるいはそれに類するものに手を染める事を理解していたに違いなかった。
「そうだとすれば、師父という男ははかり知れないね。波導使いを一人育て上げるだけでも、随分と違うんだろう? 現に君は、弟子を取らない。これも不思議な事の一つだ。どうして、技術を残そうとしない? 炎魔だってあれは暗殺者の血族だ。血は薄らいでも残そうとする。この現代で、暗殺なんてものは成立しないと分かっていても炎魔シャクエンを襲名させる事に何の躊躇いもなかった。それは血がそうさせるからだ。アーロン。君は、その血を残そうと思わないのか?」
「思わないな」
即答だった。自分の血、波導使いは生きていても何もいい事はない。
「波導使いは最後には滅されるべきだ。それが世の理に違いない」
「……分からんね。これほどの技術と、力、能力を得てもなお慢心せず、茨の道を行こうとする君の心が」
波導使いに安息は必要ない。アーロンはそう考えていたしこれからも変わる事はないだろう。
「ハムエッグ。二三、勘違いしているようだから言っておこう。俺は波導使いが優れているとは思っていないし、何よりもこの血にこだわっている理由はない。そしてもう一つは、波導を読むのは完全に先天性のものがある。継承者が現れないから残そうとも思わないし、何よりも誰もこの技術を継承出来まい」
「だが、師父という男は君とツヴァイ、両方に教えた。何故か?」
師父の考えの全てまでは分からない。だがきっと師父が言うのはこういう事だろう。
「運が悪かった。事故に遭ったようなものだ。たまたま波導が見えたから波導の使い方を教えた。師父からしてみれば単にそれだけの、つまらない理由さ」
あの時の自分はたまたま青い闇の中にいた。その闇を払う術は波導を習う事しかなかった。そうでなければ狂人になっていただろう。
「分からんね。波導を使う、という事がどれほどの辛さなのかは君を見ていればよぉく分かるのに、その師父という男はそれさえも与えようとしたのか」
「罰、なのかもな。師父は、波導を使えるという事が決して特別ではない、と分かっていたからなのかもしれない」
――波導使いは罪と罰の象徴。波導使いは不幸だ。
師父の口癖でもあった。どうして不幸なのかは、自分が身に沁みてよく分かっている。
「わたしは、とても強い力と心を持つ存在だと思っている。波導使いは、存在すべくしてここにいるのだと」
「だとすれば、喋るポケモンの盟主も、存在すべくしているのか?」
問い返すとハムエッグは肩を竦めた。
「そこまでは。運命という名のうねりに身を任せた結果かな」
運命という名のうねり。そのうねりの中で、自分とツヴァイは戦う事が宿命付けられていたのかもしれない。
「情報はいただいた。お前がツヴァイにつこうが、俺につこうが、それは自由だ。止める事はしない」
「おいおい、そこまで薄情だとは思わないで欲しい。わたしは君を応援するよ」
応援する、とは言ったが優先するとは言っていない。このポケモンの賢しい手だ。
「期待しないでおこう」
「あっ、ラピス。起きたのかい?」
ハムエッグの声にアーロンは目線を振り向ける。ラピス・ラズリが静かに佇んでいた。目が赤らんでおり、泣きじゃくっていたのが分かる。
ラピスはアーロンを認めるなりか細い声で呟いた。
「……お姉ちゃんは?」
アーロンはハムエッグに視線を流す。ハムエッグは答えようとしなかった。
「今日は来ていない。悪いな」
「ううん。別に」
ラピスは踵を返してカウンターの奥に帰ってゆく。その背中に寂しさが宿っていた。
「……正直なところ、精神的なダメージが大きくてね。彼女は、メイお嬢ちゃんに嫌われたのだと思い込んでいる。このままでは最強の暗殺者の名前も危ない。この街を制する事の出来るとされてきたスノウドロップは、今は休業中だ。とてもではないが今の彼女のメンタリティで殺しは出来まい」
