第五十話「淡い夢」
「逃がした……」
発せられた声はスノウドロップ、ラピス・ラズリのものだった。先ほどまでメイと言葉を交わしていた幼い少女のものではない。
分かり合えるかもしれない、とシャクエンは一瞬だけ期待してしまった。メイならばこの状況をどうにか出来るかもしれないと。だが事態は最悪の方向に転がりつつある。
ラピスが手を払うとそれと同期してユキノオーが吼えて八つ当たり気味の凍結をビルに放つ。それだけでビルが樹木のように断ち割られる。
「あの殺し屋……! ラピスの……、ラピスのお姉ちゃんを……!」
怒りに滲んだ声が吹き抜けてシャクエンは空恐ろしくなる。こんな魔物を放ったハムエッグも正気ではない。加えて以前自分はこれと戦うかもしれなかったのだ、という思いがシャクエンの足を止めた。一歩も動けない。
「嬲り殺す」
その意味も分かっていて言っているのかまでは問い質せなかった。ユキノオーを引き連れて、最強の殺し屋がヤマブキの裏通りを次々と氷の渦に落としてゆく。炎魔と謳われた自分でもこの殺し屋だけは相手取れない。止められない。
だが止めなければ、事態はもっと悪くなる。それこそ憎しみ合いの連鎖だ。今ならばまだ誤解で済む。
誤解を解くのは今しかない。
自分の身を挺してでも、メイの潔白とアーロンの無実を訴えかけなければ。
手を繰って〈蜃気楼〉を呼び出そうとする。この空間においては〈蜃気楼〉でさえも自由ではないようだ。凍結領域を目の当たりにした自分の手持ちは恐怖していた。
「怖い……? でも、私もだから。〈蜃気楼〉、出てきて」
空間を歪ませて〈蜃気楼〉が飛び出す。シャクエンはそのままスノウドロップの後姿へと声を投げようとした。
その時、震え始めた自分の手に違う体温が添えられる。
アンズだった。彼女は何か声を発するでもない。ただシャクエンの目を見据えて首を横に振る。
ここでラピスに立ち向かうのは自殺行為だと告げていた。
「でも……、でもメイが……」
この白い闇の向こう側に連れ去られてしまった。メイを守りたい。アンズは握った手に力を込める。
「炎魔のお姉ちゃんが考えている事は分かるよ。でも、でもね……! もう、戻れないんだって、何よりも自分で分かっているんでしょ」
そう口にされれば俯いてしまう。勝てないのだと、ラピスを目にした時から分かっていた。同時にそれと戦う時は死ぬ時以外にないと。
白い鬼と宝石の眼を持つ少女が凍結の手を緩めずにビルを進んでいく。その背中を一声、呼び止められればどれだけよかっただろうか。
呼び止めるには勇気が足りなかった。
何よりも、力が及ばなかった。
「……ゴメン、メイ」
自分が強ければ、あるいは向こう見ずならば、スノウドロップの足を止められただろう。
だがそれほどに何もかもを捨て切れないこの身は、凍てつく空気の中を滞留するしかない。
心に残るのはただ一事。
――自分には救えない、という悔恨。
せめて、とシャクエンは口を開いていた。
「波導使いアーロン。あなたは何故……」
そんな真似をするの。その言葉は風圧の中に掻き消えて行った。
「……何で、あたしをラピスちゃんから引き離したんです」
ようやく口を開けたと思えば恨み言が返ってきた。アーロンは廃ビルの一つに潜み、息を殺している。波導もほとんどゼロの値まで減らしていた。これを使う時は下策だと師父に言われていたが今はこれくらいしか身を隠す術を知らない。
「口を開くな。気取られる」
波導の眼を使い、アーロンはどこまで接近されているかを読もうとしたが、砂嵐のようなものが走って阻害する。恐らくは霰を降らしている特性の影響だ。この天候では平時の波導が使えない。
歯噛みして一歩踏み出そうとするとその手を掴まれた。
「どうして! ラピスちゃんから逃げるような真似をしたんです!」
弾けた声のあまりの大きさにアーロンは指を立てた。
