第四十九話「キリングマシーン」
「ちょ、ちょっとラピスちゃん!」
声にするとラピスは立ち止まった。先ほどからメイの手を引いて案内するラピスだが徐々に裏通りに入っているのが分かる。それも深部であった。
「こんなところ、来た事ないよ……」
呟くとラピスは、「大丈夫」と告げる。
「ラピスだって滅多に来ないから」
それは大丈夫ではないのではないか。返そうとするとシャクエンがメイの背後を守るように背筋を当てる。
「メイ。どこから波導使いが来てもおかしくはない」
シャクエンの戦闘本能は本物だろう。しかし、どこから。メイは空を仰ぐ。どこにもそれらしい影はないではないか。
「アーロンさんが来たって、プラズマ団にそそのかされたんでしょう? だったら、話し合いで――」
「もうそういう領域じゃなさそうだけれど。あたいの見る限り、ここいらの殺気の渦がスゴイよ」
アンズが張り詰めた声を出す。どこに殺気など渦巻いているというのか。メイは、「早く、表通りに出れば」とラピスの手を引こうとした。
「表通りなら敵同士で戦わなくっても」
メイの淡い期待を打ち砕くようにラピスは頭を振る。
「もう手遅れ。――来る」
何が、という主語を欠いたままの言葉にラピスがモンスターボールを手に取った。そのまま真上に放り投げる。
「出てきて」
ラピスの声に導かれ出現したのは白い鬼であった。そう錯覚するほどに充満した雪の結晶が砕け散って様々な位相を示す。白い鬼が吼えて自身の周囲に展開した凍結領域を弾き飛ばした。眼が赤く染まっており、既に戦闘の気配を漂わせている。
「ユキノオー」
ユキノオーと呼ばれたポケモンは新緑の色を引き移した両腕を払う。それだけで眼前のビルが下層から凍り付いてゆく。凍結が可視化されてビルを覆い尽くした瞬間、内部から破砕された。
今の攻撃がラピスの持つユキノオーの力なのだろうか。メイの視線にラピスは肩越しに振り返って口にする。
「すぐ終わるからね、お姉ちゃん」
その声音は平時のものであったが、あまりにも現状からかけ離れていて現実から遊離したもののように思えた。
ビル一つを凍結攻撃で破壊した直後、倒壊の風圧が煽り、宙に浮かぶ影を映し出す。
青いコートを風にはためかせ、帽子を目深に被った男がユキノオーの凍結領域に入った。
アーロンだ、と認めた瞬間、メイは叫んでいた。
「避けて!」
「遅い、吹雪」
瞬間的に風力が増した。白い闇に掻き消され、アーロンの姿が立ち消える。まさか、という予感があった。今の攻撃だけでアーロンは死んでしまったのではないか。
「アーロンさん!」
「ユキノオーの特性は雪降らし。霰状態を作り出し、吹雪は必中。この状態で、生きている確率は」
ラピスの声音を遮ったのは雷鳴だった。一筋の青い電流が「ふぶき」の白い闇を切り払い、割れた視界の中に波導を纏った暗殺者の姿を顕現させる。
「うるさいぞ」
その声が思いのほか平坦だったのが意外だった。焦るでもなく、この勝負に頓着している風でもない。ただ、うるさいと思っただけのような。
「う、うるさいって何ですか!」
思わず言い返すがラピスが手で制する。まだ勝負がついていない、とでも言うように。
「スノウドロップのラピス・ラズリ。俺を殺せと言われたか?」
「お姉ちゃんを守れ、と」
「その用ならば合い争う必要はない。俺はそいつの無事を確認出来ればよかった」
戦闘の気配はない。思っていたよりも早く丸く収まるか、と一瞬期待した。だが、シャクエンが舌打ちする。
「駄目だ。アーロン、既に」
その言葉が消える前に直下から凍結の腕が伸びる。くわえ込もうとした凍結領域を電気ワイヤーで別のビルに飛び移って回避する。ラピスは迷いなく宝石の眼差しを向けている。
迷いのない敵意で。
「そんな……。ラピスちゃん! アーロンさんは、戦う気はないって」
「この領域に入ってきた以上、もう戦わない選択肢はないんだよ、お姉ちゃん」
ユキノオーが咆哮する。霰が包囲陣形を整えてアーロンを追尾した。ビルに飛び移った途端、またしても猛吹雪の中にアーロンは立たされる。
「飛び移らせるような時間はかけさせない」