「誰かに掴まれたのか?」
「いんや、全部揉み消しているが、先日のシステムOSの一件もある。掴まれるのは時間の問題かもしれない」
そうなれば勢力図が覆る。ホテルが利権を握るか、あるいは他の勢力が上ってくるか。
「お願いがある。これはこの街の盟主としてではない。友人としてのお願いだ」
ハムエッグの言いたい事は分かる。
「……馬鹿を連れて来いというのか」
「それしか彼女を再起させる手はない」
「お断りだな。最強の暗殺者が聞いて呆れる。ただの小娘一人に嫌われた程度で使い物にならなくなるなど」
鼻を鳴らしたアーロンにハムエッグは言い含める。
「今までは、薬も、何にも頼らずに最強の暗殺者でいられた。だがね、このままではいずれ洗脳、という結果になりかねない。そうすればスノウドロップは戻ってくるだろうが、限りなく致命的なのは長持ちしない、という点だ。それを君もよしとするか? 何よりもお嬢ちゃんが許すまい」
結局、脅迫の手になってくる。最終的な責任をここで聞かなかった事にするアーロンにおっ被せようというのだ。
「汚い奴め」
「お互い様だよ、アーロン。言ってしまえば、その写真と継続的にツヴァイを追う代金だと考えてくれればいい。君はツヴァイを追わなければならない。わたしはスノウドロップの復活こそが悲願だ。彼女を元気付けて欲しい」
「だが、もしもだが、あの馬鹿が殺しなんてもうやめろ、と言ったら? あいつはスノウドロップが殺し屋をやっている事を快く思っていない」
「問題なのは、アーロン。今の彼女の精神状態だ。不安定過ぎる。これでは殺し屋として使える使えない以前に爆弾を抱えているも同義だよ。わたしは、出来れば彼女に、やり直しの機会を与えたいんだ。それが殺し屋としての継続にせよ、そうでないにせよ。もう一度念を押しておこう。洗脳するのは簡単だ。だが、それでは一年と持つまい」
メイを悲しませたくなければ会わせろ、か。身勝手にもほどがあるが、スノウドロップの復活には必要な事なのだろう。
洗脳、という話を持ち出した辺り、ハムエッグとて焦っている。自分の駒が使えない事に。今までそれは完全に拮抗する手段として使えたのだ。だというのに、自分との戦闘で使い物にならなくなったのでは張子の虎もいいところ。
この街の盟主を名乗るには、スノウドロップは使えなくては話にならない。
「ハムエッグ。俺が、あの馬鹿を連れて来るとしよう。だが、それが全くの意想外で、俺達の目論見を外れた……有り体に言えば逆効果だとすれば? もし、馬鹿がスノウドロップを拒絶すればどうなる?」
それは最悪の想定であったが、常に最悪は考えておくべきだ。ハムエッグは一呼吸置いてから口にする。
「それこそ、わたしは真っ先に考えたとも。メイお嬢ちゃんとの接触が悪い方向に転がるのでは、とね。だが、今までの感覚から見るに、ラピスは唯一のすがれる手段として、お嬢ちゃんを見ている節があるんだ。それに、お嬢ちゃんだって馬鹿じゃない。今、ラピスを手離せば壊れてしまう事くらい目を見れば分かるだろう」
「どうだかな」
アーロンは鼻を鳴らし、茶封筒を掲げる。
「情報、助かる。話だけは、通しておこう」
「前向きに検討してもらえるとこちらも大助かりだよ、アーロン。わたしは、背中を押す事は出来ても強制までは出来ないからね」
「意外だな。盟主ハムエッグらしからぬ弱音だ」
「弱音を吐きたくもなるさ。このままでは最強の暗殺者が形無しだよ」
確かにこのまま捨て置けば、ハムエッグの権威は地に堕ち、この街は混沌を極める事となる。ホテルとの拮抗状態も消えれば、街を支配するのは闇だけだ。
「連れて来るだけで解決するならば、それに越した事はないがな」