第五十四話「サイレント・ヴォイス」
凍結を操作するメガユキノオーの波導はまさしく流動的だ。
凍結の腕の操作とメガユキノオー本体の操作は必ずしも一致していない。だからメガユキノオーの波導を読んでも、それはイコール相手の攻撃の予知ではない。
アーロンは横合いから吹き荒ぶ吹雪と氷の刃の応酬に耐えた。電撃を部分的に放出し、手で可能な限りそれを弾く。ピカチュウの電撃を少しでも手離せばこの局面での勝利はなくなる。
氷柱が眼前で四つ展開されそれぞれが幾何学の軌道を描いて飛んでくる。アーロンは手を払ってそれらを叩き落した。だが氷柱はすぐに再構築される。
一個一個を壊すのは無意味だ。自分にとって致命的となる一撃だけを叩け。それ以外は無視しろ。
氷の刃も吹雪と共に自分に降り注いでくる。アーロンは眼と戦いに必要な四肢だけを守り、それ以外は甘んじて受けた。刃が腹部にめり込んだ時には激痛に集中が切れそうになったがアーロンは波導の眼に力を込める。
メガユキノオーから立ち上る波導はまるで大火事のように膨大なものだったが、その波導の糸となればそれはごくごく微細で、それこそ目を凝らさなければ見えない。
まだだ、とアーロンは集中する。メガユキノオーに今は引っ張り込まれている状態。相手へと肉迫するための攻撃手段は必要ない。今は身を任せろ。
メガユキノオーから伸びている巨大な二本の氷柱は凍結領域のコントロールに用いられている。その二本と本体は別の凍結を操作しているため計三つの凍結がそれぞれ自律的に動いてアーロンの身体を絡め取ろうとする。普段ならばアンテナである二本の氷柱を破壊するが今は消耗が激しい。そのような余裕はなかった。
代わりにアーロンの集中の土台となっているのはメガユキノオーとラピスを繋ぐ同調の糸だ。その糸さえ切ればメガシンカは解除され、この戦局が引っくり返る。
――集中しろ。
ただただ、その糸だけを見極めるために目を凝らせ。
時間が引き延ばされたようにアーロンの視界には風に揺れている意識圏の糸が映り込む。本当に微細で、ユキノオーの体色と同じく白の波導で構築された糸だったが、それを集中の基点としてアーロンは右腕に電撃を溜め込んだ。
ピカチュウの電撃を意識的にチャージすると、右手に宿らせた薄皮の波導が僅かに傷つく。体内から焼かれる苦痛が過ぎったが今はそれどころではない。細胞を犠牲にしてでも、糸を断ち切る。
メガユキノオーが咆哮し、白と粉塵の黒に塗れた視界の中で身体が押し潰されるような衝撃波を味わった。これだけでも生身ならばボロ雑巾のように煽られるであろう。アーロンはその風体を装った。
つまり、この衝撃波で既に勝負はついたのだとラピスに錯覚させるべく、波導のかさぶたを解除した。一時的に抑えていた出血がアーロンの身体から迸り、相手からしてみれば今の一撃が効いたように見えたに違いない。ラピスほどの実力者ならば、どの攻撃が有効でどの攻撃が手応えのなかったのか、はっきりと分かるはず。
今の咆哮は殺しに来ていた。アーロンはそれが必殺だと思わせるために痛みだけをキャンセルし、出血を演出する。
体内から漏れ出た血のせいで意識が暗転しそうになるがこのような事、師父との訓練で何度も行ってきた。意識の手綱を手離さない戦い方は心得ている。
距離が縮まった。