「しっ。声を出すなと言っている」
「納得出来ません! 何で、あたし達が逃げ回るような真似を? これじゃプラズマ団に屈したと思われてもおかしくないですよ! アーロンさんが敵だって、言っているようなものじゃないですか!」
アーロンは接近の気配を探る。まだ声の届く範囲までは来ていないようだ。だが安心も出来ない。極力言葉を使わずにメイと会話するべきだったが彼女は喚き散らす。
「何で! こんな事するんです! プラズマ団なんて無視しちゃえば」
「うるさいぞ!」
思わず言い返してしまった。メイは呆気に取られたように固まっていたがやがて涙目になった。
「何で……、こんな事に……」
「泣くな、喚くな、馬鹿。何をしてもこの状況は好転しない」
気配を察知するためにいくつか罠を仕掛けておいた。そのポイントを波導で察知する。第一防衛線であった電気の網をユキノオーが破ったのを感知する。
「ここも危ない。必要最低限の言葉だけしか交わさないぞ。どうしてハムエッグのところなんて行った?」
思わぬ言葉だったのだろう。メイは言葉を詰まらせる。
「……だって」
「だってじゃない。今回の大元はお前がハムエッグの保護下にあった事が問題なんだ。お陰で俺はプラズマ団にはめられ、ヤマブキの連中は俺とスノウドロップで殺し合いのショーを楽しんでいる」
なんて様だ、と自嘲する。だが笑えないのは相手が本気で殺しに来ている事。それに恐らくは火に油を注ぐ真似をしてしまった事だった。
「……何で、逃げたりなんかしたんです」
「あの戦況で逃げなければ俺は殺されていたし、お前もいつスノウドロップが暴走して殺されるか分からなかった。まさか説き伏せられると思ったのか?」
「だって、ラピスちゃんはあたしの事、大切だって……」
「情を信じたか。だが、生憎スノウドロップにはそんなものは通用しない。いくら懐かれていても、スノウドロップは不安定だ。暴走すればそれこそお終いだったんだぞ」
アーロンの迷いのない声に、「それでも!」と声を張り上げさせるメイだったが、言い返す言葉がないと悟ったのか尻すぼみになっていった。
「それでも……」
「俺とて、殺し合いに持ち込みたくはない。だがラピス・ラズリを説得出来る可能性と、俺がこうして逃げ回って事態を変えていける可能性を天秤にかけた場合、こちらのほうが優位に働いた。それだけだ」
アーロンは予め仕掛けておいた波導による探知装置が破壊されたのを感覚する。どうやらラピスは暴走寸前らしい。ほとんど前も見えていないのだろう。手当たり次第にビルを破壊して回っているようだ。
「でも、アーロンさん。ラピスちゃんに心はあるんですよ」
メイが胸元でぎゅっと拳を握り締める。それはスノウドロップに近づき過ぎたニンゲンが感じる一種のまやかしだろう。
「心、か。そんなものを信奉して、俺に殺されろ、と言っているのか?」
アーロンの言い草に、「違う」とメイが返そうとしたがその前に声を遮る。
「何も違わないだろう。スノウドロップの選択肢は俺を殺すか俺に殺されるかしかない。だが少しでも時間を引き延ばせれば可能性は、と言っているんだ」
その言葉にメイは顔を上げる。
「策が、あるんですか」
「策がなけれればお前を盾にはしない。そのほうが不合理なのは目に見えている」
アーロンは静かに地面に手をつき、波導を感知する。このビル周辺の五十メートル以内には人はいない。最悪ビルを崩落させてラピスを巻き添えにする。その間に自分は張っておいた策がどこまで通用するかを試すまでだ。
「通信機は? 俺は何も持たずに来てしまったが」
メイがホロキャスターを取り出す。それを引っ手繰ってアーロンはある番号にかけた。すると通話口で声がする。
『何だ、アーロン』
「プラズマ団の動きは?」
出たのはカヤノであった。カヤノは、『芳しくないな』と応じる。