瞬時に凍て付いたビルが内部から破砕する。粉塵さえも凍り付き、煤けた風がそのまま細やかな刃となってアーロンの身を襲った。アーロンは電撃で弾き落とすがいくつかは確実に命中したはずだ。
メイはラピスの手を引いた。
「ラピスちゃん! これ以上は、もう!」
しかしラピスは答える様子もない。アーロンに敵を見る目を向けたまま次の包囲陣を組もうとする。氷柱が瞬間的に構築され、アーロンの眼前に四つ展開された。幾何学の軌道を描きアーロンに突き刺さろうとする。
電気の皮膜が青く輝き、氷柱を撃墜するがあまりにも速い攻撃の手に追いついていない。アーロンの肩口へと深々と氷柱が突き刺さった。血の一滴でさえも落とさせず、血飛沫を凍らせてアーロンへと追撃ダメージを加える。
「やめさせて! シャクエンちゃん! アンズちゃん!」
もう自分ではどうしようも出来ない。そう判断しての声だったがアンズとシャクエンは揃って慄くばかりだった。
「……無理。もうスノウドロップは戦闘モードに入っている。これを解除するのは、同じ暗殺者でも、無理」
シャクエンは苦渋を滲ませた声音で返す。アンズは、と目線を向けたが彼女はまずこの状況についていけていない。
「……スノウドロップ。特A級の暗殺者だとは聞いていたけれどここまでとはね。メイお姉ちゃん。もうあたい達の声、聞こえていないよ」
ラピスは集中してユキノオーの凍結を制御している。一手でも多くアーロンを疲弊させる事しか考えていなかった。否、疲弊など生ぬるい。
――殺す事しか、考えていない。
その在り方にメイは恐怖する。ここまで暗殺に特化した人格が何故作られたのか。普段は幼い少女なのに、何が彼女をそうさせるのか。
「もう、マインドセットだとか、そういう段階を超えているよね……。ラピス・ラズリは殺戮兵器だ」
アンズの断じた声にメイは言い返していた。
「違う! ラピスちゃんは、殺戮兵器なんかじゃ……」
そこから先の声を発する前に高周波が耳を劈いた。次々と周辺のビルを氷の虜にするラピスの攻撃は絶え間なく変化を繰り返す。「ふぶき」だけを固定装備として持っているわけではない。絶えず変化し続ける戦況において相応しい武器を取捨選択するだけの……そういう「概念」に近い。
「ラピスちゃん……」
もう自分を守る、という言葉をも忘れているようだった。ラピスはただ、アーロンの存在を一片でも消し去るためにユキノオーに攻撃を命じ続けている。接近を一切許さず、凍結の腕でアーロンを虫けらのように払い除ける。
見ていられなかった。
メイはラピスの視界を遮るように前に出る。
「メイ!」
「駄目! メイお姉ちゃん!」
シャクエンとアンズの声が相乗するが構いやしなかった。ラピスを止めなければ、この戦争は終わらない。
「ラピスちゃん! あたしは、もう大丈夫だから!」
しかし声は聞こえていない。ラピスは手を払ってアーロンを叩き潰そうとする。
こうなってしまえば方法は他になかった。
「ラピスちゃん!」
振るった張り手がラピスの頬を捉える。
その瞬間、全ての音が消えた。
凍結の腕によるビルの破砕も、霰と吹雪による轟音も、電撃の干渉音も。何もかも消え去った無音地帯の中心でラピスは張られた頬に手を当てた。
「……痛い」
「ラピスちゃん。もういいよ……、もういいから……」
アーロンさんを傷つけないで。
ラピスの手を握って懇願する。もう誰も傷つけたくないのに。ラピスは完全に呆気に取られているようだった。頬をもう一度さすり、「痛かった」と呟く。
「ゴメンね。痛かったね。でも、それくらい、あたしにとっては嫌だった。ラピスちゃんとアーロンさんが殺し合うなんて、絶対に……」
あってはいけないのだ。メイの心の訴えにラピスはおぼつかない声で返す。
「何で、お姉ちゃんが泣いているの?」
涙が頬を伝っていた。これ以上、大切なものを失いたくはない。その心が熱く染み渡る。
「分かんないよ、あたしだって……。でも、嫌だから」
嫌だから、としか説明出来なかった。嫌だから泣いているのだ。涙が止め処ないのだ。
「嫌だから……。それはお姉ちゃんが、ラピスを嫌いになったから、って事?」