メガユキノオーが最後の一撃を放つべく、体重に負けて四つん這いの形になっている腕を持ち上げた。最後は自分の手で決めるつもりだろう。凍結領域が一瞬だけ緩む。
それがこの街最強の暗殺者の見せた、最初で最後の好機だった。
アーロンは右手から電気ワイヤーを放つ。メガユキノオーへと吸い込まれかけていた身体が僅かにぶれてその傍の地面へと食い込んだ。
ワイヤーを引き戻し、凍結の風圧が緩んだ箇所を蹴りで吹き飛ばす。凍結領域は台風の暴風域のように隙間のないものだったがその一瞬だけ内側からの破砕を許した。
無風地帯へと飛び込んだアーロンは視界の先にラピスの姿を捉える。右手を掲げ、今も揺れている糸を引っ掴んだ。
瞬間、溜め込んだ電撃を切断に使用する。
波導の眼に映った意識圏の糸が電撃で断ち切られラピスがよろめいた。
直後、エネルギーが逆流し、メガユキノオーが意識を失ってその場に蹲る。背中から伸びた二本の氷柱が少しずつ枯れてゆき、花弁が散るように空気中に溶けていった。
「トレーナーとポケモンの意識圏の糸を切れば、メガシンカは強制解除される。ただ――普段はこのような面倒な戦法は使わないがな」
ようやく地面を踏み締めたアーロンは右手を払った。手の中にはラピスとユキノオーを繋ぐ糸があり、最後に人差し指で弾いてやるとピンと張った糸が切れて漂った。
紫色のエネルギーの風圧が逆転してメガユキノオーを押し包む。
ラピスも意識を失ったと思われた。視界の隅にいるこの街最強の暗殺者はよろよろと頭を垂れて今にも崩れ落ちそうだ。
今ならば、とアーロンはとどめを刺そうとした。
ユキノオーもメガシンカ解除の隙がある。ラピスにも意識圏を傷つけたせいで逆流現象が起きているはずだ。今ならば取れる。
そう感じた暗殺者の習い性の足は駆け出していた。右手を突き出してラピスの頭部を引っ掴み、電撃を流す。
殺せる、と判じた、その瞬間だった。
誰かの声が、脳裏で弾けた。
――殺さないで!
ハッと、アーロンは立ち止まる。誰の声なのかも分からない。ただ、その声を無視出来なかった。右手はラピスに届くほんの数センチ先で、止まっていた。
「何で俺は……」
殺せなかった。その不義理を考える前にラピスの声が耳朶を打つ。
「いや、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……」
震える少女はこの街最強の殺し屋ではなかった。
星空を内包した瞳から涙が零れ落ちる。アーロンはその眼差しに見入っていた。
裏切られた、でもない。憎しみでも、戦闘機械でもなく、ただの一人の少女として、ラピスの頬を涙が伝っている。
「お姉ちゃん……」
その言葉が紡がれた瞬間、アーロンは飛び退っていた。反応したユキノオーが横合いから樹木で固めた槌の一撃を振るってきた。
ラピスの前に躍り出たユキノオーはしかし、今までのような力強さはない。ダメージフィードバック程度ではない、まさしく意識の網の中の要糸を切ったのだ。その逆流によるダメージは推し量るべきだった。だというのに、ユキノオーは諦めていないようだ。
「何故だ。ここで退けば、まだ殺さずに済むというのに」
嘘だった。
自分は今、無防備なラピス・ラズリを殺す事しか考えていなかった。脳裏に弾けた声がなければ今頃手にかけていただろう。
今の声は、――誰だ?