『どうにも、やっぱりスノウドロップの強さをはかりたいのと、お前を殺したいらしい。全く、とは言わないが動きを見せない』
「頼む。あんたの情報網でプラズマ団の尻尾さえ掴めれば形勢を逆転出来る」
メイが息を呑む。そんな事が可能なのか、と言いたげだ。
『形勢逆転って……。んな簡単なもんじゃないだろ』
「かもな。だがプラズマ団は必ず、どこかで介入する。そうでなければこいつの情報を俺に開示した意味がない」
その場合、プラズマ団は極秘情報を他人に教えた事になる。この街そのものが敵となればプラズマ団が窮地に陥るくらい前回の戦闘で理解しているはずなのだ。
「あたしの、情報……」
メイの声を無視してカヤノに尋ねる。
「プラズマ団のどんな情報でもいい。これから数時間はこの電話にかけてくれ。俺は出来るだけ引き伸ばす」
『引き伸ばすって言ったってお前、戦っているのはスノウドロップだろう? そんな相手に引き伸ばしなんて通用するのかよ』
「安心しろ。猪突猛進だけが戦いではないさ」
通話を切ってアーロンは第三の探知装置が破壊されたのを察知する。もうラピスはすぐ傍まで来ている。波導を切ってビルを崩落すべきか、と考えているとメイが声を差し挟んだ。
「あの、あたしの情報って、それってあたしが誰か、って事ですよね? 何でプラズマ団が? やっぱりあたし、おかしいんですか?」
メイの興味に、「後にしろ」と厳しく振り向ける。しかしメイは追いすがった。
「あたし、やっぱりおかしいんですか? だから、メロエッタが……」
どこまで知っているのかは知らないが、メイにこれ以上教えるべきではない、とアーロンは判じていた。今の状況では掻き乱すばかりだ。
「炎魔と瞬撃にどれだけ教えられたのかは知らないが、後にしろと言っている。でなければ、死ぬぞ」
「死んでも、自分が何者か分からないよりかはずっといい! アーロンさん、教えてください。あたしは……」
何者なのか。その言葉の後半は涙声だった。コートを引っ張るメイの手を振り払い、「平穏に過ごしたいんだろう」と返す。
「なら、首を突っ込むな。お前が何者であろうと、いや、たとえ何者か分からなくとも炎魔と瞬撃と築いた関係まで消えるわけではあるまい」
「そこには、アーロンさんは含まれないんですか」
幾ばくかの沈黙を挟んだ後にアーロンは口を開く。
「……敵が来る。そのような事にこだわっている場合ではない」
メイの手を引きアーロンはビルの波導を読んだ。ピカチュウの電撃を通し、波導を切断してゆく。すぐさま空いている窓から飛び出し、隣のビルへと電気ワイヤーで飛び移る。
直後に崩落したビルの粉塵が凍結していった。それを目にしたメイが震撼する。
「ラピスちゃん……!」
「諦めろ。もうスノウドロップに声は通じない」
飛び移るや否や、メイが身をよじる。そのせいでバランスを崩しそうになった。
「離してください! ラピスちゃんが! あの子が呼んでいるんです!」
「目を覚ませ。暗殺者は誰の手助けも受けない」
「ラピスちゃんは殺し屋なんかじゃ!」
「まだ分からないのか!」
思わずアーロンは声を荒らげていた。メイが硬直する。肩を引っ掴み、「暗殺者に、夢は要らないんだ」と声にした。
「余計な夢は、まだ戻れるのだという浅はかな希望になってしまう。暗殺者にとって何よりの毒はそれだ。どのような毒使いよりも、どのような恐ろしいポケモン使いよりも、なお暗殺者を殺せるのは一般人の希望なんだ。それがいかに暗殺者を、殺し屋を苦しめるのか、お前に分かるか? 誰かが一言、まだ戻れる、そっち側の人間ではない、と言うだけで……、淡い希望を抱いてしまう。それが、暗殺者を殺す、最大の毒だ。スノウドロップを、お前は殺したいのか?」
言い過ぎたか、と感じつつもアーロンは撤回するつもりはなかった。メイは困惑して視線を逸らす。
「違う……、あたしは、そんなつもりじゃ」