小首を傾げる小さな暗殺者にメイは、「違うよ」と声にした。
「嫌いになんてならない。大好きだから、嫌なんだよ……」
「大好きだから……」
ラピスは繰り返す。理解出来ない感情とでも言うように。
「ラピス、大好きなものはもう全部どこかに行っちゃったから。もうこの世界に大好きなものなんて一個も残っていない。だから奪える。いくらでも、何にでもなって。ラピスは主様のために……」
その手をメイは自分の胸元に当てた。ラピスが目を丸くする。
「お姉ちゃん?」
「じゃあ、あたしも嫌いになった? あたしの命も奪えるの?」
ラピスは押し黙った。まるで小さな悪戯をいさめられたように声をなくす。
「……分かんない。ラピス、お姉ちゃんの事、どう思っているかなんて」
「あたしは大好き。ラピスちゃんが、大好きだよ」
メイの言葉にラピスは目を見開く。「でもね」と言葉を続けた。
「同じくらい、アーロンさんも大切。だから、殺し合いなんてやめて。こんなラピスちゃん、見たくないよ」
ラピスは目を瞠ったまま自分の手を眺める。紅葉のように小さな手。何かを殺す事なんて一生出来ないような掌。
「ラピス……もう分からない。主様は殺すしかないって言っていた」
「それ以外の道を行こうよ。もう、殺すだなんて」
言わないで欲しい。ラピスにはただ純粋に笑っていて欲しい。メイの主張にラピスは顔を伏せた。
「分かんない、分かんない、分かんないよ……。何が正しいの? 何が間違いなの? 教えて主様……。あの日、教えてくれたように。新世界を見せてくれたように。ラピスに教えて……」
ラピスの訴えかけにメイは唖然とする。彼女ももしかしたら分かっていないのではないか。どうして殺し合いなんて事に巻き込まれているのか。どうして人殺しをしなければ生きていけなくなったのかを。その清算を、一個も済ませないままここまで来てしまった。戻れないのは彼女も同じだ。
「ラピスちゃん。でも、もう殺し合いなんて……」
やめよう、と言おうとしたその時だった。
背後に降り立った人影がメイの肩を掴む。冷たい声が弾けた。
「動くな。動けば波導を切って殺す」
振り返る。
身体の至るところに凍結の刃を突き立てられたアーロンが佇んでいた。壮絶なその面持ちからは一つの物事の帰結しか見出せない。
――この人は自分を殺そうとしている。
メイはその眼差しの前に動けなくなってしまった。ラピスが咄嗟に手を払い、声にする。
「ユキノオー、ウッドハンマー!」
ユキノオーが新緑の腕を振るい上げる。腕が拡張し、巨大な樹木の槌を作り上げた。その槌を振るい落とす。アーロンは右腕を掲げて声にした。
「ボルテッカー」
ピカチュウから放たれた青い電流の塊が弾け飛び「ウッドハンマー」を構築したユキノオーの腕を払い除ける。一瞬だった。青い電流がのたうった一瞬でラピスを抱えてユキノオーが飛び退る。
先ほどまでユキノオーがいた場所を雷が撃ち抜いていた。
メイには何も出来ない。呼吸でさえも。
アーロンに身体を引かれて後退した事だけは分かった。しかしそれが事態の好転に繋がらないのは離れたユキノオーとラピスの眼を見れば明らかだ。
「波導使い……」
忌々しげに放たれた声はラピスのものとは思えなかった。アーロンはメイを抱えたまま、「動くなよ」と脅す。
「動けば波導を切る。三度も言わせるな」
再三の通告はラピスに戦闘をやめさせるためだとメイは最初思っていた。だがラピスの顔が険しくなり、シャクエンとアンズが色を失ったように青ざめたのを目にしてこれは全くの真逆なのだと思い知る。
「炎魔と瞬撃もだ。お前らも動くな」
メイにはわけが分からない。わけの分からないままアーロンの声だけが耳元で弾ける。
「……アーロンさん?」
「お前も余計な事を言うな。殺すぞ」
押し殺した声には本気の色が混じっている。この殺し屋は本気だ。本気で自分を殺すつもりなのだ。
そう悟った時全身から力が抜けた。
虚脱状態に陥ったメイをアーロンが引っ張る。
ユキノオーの凍結が空間を奔りアーロンを捉えようとするが既に遅い。白い靄が形状を成して噛み砕いた空間を跳び越えて、アーロンはビルへと駆け込んでいった。