疑問を挟むアーロンに戦闘神経を研ぎ澄ましたユキノオーが屹立する。だが今はトレーナーとの一体感はない。隙だらけであった。
だがどこからも攻め込めない。というよりも、攻め込む気力が湧かない。今の声がアーロンの残酷な暗殺者の側面から気概を奪ったとしか思えない。
「……声さえなければ」
口走るもそれは未熟な神経への言い訳にしかならなかった。
ユキノオーが構えを取ろうとする。
もう霰は降ってこなかった。凍結領域の操作も出来ないのだろう。今のユキノオーはただ立っているだけの木偶だ。殺すなど簡単だというのに。
何故だか一歩も踏み出せない。
暗殺者としての残酷さが微塵にも湧いてこなかった。
「俺、は……」
その時、ホロキャスターの着信音が鳴り響いた。自分ではない。ラピスのほうだ。手にした大きめのホロキャスターをラピスは開く。
「もしもし……」
『ラピス。祭りは中止だ。プラズマ団が撤退した。もうこれ以上の戦闘は無意味だと判断する』
「でも、波導使いが」
『重ねて言うぞ、ラピス。これ以上の戦闘は無意味だ』
どういう事なのか。アーロンも事態をはかりかねている。
「どういう意味だ、ハムエッグ……」
忌々しげな声を聞き届けたのかホロキャスターの通話口からわざとらしい感嘆が漏れる。
『生きていたか。意外だよ、アーロン』
「この局面はお前の関知するところではないのか?」
『残念ながらね。もう祭りの主催者が去ってしまったのではいくら騒ぎ立てても意味がないのだよ。それに、結構利益はあった。この馬鹿騒ぎに付き合ってくれた街の人々は熱狂の最中で去れて満足だと思うがね』
「悪党め」
吐き捨てるとハムエッグは笑った。
『悪党とは。アーロン、いつから正義の味方のつもりだったのかな』
「……そうだな」
ここは大人しく引いたほうが無難だろう。アーロンが殺気を収めるとラピスも殺気を仕舞った。さすがにこの街最強は伊達ではない。殺気を簡単に引き出して収める事が出来るようだ。だが割り切れていないのはその表情から窺えた。
「主様、波導使いを、本当に殺さなくっていいの?」
殺気は凪いだが、殺せと指示があれば迷いなくやるであろう声音だった。しかしハムエッグが否と応じる。
『今は、殺すのを抑えるんだ、ラピス。どうせ祭りの後に喰い合いなど誰も望んでいない。プラズマ団の意に沿うのはここまで、という区切りのためでもある。なに、いい具合に資金は集まった。祭りで損をした者は、この街にはいない』
暗にプラズマ団を始末する事がこの祭りの本懐であったと述べているようだったが深追いはしなかった。ラピスはユキノオーにモンスターボールを向ける。
「戻って」
赤い粒子となってユキノオーがボールに戻る。アーロンもピカチュウを戻していた。
「引き分け、か」
口にしたがそうではない事はお互いによく分かっている。どちらかがもう少しだけ相手を嘗めなければ結果は違っていただろう。
しかし二度も三度も戦いたい相手ではない。それは共通認識だったようだ。
「引き分け……。それが本意ならばそれでいい」
ラピスも次に戦う時があれば、それは街が崩壊する時だと悟ったのだろう。凍結したビル群を見やり何でもない事のように身を翻した。
背中を向けているがもう戦う気はない。アーロンも踵を返してその場から立ち去る。
お互いに二度目はない、と暗黙の了承が降り立った。
駆け出したアーロンへと合流してくる影があった。
シャクエンとアンズだ。今まで気配も分からなかったのはそれだけ戦闘に没入していたからだろうか。シャクエンは開口一番、「メイは?」と尋ねてきた。
「生きている。無事だ」
アーロンの返答に安堵の息をついたのが分かった。どうしてこの非情な暗殺者共はあの小娘に惹かれるのだろう。シャクエンとアンズがメイの事を気にかける理由が分からない。
「スノウドロップもそうだが、何故お前らはあの馬鹿を庇う? それほどに価値のある人間か?」
アーロンの問いかけに、「価値のあるなしじゃない」とシャクエンが答える。
「メイだから、私は意味があるんだと信じている」
それは非情な暗殺者炎魔の口から出たとは思えないほどに甘い夢想だった。
「メイお姉ちゃんの事が心配になるのは、誰だってそうだよ。お兄ちゃんだってそうでしょ?」
アンズの声にアーロンは頭を振る。
「勘違いをするな。俺はただ、馬鹿の回収をしに行くだけだ」
ビルの屋上に置き去りにしてしまった。恐らく死んだのだと思い込んでいるだろう。
「あっ、アーロンさーん! ここ降りる階段ないんですよー!」
屋上の縁でメイが叫ぶ。アーロンは額に手をやった。
「これだから馬鹿は……」
救いようがないな、と呟いた。