「そんなつもりじゃなくってもそうなるんだ。そう聞こえてしまうんだ。優しい夢を囁いて、スノウドロップを殺し屋じゃなくさせるのは、今まで人殺しをしてきたスノウドロップを殺す事でもある。覚えておけ。暗殺者は、片面だけで生きているわけではない。両面があって初めてその人間たらしめるんだ。炎魔だって、お前の介入は危険だった」
シャクエンの事を引き合いに出すとメイは戸惑って声を詰まらせる。
「でもあたし、そんなつもりじゃ……」
「そうでなくとも、お前の言葉は暗殺者を殺す。裏で生きている人間に夢は見せるな。殺し屋は、人並みの夢なんて見ないのだから」
夢を見ないからこそ、現実と常に戦える。アーロンは振り返ってビルの崩落に巻き込まれたと思しきラピスを探した。波導の眼で感知しようとすると突然にビルを割った凍結の津波があった。アーロンはすぐさまコートを翻し、隣のビルへと飛び移る。先ほどまで自分達のいたビルが発生した氷の刃で切り裂かれていた。
「これは……、どうなっているんです!」
「ラピス・ラズリのユキノオー。その力の片鱗か。風圧を急速に凍てつかせてビル風でビル同士を干渉、自壊を狙っている」
「そんな事、普通は」
分かり切っている。普通は出来ない。だがこの街最強の殺し屋ならば出来る。
アーロンは舌打ちする。スノウドロップのユキノオーは見るまでもなく特別だ。あれとまともにやり合おうというのは間違っている。先ほどメイを攫うために近づいただけでも危うかった。
「お前を盾にしても、今さら許してくれそうもないな」
「分かっているのなら和解を」
「してどうする? もう殺す事しか見えていない相手だぞ? 降伏したところで待っているのは惨い死だけだ」
先ほどまでの凍結攻撃もまずかった。氷の刃や氷柱の掠めた箇所からは確実に血が滲んでいる。これほどまでの相手は最早暗殺者、という括りでは生温い。
あれは、殺戮兵器だ。
人を殺す事にかけてはこれ以上ない最強の生物兵器。
「どう足掻いても分かり合えるとは思えない」
ようやく射程外に出たかと思ったが、まだラピスのプレッシャーは健在だ。射程外など存在しないのか。アーロンはビルの波導を読んで切断する。再び崩れ落ちたビルで狙ったのは、ドミノ倒しのようにビル同士を巻き込んだ破壊方法だった。これで少しは時間を稼げるか、と考えたアーロンの意図を破り去るように視界の中でユキノオーが咆哮した。
その咆哮だけで直線上のビルが射抜かれる。氷の弾丸が最大音響として放出された。しかも放出範囲にはしっかり氷柱まで構築されている。飛んできた氷柱をアーロンは手を払って電撃でいなす。だが全てかわし切れるわけではない。
数本が電撃の網を越えてアーロンの脚に突き刺さる。貫いた激痛に着地姿勢を崩した。
その瞬間をラピスは見逃さない。
咆哮で空いた穴からアーロンを目にし、ラピスがすっと手を掲げる。
まずい、と全身の神経が伝える。危険信号を発する脳細胞からラピス・ラズリを視界に入れている視神経まで、全身が粟立ち告げている。
ここから逃げろ、と。
アーロンは足に力を入れようとするが、氷柱を取らなければ跳躍出来そうにない。
その時、声が響き渡った。聴覚ではなく、波導使いの全細胞を震わせる声だった。
「ユキノオー、メガシンカ」
まさか、という思いに駆られる。ラピスの掲げた右手の甲から光が発せられ、ユキノオーを紫色のエネルギー甲殻が包み込んだ。
まさか、と汗が伝い、首筋が急速に冷えてゆく。汗の一滴でさえも凍結させる領域に唾を飲み下した。
咆哮と共に甲殻が飛び散り、その姿が露になる。
ユキノオーの全身が波立つように毛が逆巻き、背中からは二本の巨大な氷柱が根を張って飛び出していた。四足になりながらも巨大さは増しており、放たれるプレッシャーは段違いだった。
その名は――。
「――メガユキノオー」